第38話 現場監督、十年分の重さを受け取る
応接間の窓から差し込む朝の光が、傷んだ絨毯の上に長く伸びていた。壁には由緒ありげな紋章旗が掛かっているが、端がわずかにほつれている。金のない辺境伯領らしい、飾りと実情の隙間だった。
誠は案内されるまま長椅子に腰を下ろす。木の軋む音。まだ誰もいない部屋に、蝋の匂いと、換気の悪い石壁特有の冷えた空気が満ちていた。窓の外では、まだ朝靄の名残が城壁の下に薄く漂っている。
昨日、セラが口にした一言が、まだ耳に残っている。
(閣下は、本気でこの川に手を入れるおつもりです)
本気、か。誠は自分の掌を見た。爪の間に、まだ堤の土が僅かに残っている。何度洗っても、次の現場でまた同じところに入り込む。この体は、もう現場のためにできている。
以前、初めてこの部屋に通された時は、腰を下ろすのにも許可を待つような気分だった。今は、勝手に長椅子に座り、勝手に部屋を眺めている。閣下、と呼んでいた頃の自分が、ずいぶん遠くに感じられた。
前世では、こういう場に呼ばれることなどなかった。呼ばれるのはいつも、工期を詰められる時か、事故の後の始末をつけさせられる時だけだった。今日ここに呼ばれた理由は、そのどちらでもない。それだけで、少し不思議な気分になる。
扉が開いて、レオンが入ってきた。従者も連れず、着るものは相変わらず質素で、袖には継ぎが当たっている。誠はそのまま座って軽く目礼するだけで済ませた。
「待たせたな。……いや違う、そこまで待たせてないはずだ。お前が早すぎる」
「性分なんでね」
レオンは笑って、向かいの椅子に腰を下ろした。長椅子が、体重の割に軽い音を立てる。
「相変わらず、いい椅子は買えないんだな」
「痛いところを突くな。堤の予算に回してる、ということにしておいてくれ」
「その言い訳、三回目だろ」
「数えてるのか、律儀なことだ」
軽口を挟んでから、レオンの表情がわずかに引き締まった。
「セラから聞いたか。今日呼んだ理由を」
「川、だろう」
「話が早くて助かる」
レオンは机の上に一枚の地図を広げた。青い線が、蛇行しながら領内を貫いている。ところどころに赤い印がついていた。数えるまでもなく、印は十を超えている。
「ローデン川だ。……お前はまだ橋と道しか見てないから知らないだろうが、地元の連中は昔からこいつを『暴れ川』と呼んでる」
「暴れ川」
「本来、あのあたりは豊かな土地なんだ。氾濫のたびに養分を運んでくるからな。……その代わり、毎年のように暴れる。だから、堤が保たない」
レオンの指が地図の赤い印を一つずつ辿る。モーレン村の名も、川沿いに小さく記されていた。橋を架けた場所からさらに下流、これまで足を運んだことのない土地まで、赤い印だらけになっている。
「これが、ここ十年の氾濫の跡だ」
「規模は」
「村がふたつ、田畑がその何倍か。堤の総延長でいえば、橋の架け替えの、優に十倍は見ておいてくれ」
誠は思わず眉を寄せる。土の量も、人手も、資材も、これまでとは桁が違う。頭の中で、段取りの骨組みがまた勝手に動き出す。何人集める、資材はどこから、道具は足りるか。
「人手は」
「村とクロイツェンから、できる限り集める。冒険者ギルドにも声をかけていい」
「予算は」
「ないよ、正直に言うと」
レオンは肩をすくめた。
「うちの実入りは知っての通りだ。だが、雪解けの水が来るまでに、堤を持たせる算段をつけておきたい。今年もまた同じことになる前に」
誠はふと、地図の隅に古い染みと、几帳面な文字の書き込みがあるのに気づいた。何重にも書き加えられ、消され、また書き直された跡がある。まるで長い年月、同じ場所を何度も指でなぞってきたような跡だった。
「これ……前にも、動こうとしたことがあるのか?」
レオンの表情が、初めて硬くなった。
「親父の代ではな」
レオンは机の引き出しから、古い書類の束を取り出す。黄ばんだ紙、いくつもの印章、そして共通して「却下」あるいはそれに類する一言。誠はその束の厚さに、まず驚いた。一年や二年の厚さではない。
