第3話 現場監督、異世界の泥にまみれる
土の匂いがした。
雨上がり特有の、湿った腐葉土と草いきれの混じった匂い。誠は瞼を開ける前に、まずその匂いで違和感に気づいた。
体を起こす。尻の下は硬く冷たい土で、作業着のズボンにじんわりと湿り気が染みてくる。ヘルメットの縁から水滴が一つ、頬を伝って落ちた。
見上げた空は、灰色の雲が千切れて薄い青が覗いている。太陽はまだ低く、光は斜めから差し込んで、濡れた葉の一枚一枚に細かく反射していた。
(生きて……いや、死んだはずだよな)
ヘルメットを脱いで確かめる。安全ベストも、擦り切れた安全靴も、あの時のままだった。
周囲を見渡すと、木々に囲まれた未舗装の道の脇だった。轍の跡が深くえぐれ、水たまりがいくつも空を映している。
誠が立ち上がろうとした、その瞬間だった。
視界が、変わった。
足元の土がうっすらと黄色く滲んで見える。少し先の木の根元は、赤に近い橙色。逆に、道の中央あたりは穏やかな青緑だった。
「……なんだ、これ」
思わず声が出た。瞬きをしても消えない。
(【大地審眼】――そうだ、あの女神様が)
診断専用、原因の特定とその先は自分次第。そう言われたことを思い出す。色の意味は摑めた。あとは慣れるだけだ。
試しに自分の手のひらを見てみる。淡い青緑が、静かに滲んでいた。体は健全らしい。あの世界の言い分では、これは生き物にも効くはずだった。
「ぬおおお、動け、動いてくれえ!」
自分の身に起きたことを確認していると、前方から悲鳴に近い声が響いた。
誠が顔を上げると、ぬかるんだ道の先で、荷車が斜めに傾いたまま止まっている。それを粗末な服を着た中年の男が、車輪にしがみつくようにして押していた。
誠は反射的に駆け寄った。
近づくにつれ、長靴が泥を呑み込む重い感触が伝わってくる。一歩ごとに引き抜くのに力がいる、粘りの強い泥だった。
「大丈夫ですか」
「あ、あんた……見ない顔だが、悪い、手を貸してくれ! 荷が落ちちまう!」
荷車の片輪が、道の端の窪みに完全にはまり込んでいる。荷台には木箱がいくつも積まれ、今にも滑り落ちそうだった。
誠は一目で視た。窪みの底は赤、その先の路面は青。
「そこの三つの荷物だけ先に降ろしましょう。軽くしたら車輪を斜め前、窪みの縁に沿って出しましょう」
「そんな悠長なことしてる、時間ねえぞ!」
「急いで、そのままだと余計に時間かかりますよ!」
有無を言わせず、誠は木箱を三つ降ろした。冷たい泥に手を突っ込み、車輪の位置を確かめる。
「俺が車輪を押します。あなたは荷台の後ろから、動き出したら一緒に」
「わ、わかった」
「せーの!」
肩と足腰に力を込める。長靴の底が滑る一瞬、堪えて踏ん張った。車輪がゆっくりと窪みの縁を乗り越える。
「今です、押して!」
男が声を上げて荷台を押す。荷車がぬかるみを抜け、締まった路面に出た瞬間、車輪の軋みが変わった。抜けた。
「お、おお……! 抜けた、抜けたぞ!」
男はその場にへたり込み、泥の上に座り込んだまま大きく息をついた。荷車の縁を掴む手が、まだ小さく震えている。
「いやぁ、助かった、本当に」
「しっかし、あんた何者だ? その格好も見たことがねえし」
説明したところで信じてはもらえないだろう。今はそれより、目の前の状況を収めるのが先だ。
「まあ、通りすがりの者です」
言葉を濁すと、男はそれ以上追及しなかった。それより荷車のことで頭がいっぱいらしい。
「とにかく助かった。俺はダン、この先にあるモーレン村の者だ。村まで送るから、寄っていってくれ。礼をしねえと気が済まねえ」
「お構いなく、とも言いにくい状況なので。お言葉に甘えます」
誠はそう答えて、木箱を荷台に積み直すのを手伝った。ダンは荷車を引きながら、ちらちらと誠の作業着とヘルメットに視線をやってくる。
「その靴、随分頑丈そうだな。どこで仕立てた」
「まあ、ちょっと特殊な仕立てで」
誠が言葉を濁したまま歩き出すと、ダンはそれ以上聞かず、代わりに道の愚痴をこぼし始めた。
「しっかし、この道、毎年雨の後はこの調子でよ。荷車ひっくり返す奴が後を絶たねえ。うちの村まであと少しだが、この時期は誰もが遠回りしたがる」
「直さないんですか」
率直に誠が尋ねた。
「直すって言ったって、どうやんだよ」
「村には金も人手もねえ。溝掘っても次の雨でまた埋まる。諦めが早いのがウチの村よ」
ダンはそう言って、乾いた笑いをこぼした。諦めというより、疲れ切って怒る気力もない、そんな顔だった。
誠は黙って轍を見た。深くえぐれ、水を湛えたその一本一本が、視界の中で黄色く、時に赤く滲んでいる。
「きゃあっ!」
不意に、前方から小さな悲鳴が上がった。
木の陰から駆け出してきた小さな影が、ぬかるみに足を取られて転んだ。八歳ほどの少女だった。
「ピノ! 大丈夫か!」
ダンが慌てて駆け寄る。誠も遅れて近づいた。
少女――ピノと呼ばれた子は、膝を抱えて泣いていた。転んだ拍子に手をついた場所は、先ほど誠が視た赤い箇所のすぐ近く。えぐれた轍の縁で、足首をひねったのか、立ち上がろうとしてまた顔をしかめている。
誠は視線を落とした。足首のあたりが、薄い橙色に滲んでいる。
(捻挫か、それに近い……骨までは、いってなさそうだ)
誠は膝をつき、ピノの足首にそっと触れた。見知らぬ男の手に、ピノがびくりと体をこわばらせる。
「痛かったな。ここ、動かせるか」
「……うん、動く……けど、痛い」
ゆっくりと足首を回してみせると、ピノは涙目のまま、それでも小さく頷いた。誠の手つきに乱暴なところがないと分かったのか、少しだけこわばりが解ける。
「骨は折れてなさそうだ。冷やして、しばらく歩かせないでやってください」
「あ、ああ、分かった」
ダンがピノを背負い上げる。ピノは誠の顔をちらりと見て、何か言いたそうにしたが、結局何も言わずに視線を逸らした。
誠はもう一度、道そのものに目を戻した。
轍の深さ、水はけの悪さ、路肩の崩れ。どれもが積み重なって、今この瞬間、子供一人の足をひねらせた。
一度や二度の応急処置では、この道は変わらない。この轍はまた雨で深くなり、いずれ荷車ではなく人の足を取る。
この道は、人を殺す道だ。
次回の更新は、7月15日 13:50を予定しています。
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