第37話 現場監督、帳簿の向こうを見る
朝靄が川面を這っていた。
誠は堤の上に立ち、長靴の底で湿った土の弾力を確かめる。踏むたびに、じわりと水が滲み出てくる。空気は冷たく湿り、藺草と泥の匂いが鼻の奥に張りつく。対岸の森はまだ輪郭だけの黒い塊で、川音だけが妙にはっきりと耳に届いた。
朝露を吸った草が、長靴の脛を濡らしていく。吐く息が、思ったより白い。
「思ったより、水量がありますね」
隣に立つセラが、帳面を片手に呟く。今日は文官服の上に外套を羽織っている。髪はいつも通りきっちりと結い上げられ、崩れた様子は一つもない。
「増水期にはこんなものじゃない、と聞いています」
誠は目を細め、堤の断面に視線を這わせた。表面のところどころに、土の色が違う帯がある。継ぎ接ぎのように盛られた跡だ。
しゃがみ込み、指先で表面を崩す。締まっていない。乾けば白く粉を噴くような、密度の甘い土だった。少し先には、獣道のような小さな溝が斜めに走り、雨のたびに土を削っているのが見て取れた。放っておけば、あそこから広がる。
「ここ、何度か直してますね」
「ええ。ひどい年は毎年のように」
セラが頷く。
「魔法で盛って、崩れたらまた盛って。……その繰り返しだと、記録にはあります」
「盛るだけなら、誰でもできますからね」
誠は帯の断面を指でなぞった。層になっていない。上から下まで、ただ一度に積んだだけの土だ。水が滲み込めば、内側からじわじわと緩んでいく。土を締めて水を抜く手間を惜しめば、いずれ同じ場所がまた崩れる。当たり前のことだった。だが、この世界ではその当たり前が、誰にも共有されてこなかった。
堤の腹に手を当てる。【大地審眼】が土の内側をうっすらと透かす。黄色が、あちこちに滲んでいる。赤ではない。だが、健全でもない。層になっていない。締め固められた形跡もない。ただ土を積んだだけの塊が、川の水を堰き止めているふりをしている。
(これは、あとで本腰を入れて視るやつだ)
まだ正式な依頼は来ていない。今日はあくまで、セラに「参考までにご覧いただけますか」と誘われた下見だった。だが誠の頭の中では、もう工程の骨組みが動き出している。層の厚み、締固めの回数、水抜きの位置――村の道や木橋とは、扱う土の量が一桁違う。
堤を降りたところに、水位を示す古い刻み目が残っていた。人の背丈をゆうに超える高さに、いちばん新しい刻みがある。
「これが、去年の?」
「三年前です。去年はもっと低くて済みました」
セラが差し出した帳面には、過去十年分の水害記録がびっしりと並んでいた。日付、被害範囲、損失額、修復にかかった日数。ある年の欄には、流された家屋の数の隣に、行方の分からなくなった人数が小さく書き添えられていた。下流の小さな集落がまるごと水に浸かった年もあるという。
誠は思わず眉を上げる。
「これ、全部一人でまとめたんですか」
「引き継ぎの帳簿が雑だったので、作り直しました」
さらりと答えるセラの声に、気負いはない。だが誠は、その一行一行に費やされたはずの時間を想像して、素直に感心した。数字の裏に、これだけの人がいたということを、誰かが数えて残してきた。
「几帳面ですね」
「性分です」
短いやり取りの後、セラはまた歩き出す。誠はその背に続きながら、この人の仕事の仕方が、どこか現場の帳面付けに似ていると思った。数字を信じる人間だ、と。
下流の茂みを踏み分けて、若い男が一人、駆けてくる。息を切らし、小脇に書類の束を抱えていた。まだ十代の後半だろう。仕立てのいい文官服は、まだ着慣れていない硬さがある。
「セラ様、閣下から追加の指示です」
書類を渡しながら、男の視線がちらりと帳面に落ちる。
「相変わらず細かいですね。……平民あがりの方は、こういうところで頑張らないと、追いつけませんからね」
笑みのつもりらしい。だが、目は笑っていなかった。
セラの表情は変わらなかった。帳面を持つ指先だけが、ほんの少し白くなった。
「ご丁寧にどうも」
それだけ答えて、帳面に視線を戻す。ペン先が紙を滑る音だけが、やけに大きく聞こえた。
誠は何も言わなかった。だが、握った拳の中で爪が掌に食い込んでいるのに、自分で気づいた。
若い男は一礼して、来た道を戻っていく。
その後ろ姿が茂みに消えるまで、誠は黙っていた。今、口を挟めば、セラが積み上げてきたものを、誠の一言で軽く扱うことになる。そんな気がした。だから誠は、代わりに別の間合いを計った。現場でも、こういう時にすぐ口を出すやつほど、後で信用を失う。待つのも仕事のうちだ。
歩きながら、誠はふとセラの手元に目をやった。指先には黒いインクの染みが幾つも残り、爪の際まで沁みついている。ペンだこの上に、また新しい皮が硬くなりかけていた。現場の職人の手と、どこか似ている。
「その手、ずっとそうなんですか」
セラは一瞬、手元を見た。それから小さく笑った。今日、初めて見せた表情だった。
「文官になりたての頃からです。周りより早く、正確に。それしか、追いつく方法がなかったので」
「平民から?」
「はい。運良く読み書きができて、運良く目に留めていただいて」
セラは帳面を閉じた。
「肩書きも、生まれも、顔立ちも――書類の前では意味がありません。数字は、誰が書いても同じ数字です。書類と数字だけが、生まれで人を差別しない。私はそれに、随分助けられました」
淡々とした声だった。恨み言でも、誇示でもない。ただ事実を並べるような口調。
誠は、悠真がノートに書き込んでいた過去問の山を思い出した。似ている、と思った。積み上げることでしか、追いつけない者たちの背中が。誰かに認められたくて積むのではない。積まなければ、立っていられなかったのだ。
「見えてますよ、ちゃんと」
短く言うと、セラは目を上げた。何か言いかけて、やめた。かわりに、帳面の表紙を指でなぞる。
「褒められ慣れていないので」
「なら、これから慣れてください」
セラは小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、判別のつかない吐息だった。それから思い出したように付け加える。
「あなたも、現場では褒めない方でしょう」
「結果が全部言ってくれるので」
「似た者同士かもしれません」
日が昇りきり、川面の靄が晴れていく。広がった川幅と、遠く霞む対岸の畑を見渡しながら、セラが呟いた。
「閣下は、本気でこの川に手を入れるおつもりです」
「本気、ですか」
「ここが直れば、領の見え方が変わります。交易も、収穫も。……その分、失敗も許されません」
誠は広がる川面に目をやった。【大地審眼】に滲む黄色が、あちこちで揺れている。まだ赤ではない。だが、村の道とも、木橋とも、規模の桁が違う。冬まで、あとどれだけあるか。増水期までなら、なおさら短い。
「工期は」
「まだ、閣下から詳しくは」
「聞いておいてください。土は、待ってくれないので」
セラは小さく頷き、帳面の隅に何か書き付けた。誠はその横顔を見ながら、これから相手にする川の広さを、あらためて目で測った。橋一本、道一本とは違う。堤の延長も、動かす土の量も、桁が上がる。人も、道具も、資材も、今の倍では足りないだろう。
だが、やることは変わらない。測って、段取って、積む。それだけだ。
セラが帳面を閉じ、静かに告げた。
「明日、閣下があなたに直接お会いしたいと」
「時間は」
「日の出から二刻後。城の応接間に」
川音だけが、やけに大きく聞こえた。
次回の更新は、8月14日 21:10を予定しています。
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