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第32話 現場監督、静けさの奥を見る

砦の外壁は、近くで見るとひび割れがひどかった。


石の継ぎ目に霜が入り込み、朝の陽でわずかに融けた水が、また夜には凍る。それを繰り返すたびに、石は内側から少しずつ引き裂かれていく。石畳を踏む足音が、朝より一段冷たく響く気がした。誠は懐にしまった点検記録の束を、もう一度確かめてから城代の執務室へ向かった。


隣を歩くバルドが、崩れかけた胸壁を見上げて舌打ちする。


「こいつを放っといて、よく平気な顔でいられるもんだ」


「だから今日、はっきりさせに行く」


扉をくぐった瞬間、外との落差に誠は言葉を失いかけた。


外壁は傷みが目立つのに、部屋の中は違う。艶のある木の卓、金の縁取りをした燭台、壁にかけられた織物には埃一つない。暖炉の火が贅沢に焚かれ、外の凍える空気が嘘のようだった。城代オルソンは指に幾つも指輪をはめた手で茶器を傾けながら、誠たちを迎えた。


バルドが小さく喉を鳴らすのを、誠は目で制した。


「ご苦労だね、監督殿」


折り目正しい物腰だった。だが誠は、その丁寧さの底に何かが澱んでいる気配を感じた。


「本日は、砦の点検結果をご報告に参りました」


誠は敬語を崩さない。相手は城の管理を任された立場の人間だ。バルドが同行し、記録の束をセラが受け取って卓に広げる。


「西の外壁、三箇所で強度低下を確認しました。特にここ――」


誠は記録の図面を指す。


「凍結の繰り返しでひびが広がっています。このまま冬を越せば、春には崩落の危険があります」


オルソンは図面をちらりと見て、すぐに視線を茶器へ戻した。


「なるほど。だが監督殿、砦の修繕予算は今期分、既に適正に配分している。急な追加は難しいねえ」


「危険度で言えば、放置できる段階ではありません」


「危険、危険と言うがね」


オルソンは笑みを崩さずに続ける。


「長年、この砦はこうしてやってきた。多少のひびで崩れるほど脆くはないさ。手続きを踏んで、来期の予算で対応する。それで十分だろう」


誠は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。


――ここで声を荒げても、何も変わらない。契約上、誠はまだ雇われの技師だ。辺境伯の後ろ盾はあっても、砦の予算執行そのものに口を出せる立場ではない。相手が握っているのは金と手続きだ。こっちが握れるのは、事実と記録しかない。


段取りで示すしかない――そう自分に言い聞かせる。前世でも、こういう手合いは何人も見てきた。言葉で押しても動かない相手には、動かぬ証拠を積むしかないと、誠は知っていた。


「では、記録として書面に残していただけますか。次に確認した際の比較材料にしたいので」


「もちろん、もちろん」


軽い調子の返事だった。本当に残すつもりがあるのか、誠には確信が持てなかった。


セラが、卓上の帳面に何かを書き足そうとした。


「城代様。その箇所は先の巡察でも――」


「ああ、君は」


オルソンの声色が、わずかに変わった。


「確か、平民の生まれだったね。辺境伯家に拾われて、よくそこまで上がったものだ。数字を扱うのは得意なんだろう、そういう出の者は」


セラの手が、帳面の上でほんの一瞬止まった。だがそれだけだった。顔つきは変わらない。


「恐縮です。数字は生まれを選びませんので」


淡々とした声だった。オルソンは薄く笑い、値踏みするような目でセラを一瞥してから、興味を失ったように茶器へ戻る。


「まあ、優秀なのは結構なことだ。せいぜい辺境伯様のお役に立つといい」


言葉の端に滲む見下しは、誠にもはっきりと伝わった。バルドが何か言いかけるのを、誠は目配せで止める。


誠は、セラの横顔を見た。表情には何の乱れもない。だがその静けさが、かえって誠には引っかかった。慣れている。何度もこういう場面を潜り抜けてきた者の静けさだ。


執務室を出ると、廊下の冷たさが肌を刺した。窓の外では、日が傾き始めている。


「セラさん」


「なんでしょう」


「今のは、聞き流していい話じゃない」


セラは足を止め、少しだけ誠を見た。


「お気遣いなく。慣れています」


「慣れることと、いいことは別だ」


セラは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます。ですが、今は砦の話を優先しましょう。私のことより、記録が残るかどうかの方が重要です」


割り切った声だった。だがその割り切り方が、誠には妙に手慣れて聞こえた。慣れているのではなく、慣れるしかなかった――そんな響きだ。誠はそれ以上踏み込まなかったが、腹の底に小さな熱が残った。


少し遅れて廊下に出てきたバルドが、誠の肩を軽く小突く。


「監督、顔が怖えぞ」


「そうか」


「そうかって……お前が一番頭に来てるみたいだな」


図星を突かれ、誠は短く息を吐いた。


「バルド」


「なんだ」


「今日、俺たちだけで応急の手当てをやる。城代の許可を待ってたら春まで持たない」


「予算の話はどうすんだ」


「材料は俺たちが今使ってる分の余りで足りる。大掛かりなことはしない。ひびに雨水が入らないよう蓋をするだけだ。それなら文句は言われない」


バルドは太い眉を寄せたが、やがてにやりと笑った。


「勝手にやって後で怒られるのは、いつものことだな」


「今回は記録も残す。誰がやったか、いつやったかも全部書く。後ろ暗いことは何もない」


その日の夕方、誠とバルドは外壁のひびに簡単な蓋を施した。大掛かりな補修にはほど遠い、その場しのぎの手当てだ。それでも、何もしないよりはましだった。


作業を終え、誠は砦の壁にもう一度手を当てて【大地審眼】を起動する。


黄色く滲んでいた箇所は、変わらず黄色いままだった。応急の手当てでは、根本の弱りまでは消えない。


――記録は残した。次に崩れが進んだ時、これが証拠になる。


日が完全に落ちて、砦の輪郭が闇に溶けていく。冷えた空気が喉の奥まで染みた。


「セラさん、慣れてるって言ってたな」


呟いた声に、答える者はいなかった。


誠の脳裏に、先ほどのセラの静かな横顔が焼きついて離れない。


あの静けさの奥に何があるのか、誠にはまだ、何も見えていなかった。

次回の更新は、8月 9日 21:10を予定しています。


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