第39話 現場監督、力任せの跡を視る
レオンの城を発ったのは、まだ夜が明けきらぬうちだった。クロイツェンの喧騒を抜け、街道に出る頃には、朝靄の代わりに乾いた木枯らしが頬を打つようになっていた。街道の脇の木々は葉を落としきり、刈り入れの終わった畑が両側に広がっている。
隣を歩くミラが、荷物を担ぎ直しながら口を開く。
「監督、久しぶりに村に帰れるね」
「そうだな」
「いろいろあったけど、私、あの村の空気が好き。土の匂いが違って」
誠は思わず笑った。土魔法使いらしい感想だ、と思う。
日が傾くのが、随分早くなった。まだ午後の半ばだというのに、影が長く伸びている。冬は、思ったより早く来る。堤の仕事は、雪解けまでに算段をつけなければならない。悠長にしている暇はなかった。
村道に入ると、轍の跡がくっきりと残っていた。踏み固められた土は、雨上がりでもぬかるんでいない。誠が最初にこの村で手を入れた場所だ。
遠くで、子供の甲高い声が響いた。道の上を、迷いのない足取りで駆けていく後ろ姿には見覚えがあった。ピノだろう。転びもせず、水たまりも避けもせず、まっすぐに走っていく。
すれ違いざま、ピノがこちらに気づいて足を止めた。
「監督だ! ミラ姉ちゃんも!」
「久しぶりだな」
「見て、この道、まだ全然ぬかるんでないよ!」
得意げに地面を踏んで見せると、ピノはまた駆けていった。あの日、足首を捻挫して泣いていた子供が、今はもう、この道の上を当たり前のように走っている。誠は小さく息を吐いた。こういう積み重ねのために、段取りを組んでいる。
「おお、誠」
太い声に振り返ると、ドルガが鍬を杖代わりに、こちらへ歩いてくるところだった。以前よりわずかに白髪が増えたようだが、背筋はまだ真っ直ぐだ。歩く速さも、記憶にあるものと変わらない。
「戻ってきたか」
「まだその鍬、手放せないのか」
ドルガは喉の奥で笑った。
「これがないと、歩いた気がせんのでな。……橋も道も、まだ保ってる。お前さんの仕事は」
「見りゃわかるよ」
短いやり取りだけで、互いの無事を確かめ合うには十分だった。ドルガの背後、村の家々からは夕餉の支度らしい煙が立ち上っている。遠くでハンナの家の方角から、煮炊きの匂いが漂ってきた。ガルフの太い笑い声も、どこかから聞こえた気がする。テオの姿はまだ見えないが、朝礼の号令をかけている頃合いかもしれない。
村を離れていた間も、ここでは暮らしが続いていたのだと、誠は改めて思う。崩落現場も、城代との対決も、どこか遠い出来事のようだった。この村の匂いと音の中に立つと、あちらでの緊張が、少しずつ体から抜けていく。だが今日は、その暮らしを一つずつ確かめている時間はあまりなかった。
誠は本題を切り出した。
「頼まれてきた。ローデン川の堤、直すことになった」
ドルガの表情から、一瞬で笑みが消えた。
「暴れ川か」
「知ってるのか」
「この村の大人で知らん者はおらん。……あれは、人の手に負える相手じゃない。何度盛っても、その度に呑まれる」
ドルガは鍬を握り直した。節くれだった指に、力がこもるのが見えた。
「わしの若い頃も、何度か堤が切れた。田畑も、人も、幾人か持っていかれた。……今さら、どうにかなるものか」
ドルガの声には、諦めとも警戒ともつかない響きがあった。だが誠を見る目には、村道が完成した時と同じ光も残っている。
「案内してくれ。まずは、視る」
村外れの旧堤防跡まで、ドルガに先導されて歩いた。近づくにつれ、川音が大きくなる。堤そのものは、思っていたよりずっと巨大だった。人の背丈の何倍もの高さで、村を囲むように長く延びている。橋の架け替えの時に見た岸辺とは、規模が違う。誠は堤に沿って歩きながら、目測でおおよその全長を測った。頭の中で、必要な資材と人手の数字がまた勝手に組み上がっていく。
誠は堤の腹に手を当てた。
【大地審眼】が土の内側を透かす。
――赤い。
端から端まで、途切れることなく赤かった。セラと二人で下見をした、下流の堤とは違う。あちらは黄色に赤が混じる、繰り返しの継ぎ接ぎだった。だが、こちらは違う。層になっていない。締固めの跡もない。まるで一度、途方もない力でまとめて盛られ、そのまま数十年放置されたような、巨大な一枚岩のふりをした土塊だった。
「一度に盛られてる」
誠は思わず呟いた。歩きながら数か所、同じように手を当てて確かめる。どこも同じだ。表も裏も、上流側も下流側も、まったく同じ雑さで積まれている。
「これだけの量を、一気に……人力じゃ無理だ」
ドルガが頷いた。
「わしがまだ若い頃、宮廷の魔法使いとやらが来た。中央から遣わされたとかで、村中が大騒ぎだったのを覚えとる」
「その人が、これを」
「一日でな。土煙が晴れたら、もう堤ができとった。村中で拝んだもんだ」
ドルガは堤を見上げ、目を細めた。まるでその日の土煙を、今も見ているような目だった。
「だが、それっきりだ。教えも残さず、翌日には発って行った。……以来、誰も直し方を知らん。崩れたところは、村の魔法使いが見よう見まねで継いできただけだ」
「見よう見まね、で」
「他にどうしようもなかった。あれだけの魔法使いは、二度とこの村には来ん」
ドルガの声に、諦めの色が滲む。誠は堤の断面を、もう一度指でなぞった。厚みはある。力はある。だが、水を抜く道も、締める層もない。ただ大きいだけの、空っぽな仕事だった。
力で押し切れば、その場は形になる。だが保たない仕事は、結局また誰かの命を危険に晒す。前世でも、ここでも、同じことだ。
隣で黙って聞いていたミラが、堤に向かって小さく手をかざす。土の質感を確かめるように、指先で表面をなぞった。
「これ……力だけ、だよね」
「そうだ」
「私、これより、うまくやれると思う」
短い一言だったが、そこに込められたものは軽くなかった。誠はミラの横顔を見た。かつて「気味悪い」と言われ、縮こまっていた娘の目に、今は迷いがない。
「やってもらう。ただし、この規模だ。今日明日の話じゃない」
「うん、わかってる」
川音が、いつもより大きく聞こえた。
宮廷の魔法使いが一日でやったことを、これから何日もかけて、正しくやり直す。誠は堤の全長に目を這わせながら、頭の中で工程を組み始めていた。測量、地質の確認、資材の手配、人員の割り振り――順序を間違えれば、この巨大な土塊と同じ末路をたどる。
まずは杭を打って測量からだ。堤の断面図を起こし、どこにどれだけの層を重ねるか、ミラにどう心象を渡すか。決めることは山ほどある。だが焦って手順を飛ばせば、宮廷魔法使いの二の舞になる。
ドルガが隣で、堤を見上げたまま呟いた。
「今度は、保つのか」
「保たせる。そのための段取りだ」
即答すると、ドルガは何か言いかけて、結局黙って頷いた。長年、崩れることに慣れきった村に、まだ言葉より先に信じられるものはないのだろう。それでいい、と誠は思う。信じるかどうかは、後からついてくる。
日はすでに、稜線の向こうに半分沈みかけていた。冬が来るまでに、測量だけでも終わらせなければならない。
次回の更新は、8月16日 21:10を予定しています。
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