第23話 現場監督、正式な依頼を受ける
セラが去ってから、五日が経った。
その間に、冬は一段深くなった。朝、水たまりを踏むと薄氷がぱりんと割れる。息はもう白いというより、煙のように濃く見えるほどだった。日はますます短くなり、朝の光が村を照らし始める時刻も、日を追うごとに遅くなっていた。
事の始まりは、早朝に飛び込んできた早馬だった。
「辺境伯様御自ら、本日この村へお越しになる!」
先触れの言葉に、村はにわかに騒然となった。ドルガが鍬を放り出して駆け回り、家々の前を掃かせ、井戸端に積まれた薪の山を隠すように指示を飛ばす。
「辺境伯さま自ら……! 誠、お前はその汚れた作業着、何とかならんのか」
「これしか持ってない」
「持ってないなら仕方ないが……」
ドルガはぶつぶつと言いながらも、結局は誠の格好を諦め、自分の身なりを整えることに専念し始めた。その落ち着かない背中に、誠は前世の記憶を思い出す。役員視察の朝、現場じゅうが同じように浮き足立っていたものだ。
ハンナの小屋からも、いつもより慌ただしい湯気が上がっていた。
「誠さん、辺境伯様に何をお出しすればいいのか、見当もつかなくて」
「普段通りでいいでしょう。飾ったところで、見る人が見れば分かる」
「そんな気楽な……」
そう言いながらも、ハンナは鍋の火加減を確かめる手を止めなかった。冬支度で仕込んだばかりの根菜が、湯気の向こうで小さく踊っている。
昼を待たず、街道の向こうに一団の姿が見えた。
先頭を歩く馬は一頭だけ。護衛の数も、セラの時とさほど変わらない。
「……本当に、あれが辺境伯か?」
誠が思わず呟くと、隣に立っていたミラが小さく身を縮めた。
「貴族って、初めて見ます……」
その声には怯えがあった。膝が少し内側を向き、目線が地面に落ちかける。かつて誰にも認められなかった頃の癖が、一瞬だけ顔を出す。
「見るだけだ。土下座する必要はない」
誠が短くそう言うと、ミラは驚いたように顔を上げた。
「監督は……平気なの?」
「偉い人間の前で萎縮してたら、仕事の話にならない。俺たちは仕事の話をするんだ、物乞いじゃない」
その言葉に、ミラは目を瞬かせた。それから、自分でそれに気づいたように、ぐっと顎を上げる。誠に肯定されて以来、少しずつ伸びてきた背筋が、意志の力で保たれた。
一団が村の入り口に着いた。
馬から降りたのは、まだ若い男だった。着ているものは質素で、袖には継ぎが当たっている。だが目つきだけは違った。値踏みするような、値段を計算する商人の目。村の家々を一軒ずつ見渡し、橋の方向にちらりと視線をやる。
ドルガが慌てて片膝をつこうとした、その時。
「よせよせ、そういうのはいい」
レオンは片手を軽く振って、それを止めた。
「膝が痛むだろう、この寒さだ。俺もそういう堅苦しいのは苦手でね」
拍子抜けした様子のドルガが、中腰のまま固まる。
「……よ、よろしいので」
「いいさ。金のない領主に、余計な礼まで求められても困るだろう」
自嘲気味に笑いながら、レオンは村の様子をぐるりと見渡した。
「掃除までしてくれたのか。悪いな、そんなに気を遣わなくていい。俺が見たいのは、綺麗な村じゃなくて、ちゃんと機能してる村だ」
その一言に、ドルガの強張った肩から力が抜けるのが分かった。
レオンは誠の方へ歩み寄ってきた。
「お前が轟誠か。セラから話は聞いている」
「はい」
「橋、見せてもらえるか。噂だけじゃ、判断のしようがない」
案内を求められ、誠はレオンを橋へと連れて行った。
冷えた川風が、橋の上で一段と強く吹き付ける。レオンの外套の裾が音を立てて揺れた。
レオンは欄干に触れることもなく、まず橋の全体を見渡した。それから足元に視線を落とし、板の一枚一枚を踏みしめるように歩き出す。硬い足音が、木の上に規則正しく響いた。
「頑丈そうだな」