「親父は十年前から、中央に治水のための援助を求め続けてた。技師を寄越してくれ、資材を融通してくれ、資金援助を、と。……だが、毎年断られて、いつしか援助を求めなくなった」
「そこまで頑なに援助をしないのには何か理由が?」
「ここが辺境だから、だ。北回りの交易路で儲けてる連中にとって、この領が潤うのは都合が悪い。表向きは『予算がない』だがな」
レオンは書類を指で弾いた。
「俺がまだガキだった頃、親父は毎年、冬になると書状を書いてた。夜遅くまで、机に向かって。蝋燭が三本、四本と溶けていくのを、廊下からこっそり見てた記憶がある。……で、春になると、決まって同じ返事が来る。『検討する』。それだけだ。実際は何も検討なんてされちゃいない」
レオンは古い書状の一枚を取り上げ、指でなぞった。
「俺が十二の年、いちばんひどい氾濫があった。夜中に叩き起こされて、丘の上まで走らされた。振り返ったら、村がひとつ、水の中に沈んでいくのが見えた」
声が、わずかに低くなる。
「親父はその年の秋、いつもより分厚い書状を送った。死者の数まで書いて、頼み込んだ。……返事は、いつもと同じだった」
「親父は最後まで、頭を下げ続けた。俺はそれを、ずっと見てた」
短い沈黙が落ちる。窓の外で、誰かの荷馬車の音が遠く過ぎていった。
「情けない話だと思うか」
「いや」
誠は首を振る。
「頭を下げる相手を間違えただけだろう。金のない現場が、頭を下げる先を間違えると、もっと悪いことになる。急かすだけで金も人も出さない元請けに、頭を下げ続けた現場を、俺は知ってる」
レオンはしばらく黙って、それから短く笑った。今日、初めて見せた種類の笑みだった。
「だから、お前に賭けてる。中央じゃなく、俺の目の前にいる男に」
誠は地図を見下ろした。青い線、赤い印、余白に書き込まれた却下の跡。すべてが、この十年の重さを語っていた。橋の架け替えとも、道の補修とも違う。ここにあるのは、一人の男が十年頭を下げ続けて、それでも動かなかった重さだ。
段取り八分、仕事二分。誠は胸の内で、いつもの言葉を繰り返す。段取りさえ間違えなければ、今度はこの重さを動かせる。
「やろう」
短く言うと、レオンは初めて、笑みらしい笑みを見せた。それから机の引き出しからあらかじめ準備されたある紙を取り出し、手早く署名すると、誠の前に滑らせた。
「これは正式な委任状だ。発注書と言ってもいい。……こういうのは、形にしておかないと後々もめる」
「几帳面なのは、セラだけじゃないんだな」
「俺はあいつに仕込まれた口だ。最初は俺も、口約束で済ませようとしてたんだがな」
誠は紙を受け取り、目を通す。日付、範囲、権限の及ぶ範囲――簡素だが、必要なことは漏れなく書かれていた。
「モーレン村から、また始めるか」
「ドルガの爺さんやバルドにも、また声を掛けないと」
「なら、明日発てるように手配しておく」
レオンは書類を束ね直しながら、付け加えた。
「言っておくが、今度のは村道でも橋でもない。うちの領そのものの話だ。……失敗すれば、俺の首も飛ぶ」
「飛ばさんよ」
「頼もしいな、それ」
レオンは笑ったが、目の奥はいつもより真剣だった。誠はその目を見返し、頷いた。
椅子を立ちながら、誠は改めて地図に目をやった。村ふたつ分の赤い印。十年分の却下の跡。これから相手にするのは、土でも木でもなく、この土地に積もった時間そのものかもしれない。
それでも、やることは変わらない。測って、段取って、積む。今度は、桁が違うだけだ。
窓の外で、鳥の声が遠く響いた。
明日には、モーレン村に戻る。
橋を架けた男が、今度は領地ごと守る番だった。
次回の更新は、8月15日 21:10を予定しています。
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