第31話 現場監督、二つの現場を凌ぐ
朝の空気が、指先を刺した。
誠は工程表を握る手を軽く握り直す。吐いた息が白く伸びて、朝日にかき消えた。地面はまだ霜で硬く、踏むたびに乾いた音を立てる。冬はもう、すぐそこまで来ている。
「街道の締固めに七人、砦の足場点検に五人……足りねえな」
工程表の数字は、何度見直しても変わらなかった。街道工事と砦の視察、二つの現場を同時に回すには人手が薄すぎる。
「監督、資材の検収も残ってる」
バルドが太い指で木材の山を示す。木の匂いと、朝露に湿った樹皮の感触が、誠の記憶にある現場の朝と重なった。
「わかってる。俺は先に砦を診てくる。半刻で戻る。バルドは街道の締固めを頼む」
「一人で大丈夫かよ」
「診てくるだけだ。判断はする。決めるのはこっちに戻ってからでいい」
村の人夫を割り振っていたガルフが、声を張らずに寄ってきた。
「街道側は俺が見とく。監督は砦だけ考えりゃいい」
短い言葉だったが、以前なら「誰かに任せる」ことを誠はまずしなかった。今は違う。頷いて、そのまま背を向けられる自分に、誠は少しだけ驚いていた。
「監督、行くならこれ」
差し出したのはミラだった。手袋の隙間から土のついた指先がのぞく。
「砦の壁、古い石組みでしょう。【大地審眼】、遠目だと石の継ぎ目まで拾いにくいって前に言ってた」
「……覚えてたのか」
「監督が言ったことは大体覚えてる」
素っ気ない口調の裏で、少し得意げに口の端が上がっていた。誠は苦笑して、渡された小さな灯り石を懐にしまった。
砦までは早足で四半刻。城壁の影に入ると急に冷え込み、石の表面には夜露が凍って白くなっていた。手を触れると指の熱がすぐに奪われる。誠は崩れかけた石垣に手を当て、【大地審眼】を起動する。石の継ぎ目が黄色く滲む箇所が数か所。致命的ではないが、放置すれば冬の凍結でひび割れが広がる。頭の中で優先順位を組み直し、応急の手当てをバルドの手隙が空いた時に回す算段をつけて、誠はすぐに街道へ引き返した。
資材置き場の脇を通り過ぎようとして、誠は足を止めた。
地面に、見慣れない筋がある。
浅く、しかし一定の幅で土が掻き分けられていた。獣の足跡にしては規則的すぎる。誠は屈み込み、もう一度【大地審眼】を起動する。
視界の端から、土の色が滲むように変わった。掻き分けられた筋の下、路肩の土が黄色く発光している。健全な土なら青のはずの場所だ。
――掘られた分、支えが減ってる。表面はまだ平らでも、下は空洞に近い。この上に荷を積めば、重さに耐えられず沈む。
判断は一瞬だった。
「バルド、ここに荷を置くな。周り三尺、縄張って立入禁止にしてくれ」
「魔物か」
「わからん。だが崩れる前に手は打てる」
見る。判断する。動く。誠が働き者の背中で示すいつもの流れに、バルドはもう驚かない。太い声で若い衆に指示を飛ばしながら、縄を運んでいく。
誠はもう一度、土の色を目に焼き付けた。
黄色は、資材置き場の縁に沿って、点々と続いていた。
冒険者ギルドの詰所は、街道工事の資材倉庫の隣に間借りしていた。誠が痕跡の調査を正式に依頼したいと申し出ると、応対に出た若い受付嬢は快く帳面を開いた。だが、詰所の奥で装備を磨いていた一団が、露骨に舌打ちをした。
「また現場監督殿のご指名かよ」
声の主は、以前から朝礼への参加を渋っていた男だった。革鎧の肩に古い切り傷がある、がっしりした体格の男で、名乗ったことは一度もない。仲間内では兄貴分らしく、周りの若い冒険者はその顔色をうかがっていた。
「調査だけだ。朝礼には出てくれ。危険予知をすり合わせておきたい」
