第41話 現場監督、七割の重さを見る
朝霜を踏む足音が、堤の跡地にいくつも重なる。空気は刺すように冷たく、誠の吐く息は白く尾を引いた。遠くの梢に霜がびっしりと張りつき、朝日を受けてわずかに光っている。土を打つ音、木槌の音、荷を運ぶ足音――それらが重なり合い、現場特有のリズムを作り始めていた。
誠は堤の全長を歩きながら、進捗を目で追った。
杭から杭へ、盛土が確実に高さを増している。まだ全体の三割程度だが、当初の計画通りの速さだった。
ミラは堤の一区画に張り付き、土を薄く広げては両手をかざしていた。層を作る。押し固める。溝を通す。その一連の動きに、もう迷いがない。以前は誠が逐一指示していた「掌一枚分」の厚みも、今は目分量で正確に揃えられていた。
盛り上がる土の量も、以前とは比べ物にならなかった。かつて村の側溝で見せた粗い一盛りとは違う、幾重にも折り重なる層が、規則正しいリズムで積み上がっていく。土埃が朝日に舞うたび、金色の粒子が層の輪郭をなぞるように光った。
「監督、この区画、終わった」
「見せてみろ」
誠は指で層の断面をなぞった。硬い。隙間もない。以前、地面で練習した小さな模型と、寸分違わぬ締まり方だった。
「上出来だ。次の区画へ移っていい」
ミラは小さく頷き、隣の区画へ移動していく。土を運ぶ村人たちが、その後を追うように動いた。運搬班が土を積み、ミラが層にし、また運搬班が次の土を運ぶ。誰に言われるでもなく、その順番が現場に馴染んでいた。
「監督、水抜きの溝、ここでいいですか」
声をかけてきたのは、運搬班の若い村人だった。誠は溝の位置を一瞥する。
「深さがまだ甘い。あと指二本分、掘り足せ」
「わかりました」
短いやり取りだったが、以前ならこの手の確認自体がなかった。今では誰もが、自分の持ち場でどこを疑うべきか、勘所を掴み始めている。工程表を張り出し、朝礼で今日の危険箇所を共有する――その積み重ねが、現場の言葉を村人たちの体に染み込ませていた。
護衛班の姿も、もうすっかり景色に溶け込んでいた。
ガインの部下たちは、堤の外周を一定の間隔で歩き、川面と資材置き場に交互に目を配っている。最初の数日は、村人たちとの間に見えない壁があった。だが今では、荷運びの列とすれ違うたびに、自然な形で道を譲り合っている。
「おい、そっちの縄、緩んでるぞ」
護衛の一人が、資材を運ぶ村人に声をかけた。指摘された村人が慌てて縄を締め直す。
「悪い、助かった」
「気にすんな。荷崩れで足を潰されちゃ、こっちの警備も間抜けになる」
軽口混じりのやり取りに、周りから小さな笑いが漏れた。数日前まで見えていた壁は、もうほとんど残っていない。
昼の休憩どき、村人の一人がガインの部下に椀を差し出しているのが見えた。
「これ、余りだけど。冷えるだろ」
「悪いな。いつも警備で突っ立ってるだけだから、こういうのは久しぶりだ」
護衛が椀を受け取り、ひと口すすって目を細める。誠はその光景を、少し離れた場所から見ていた。村と町、二つの人間が、同じ現場の飯を分け合っている。橋を架けた時には、まだなかった景色だった。
ガイン自身は、堤の上流側に立ち、川の流れを睨むように見ていた。誠が近づくと、視線だけをこちらに向けた。
「水量、変わりないか」
「今のところは。だが油断はしてない」
「頼む。増水の兆しがあれば、真っ先に知らせてくれ」
「言われなくても」
短いやり取りだったが、そこに以前のような刺々しさはなかった。誠はその背中を見ながら、この十日で積み上がったものの厚みを、あらためて感じていた。土だけではない、と思ったあの日の言葉が、今、少しずつ形になっている。
昼を過ぎた頃、掘削班が新しい区画に取り掛かった。
