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第27話 現場監督、大地を動かす

溝切りが崩落箇所の端まで通った朝、誠は斜面全体を見上げていた。


吐く息が白く、斜面に張った霜が朝日を受けて薄く光っている。冬はもう、後戻りしない深さまで進んでいた。


土留めの溝はできた。だが、崩れた斜面そのものを盛り直す作業はまだ手つかずだ。この規模を人力だけでやれば、日数がいくらあっても足りない。冬本番が来る前に片付けるなら、ここからは規模を上げる必要がある。


「ミラ、今日は大きい仕事だ」


誠が声をかけると、ミラは少し緊張した面持ちで頷いた。これまでの補助的な仕事とは、明らかに桁が違う。それは本人にも分かっているようだった。


「言われた通りに、盛れば……」


「量だけじゃない。締まり方まで揃える。俺が形を示す」


「私、そんな大きいの、やったことないよ」


「一人でやらせるつもりはない。俺が視て、指示を出す。お前は、その通りに動かすだけでいい」


ミラは深呼吸を一つして、頷いた。緊張はまだ残っていたが、足取りはしっかりしていた。


村人たちが遠巻きに集まり始めていた。噂を聞きつけた冒険者たちの姿もある。誰もが、これから何が起きるのか見届けようと足を止めていた。テオも人だかりの端から、腕を組んでこちらを見ていた。


ミラが崩落斜面の前に立ち、両手を広げる。集中する横顔に、緊張の色が滲んでいた。


周囲がざわめきを潜め、固唾を呑んで見守る空気に変わっていく。


その時、見物人の中から声が上がった。


「土魔法だって? ……気味悪いな、地面があんな風に動くのは」


冒険者の一人が、隣の仲間に漏らした呟きだった。声を潜めたつもりだったのか、悪気はなかったのかもしれない。だが、静まり返った空気の中では、はっきりと届いた。


ミラの手が止まった。


広げかけていた両手が、わずかに下がる。俯きかけた横顔に、誠は見覚えがあった。誰にも認められなかった頃の、あの縮こまった姿だ。指先が震え、足が半歩、後ろに引かれる。


耳の奥で、遠い日の声が蘇っているのかもしれない。ミラの表情からは、それ以上のことは読み取れなかった。ただ、体の強張りだけが、はっきりと伝わってきた。


テオが眉をひそめ、声のした方へ一歩踏み出そうとした。だが、誠が先に動いた。


「ミラ」


誠は短く名を呼んだ。声を荒げるでも、周囲を睨みつけるでもない。いつも通りの、現場での声のかけ方だった。


「聞くな。今から視るものだけ見てろ」


「……うん」


それだけだった。慰めも、庇う言葉もない。ただ、次の指示だけを続けた。


「地表から三尺、締まった層を残す。その下から動かせ。層を崩すな」


「三尺って、これくらい?」


ミラが手で大まかな高さを示す。


「そう、その辺りだ。表面近くは踏み固まって硬い。そこを崩さず残せば、上の層がそのまま蓋になって、下の柔らかい土を守ってくれる。蓋ごと崩したら、元の木阿弥だ」


「蓋かぁ。分かりやすい」


淡々とした指示に、ミラの手がゆっくりと持ち上がっていく。震えていた指先が、少しずつ落ち着きを取り戻していった。


言葉で慰めるより、次にやることを示す方が、この娘には効く。誠はそう判断していた。憐れむような言葉をかければ、それはそれで「気の毒な人間」という枠に押し込めることになる。ミラが欲しいのは同情ではなく、仕事の相方としての扱いだ。


「はい……!」


両手が大きく振り上げられた瞬間、斜面全体が唸りを上げた。


地響きにも似た低い音が足元から伝わってくる。冷え切った空気を震わせるように、土埃が舞い上がった。


土砂が波打つように動き出す。崩れた斜面の土が意思を持ったかのように盛り上がり、誠の示した層構造をなぞりながら、少しずつ形を作っていく。荒々しい力が、精密な輪郭へと変わっていく様は、まるで巨大な生き物が地面の下でうねっているようだった。


見物人たちの間から、息を呑む音が漏れた。


「……すげえ」


誰かが呟いた声が、静まり返った空気に響いた。


誠はミラの隣に立ち、視線で層の締まり具合を追い続けた。水を含んで重い土は動きを遅く、乾いて軽い土は勢いよく。力の掛け方の違いを、誠は言葉と身振りでミラに伝えていく。


「そこ、もう少し圧を強く。緩いままだと沈む」


「はい!」


「右端、盛りすぎだ。削れ」


指示のたびに、うねる土砂の動きが微妙に変化した。粗い力任せの盛り土ではなく、幾重にも層を重ねながら締め固めていく動きへと、少しずつ精度を増していく。宮廷魔法使いなら力任せに一息で終わらせるところを、誠とミラは何度も細かく調整を重ねながら形を作っていった。


見物人たちには、ただ土が動いているようにしか見えなかっただろう。だがその一つ一つの動きの裏には、誠が積み上げてきた知識と、ミラがそれを正確に汲み取る集中力があった。


「もう少し右、そこで止める」


「はい!」


ミラの返事には、もう迷いがなかった。額に汗が浮かび、両腕が小刻みに震えているのが遠目にも分かる。それでも、視線は斜面から逸れなかった。


土砂の唸りが収まる頃には、崩れていた斜面が、なだらかな一枚の面へと生まれ変わっていた。継ぎ目のない、締まった土の壁。夕日を受けて、乾いた土の色が鈍く輝いていた。


沈黙のあと、拍手より先に、どよめきが広がった。


「これが、あの土魔法か……」


先ほど呟いた冒険者が、呆然とした顔で斜面を見上げていた。侮蔑の色は、もうどこにもなかった。


「土を盛るだけの地味な魔法なんて、誰が言ったんだ」


近くにいた別の村人が、感嘆混じりに呟く。その声を、ミラは確かに聞いていた。


バルドまでもが、腕を組んだまま斜面を見上げ、感心したように唸っていた。


「……こいつは、下手な石工より仕事が丁寧だな」


その一言に、周りの何人かが笑った。張り詰めていた空気が、ふっと緩む。


ミラは肩で息をしながら、自分の作り出した斜面を見つめていた。俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がっていく。頬に張り付いた土埃も、汗も、拭おうとしなかった。


「監督、これで……」


「上出来だ」


短い言葉に、ミラの目が潤んだ。誰かに気味悪いと言われたことなど、もう気にならないというように、まっすぐ前を向いていた。


「私、ちゃんと……できたかな」


「見ての通りだ。お前がいなけりゃ、この規模はあと十日はかかってた」


「十日も」


「大袈裟じゃない。数字の話だ」


ミラは小さく笑った。泣き笑いのような、それでいて晴れやかな顔だった。


テオが小さく口笛を吹き、ガルフが太い腕で拍手のような音を鳴らした。


日暮れの寒さの中、誠はもう一度、盛り直した斜面を見上げた。霜が降り始めた地面に、村人たちの影が長く伸びている。


明日には、この崩落箇所そのものが消えてなくなる。


だが誠の頭には、別のことが引っかかっていた。


支給されるはずの砦の資材が、まだ届いていない。

次回の更新は、8月 4日 21:10を予定しています。


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