「俺たちゃ冒険者だ。素人の朝礼で何がわかる。獲物と魔物の見分けもつかねえ現場監督殿によ」
言い捨てて、男は装備を担いで詰所を出ていこうとする。
「兄貴、待ってくれよ」
割って入ったのはテオだった。街道工事の護衛依頼で顔を合わせるうち、いつの間にか間に立つようになっていた。
「監督のあれ、馬鹿にできねえよ。俺も最初は舐めてた口だ。でも道を掘り返した跡見て、崩れる前に言い当てた。あれは勘じゃねえ」
「お前、いつからそっち側だよ」
「そっち側もこっち側もねえだろ。死人が出るかどうかの話だ」
テオの声には、以前のような斜に構えた響きがなかった。男はしばらく黙り、鼻で笑ったが、足は止まった。
「見りゃわかる。理屈はいらねえよ」
そう言い残し、男は仲間を連れて一人で調査に出ていった。朝礼には出ないままだった。
誠が異変に気づいたのは、昼過ぎだった。
資材置き場の縁を歩いていた男の足元で、黄色く光っていたはずの土が、赤に変わっていく。【大地審眼】が、危険を告げていた。単独で、縄張りの外側から近づきすぎている。
「動くな!」
叫んだときにはもう遅かった。男の足元がわずかに沈み、体が傾く。
誠は考えるより先に走っていた。
――あの傾き方は、片側だけ抜けてる。反対の腕を引けば、体重は逃がせる。踏み込む足場さえ選び間違えなければ間に合う。
跳び込むように腕を掴み、力任せに引く。男の体が横に流れた瞬間、足元の土が音もなく崩れ落ちた。掻き分けられた筋の下は、思っていたより広く空洞になっていたらしい。
「……助かった」
男は、荒い息のまま呟いた。声に、さっきまでの刺々しさはなかった。
「言っただろ。危険予知は勘じゃない」
男はしばらく黙って自分の足元――今はもう崩れた土――を見ていた。それから、無言で肩の革鎧の紐を締め直した。緩んでいたことに、今の今まで気づいていなかったふうだった。
「……明日の朝礼、何時からだ」
誠は差し出した手を、男に握らせた。手袋越しでも、指の力が変わったのがわかった。
夕方、詰所に戻ったバルドが崩落の話を聞きつけて飛んできた。
「無事なんだろうな」
「掠り傷一つない。ただ、縄張りはもう一回り広げる」
「相変わらず現場を離れると心臓に悪いことしかしねえな、お前は」
言葉は乱暴だが、口元は緩んでいた。テオも隣で頷きながら、崩れた土の跡を興味深そうに覗き込んでいる。
村から様子を見に来たミラが、崩れた土の跡を目にして息を呑んだ。
「今の話、監督が飛び込んだって……」
「間に合った。それだけだ」
「それだけって……」
ミラは何か言いかけて、結局は口をつぐんだ。かわりに、崩れた土の断面にそっと手をかざす。粒の粗さを確かめるような仕草だった。
「支えが抜けてるところ、他にもあるかもしれない。明日、私が地面の下を見て回っていい? 監督の眼と違う視え方、できるから」
「頼む」
短いやり取りだったが、誠は少し驚いていた。指示を待つだけだったミラが、自分から役割を見つけて言ってくる。三台分の重機だと認めたあの日から、ミラは確かに変わり続けている。
誠は改めて、崩れた場所を【大地審眼】で診た。掘り返された筋は資材置き場の縁に沿って、不自然なほど一直線に続いている。
獣が餌を求めて掘るなら、もっと乱雑に散らばるはずだった。
「まるで、狙って線を引いたみたいだ」
呟いた声は、白い息と一緒に夕闇に溶けていった。
冬が、すぐそこまで来ている。
次回の更新は、8月 8日 21:10を予定しています。
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