旧堤防のまだ手をつけていない部分――当初の計画では、来週以降に着手する予定だった箇所だ。掘削の振動が、地面を伝って足元まで響いてくる。
誠はふと、堤の隣接部分に視線をやった。
【大地審眼】が、その一角を映し出す。
黄色だった色が、見ている間に赤へと変わっていく。
(速い……)
想定していた劣化の進み方より、明らかに速い。掘削の振動が、隣接する未着手部分にまで伝わり、緩んだ土を一気に不安定にしていた。
誠が異変に気づいた、その位置のすぐ下――ガインの部下の一人が、資材の受け渡しのためにしゃがみ込んでいた。
見る。判断する。動く。
「そこ、離れろ!」
声を出すより先に、誠の足はすでに地面を蹴っていた。距離、崩れるまでの猶予、自分が届くかどうか。考えるより早く、体が答えを出していた。
土が唸りを上げて動き出す。誠は男の襟首を掴み、力の限り引き倒した。二人分の体が、崩れてくる土砂の外側へ転がり出る。
背後で、鈍い音とともに土砂が地面を叩いた。
しばらく、誰も動かなかった。
「……おい、大丈夫か」
先に口を開いたのはガインだった。駆け寄りながら、部下の肩を掴む。
「あ、ああ……」
土埃にまみれた部下が、呆然と頷いた。数秒遅れていたら、と誰もが同じ想像をしていた。
誠は土砂の跡を見つめ、荒くなった息を整えた。
崩れた土は、思ったより広い範囲に及んでいた。だが、それ以上の被害はない。
「悪い……油断してた」
ガインの部下が、震える声で言った。誠は首を振った。
「油断じゃない。想定が甘かったのはこっちだ」
誠は崩れた跡に手を当て、もう一度【大地審眼】で確かめた。振動が伝わる範囲、土の緩み方。想定より一回り広い範囲で、同じことが起こり得る。周囲に集まってきた村人たちも、崩れた土の量に息を呑んでいた。
「掘削班、少し止める」
誠は声を張った。作業の手が、次々と止まっていく。
「隣接する未着手区画は、振動で緩みやすくなってる。掘削は、一区画ずつ十分な距離を空けて進める。今日はここまでにして、明日の朝礼で段取りを組み直す」
村人たちの間に、緊張と納得が入り混じった空気が広がった。誰も、文句は言わなかった。むしろ、誠が声を張ったその一瞬の速さに、あらためて何かを感じ取っているようだった。
ガインが、まだ土埃の残る部下の肩を叩きながら、誠の方へ向き直った。
「助かった」
短い一言だったが、そこに込められたものは軽くなかった。
「お互い様だ。次に守るのは、あんたらの役目だろう」
ガインは口の端を上げ、それ以上は何も言わなかった。だが、部下を見る目には、これまでとは違う張りがあった。
夕刻、誠は今日の出来事を紙に書き留めた。振動の伝わる距離、緩みの速さ、崩れた土の量――数字にして残しておけば、次の現場でも同じ間違いを繰り返さずに済む。
「監督」
ミラが隣に来て、崩れた跡を見つめた。
「また、危ないところだった」
「ああ。だが、今日気づけてよかった」
「これから先も、こういうこと、あるのかな」
「ある。規模が大きくなるほど、見落としも増える。だから、毎日視て、毎日確かめる」
ミラは黙って頷いた。それから、崩れた跡の隣、まだ手つかずの区画に目を移した。
「あの規模、あとどれくらい残ってるの?」
「七割」
数字を口にすると、ミラの表情がわずかに引き締まった。だが、怯んだ様子はなかった。
冷えた風が、堤の跡地を吹き抜けていく。杭の並びと、盛られたばかりの層が、夕日を受けて長い影を落としていた。
三割が終わった。だが、残りの七割には、まだ見えていない落とし穴がいくつも潜んでいるはずだった。
雪解けまで、時間は待ってくれない。
次回の更新は、8月18日 21:10を予定しています。
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