「基礎から組み直しました。多少の増水じゃ流されません」
「橋そのものより、俺が見てるのはこっちだ」
レオンは橋の向こう側、街道の先を指した。
「この橋が流されてから、隊商は北の迂回路を使うようになった。三日も余計にかかる道だ。それでも、崩れた橋を渡るよりましだと判断された」
「でも、今なら、渡れます」
「ああ。渡れる橋がある、というだけで、商人は戻ってくる」
レオンは指を折りながら続けた。
「北回りは三日余計にかかるだけじゃない。宿代も、護衛の日当も余計にかさむ。荷が動けば、税が入る。税が入れば、道の維持にも、砦の修繕にも、金が回るようになる」
商人のような目が、橋の向こうの街道を見据えていた。誠が見ていた「壊れない構造物」とは違う、経済という別の物差しで橋を測っている。同じ橋を見ていても、見ているものが違う。誠はそれを、悪くない、と思った。
「街道と、古い砦を直してほしい」
橋を渡り終えたところで、レオンは本題を切り出した。
「街道は、この村とクロイツェンとを結ぶ生命線だ。崩落箇所を放置し続けてきたのは、恥ずかしながら金がなかったからだ。砦の方も、老朽化が進んでいる。国境に近いこともあって、放っておける状態じゃない」
「見てみないことには、何とも」
「もちろんだ。現地を見てから、正式に契約を結んで構わない」
「条件は」
「正直に言う。潤沢とは言えない。この橋のような、大きな予算は用意できない」
レオンは誠の目をまっすぐ見た。
「それでも頼みたい。お前の仕事を見て、そう決めた」
誠は少しの間、レオンの顔を見返した。
前世で、金と工期のことしか言わなかった男を思い出す。あの男は最後まで、現場の顔を見ようとしなかった。目の前の男は違う。金がないことを隠さず、それでも頭を下げずに、まっすぐ頼んでくる。
「人手と資材の融通は」
「街道は村の人間を動員できる。砦の方は、駐屯の兵も多少は使っていい。ただし専門の職人を雇う金は、正直そう多くは出せない」
「バルド親方には声をかけます。あとは現地で見てから、必要な分を詰めます」
「話が早いな」
「段取りが決まらないうちに人数だけ約束しても、無駄が出ますから」
レオンは小さく笑って頷いた。
「それで、轟、お前への報酬だが」
「雇われの技師として必要な金銭で請け合います」
誠は当たり前のようにそう口にした。
「爵位を寄越せ、美姫を娶らせろなどと言わんのか?」
何かを諮るような表情で、レオンは確かめる。
「そんなものをもらっても、いい仕事はできないでしょう?」
レオンは初めて、屈託のない笑みを見せた。
「セラが言っていた通りだ。『あの男は、肩書には興味がない』と」
契約の細目は追って詰めることになり、レオンは護衛とともに帰り支度を始めた。馬に乗る前、ふと足を止めて振り返る。
「砦の方は、できれば急いでほしい」
「理由を聞いても?」
レオンは一瞬、言葉を選ぶように黙った。商人の目が、ほんの少しだけ曇る。
「……いや、詳しくは、また今度話す」
それだけ言うと、レオンは馬に乗り、一団とともに街道を去っていった。
土埃が収まると、ドルガが詰めていた息を一気に吐き出した。
「変わった御方だな……あんな貴族、見たことも聞いたこともない」
「悪い変わり方じゃない」
「それは、そうだが」
ドルガは腕を組み、まだ半信半疑といった顔で街道の先を睨んでいた。
冷えた風が、土埃の残り香を運び去っていく。誠は、去り際の一瞬の表情を反芻していた。
金の話をする時、レオンは目を逸らさなかった。潤沢でないことも、隠さず言った。だが砦の話になった途端、言葉を濁し、目が泳いだ。
金の話よりも、砦の話の方が、あの男には重い。
次回の更新は、7月31日 21:10を予定しています。
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