第22話 現場監督、貴族の使者と再会する
朝靄の中、誠は復旧した橋の上に立っていた。
木の板を踏むと、霜で白くなった木目がわずかに軋む。手すりに触れると、指先が痺れるほど冷たい。吐く息はもう、はっきりと白い。
川を見下ろす。
水面は昨日より心なしか黒く沈んで見えた。流れの音まで、心なしか鈍い。水温が落ちている証拠だ。冬はもうすぐそこまで来ている。
誠はしゃがみ込み、橋脚の付け根を指先で探った。木材と石組みの継ぎ目。ここが一番、水と冷えの影響を受けやすい場所だ。
【大地審眼】を起動する。
視界の端が淡く発光し、橋全体の輪郭が青い光をまとって浮かび上がった。継ぎ目も、荷重のかかる中央部も、澄んだ青一色。ひび割れも、劣化の兆しもない。
(よし、保ってるな)
短く確認しただけで、誠は目を閉じてスキルを切った。長く見続ける必要はない。健全なものを何度も確認するのは時間の無駄だ。段取りの基本は、疑うべきところだけを疑うことにある。
ただ、路面の継ぎ目に薄く張った霜には目が留まった。
このまま冷え込みが進めば、路面が凍って滑る日も出てくる。滑り止めの手当ては、村道の方も含めてそろそろ考えておいた方がいい。頭の隅にその一件を置いて、誠は腰を上げた。
橋を渡り、村へ戻る道すがら、ハンナの家から湯気が上がっているのが見えた。
「誠さん、朝から橋の見回り?」
戸口から顔を出したハンナが、白い息を吐きながら笑う。頬が赤いのは、竈の熱のせいだけではなさそうだった。
「習慣だからな。誰かに言われなくても、自分がやった仕事の現場は自分で見るようにしてるんだ」
「相変わらずね。もう寒いのに」
「寒い時ほど、木は動くんだ。今のうちに見ておかないと、雪が積もってからじゃ分からなくなる」
「難しいことは分からないけど……体、冷やさないでね」
小さく笑って、ハンナは鍋に視線を戻した。湯気の向こうで何かを煮込む匂いが漂ってくる。塩気と根菜の匂い。冬支度の匂いだ。
村の入り口に差し掛かったところで、ドルガの声が飛んできた。
「誠!妙な一団が来とるぞ、街道の方から」
鍬を杖代わりに、ドルガが顎で街道の先を示す。土埃が細く尾を引いていた。
「妙な、というと」
「馬に乗った身なりのいいのが先頭だ。護衛もついとる。定期巡察の使いとは、格が違う」
誠は目を細めて街道の先を見た。土埃が徐々に近づき、蹄の音が地面を伝って響いてくる。
先頭の馬から降り立ったのは、見覚えのある顔だった。
セラ・ヴァンス。
だが、纏っている空気が前とは違う。以前は動きやすい文官の服装で、供もつけずに一人で村を歩いていた。今日は仕立てのいい外套を羽織り、背後に護衛らしき二人を連れている。
腰の帳面とペンケースだけは変わらない。
セラは村の入り口で足を止め、視線を橋の方へ向けた。
その瞬間、彼女の表情がわずかに動いた。
事務的な無表情が、一拍だけ崩れる。
「……本当に、架け替えたのですね」
呟くような声だった。誠に向けたというより、独り言に近い。
セラは早足で橋のたもとまで歩き、しばらく黙って見上げていた。木組みの継ぎ目、橋脚の太さ、川面からの高さ。一つ一つを確かめるように目で追い、最後に手袋をした指先で、そっと欄干に触れた。
「以前流された橋は、木が細かった。増水のたびに揺れて、渡るのが怖かったのを覚えています」
「今度のは根元から組み直した。多少の水嵩じゃびくともしない」
「見れば分かります」
セラは欄干から手を離し、今度は橋脚の根元、川面すれすれの高さまで目を落とした。素人目にも分かる太さの違いを、確かめるように何度も見比べている。
「前に来た時は、道を直しただけだと思っていました」
「道と橋は繋がってる。片方だけ直しても、意味が薄い」
「……そうですね」
セラは短く頷き、ようやく誠に向き直った。
「今日は、定期巡察ではありません」
セラの声のトーンが変わった。事務的な言葉選びの奥に、公務の緊張がある。誠はその変化に気づいた。声の高さより、間合いの取り方だ。前回の彼女は、質問を重ねながら距離を詰めてきた。今日は逆で、言葉を選ぶたびに一拍置く。
——探られたくない何かがあるか、まだ決まっていないことを話しているか。
内心でそう見当をつけながら、誠は次の言葉を待った。
「辺境伯の使いとして参りました」
「……で、用件は」
「まだ正式にお伝えできる段階ではありません」
セラは帳面に軽く指を添えた。
「ですが、街道の状態について、辺境伯が関心を持たれています。特に、この村から町へ抜ける道の——崩落箇所について」
誠の記憶に、村に来た当初に見た崩れかけの峠道がよぎった。荷車がぎりぎり擦れ違えるほどの幅しかなく、雨のたびに路肩が痩せていく場所だ。あの時は手が回らず、放置するしかなかった。
「橋と同じ理屈なら、話は早い」
「まだ何も決まっていません」
セラは念を押すように言ったが、その目は誠の言葉を否定していなかった。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
セラが帳面から顔を上げる。
「本当に、山肌が崩れたような場所でも、直せるものなのですか。道が消えているような」
「崩れた原因次第だ。水の通り道を無視して土を盛っただけの道なら、何度直してもまた崩れる。まず、何が崩したのかを見る。話はそこからだ」
「……崩した理由を、見るのですか。直す前に」
「直すだけなら誰でもできる。同じ場所をもう崩させないのが仕事だ」
セラは何かを書き留めようとして、ペンを持ったまま止まった。帳面には結局、何も書かれなかった。ただ、誠の言葉をもう一度なぞるように、口の中で小さく繰り返しているのが分かった。
「以前、私は『一存では決められない』とお伝えしました」
セラが帳面を開き、以前の記録らしきページに目を落とす。
「あの時の報告は、正直、半信半疑で書きました。村の道が一本直っただけで、何が変わるのかと」
「それで?」
「辺境伯は、その報告を放置しませんでした。そして今、この橋を目にしています」
セラは橋を振り返った。朝の光が川面に反射して、木組みの陰影をくっきりと浮かび上がらせている。
「言葉より、これが証拠になりました」
誠は何も言わず、橋を見た。
かつての現場で、報告書も工程表も、誰も本気で読まなかった。図面通りに進めても、上は結果しか見ない。それでも仕事はしていた。だが目の前の女は、結果の裏にある段取りまで見ようとしている。
それだけで、悪くない、と思った。
「監督の仕事は、口で説明するより、見せた方が早い」
「ええ。今回、それがよく分かりました」
セラは帳面を閉じ、護衛に短く合図を送った。馬に乗る準備が始まる。
「正式な話は、後日改めてお伝えします」
一礼して、セラは踵を返した。だが数歩進んだところで足を止め、振り返る。
「監督」
「なんだ」
「今度お伝えする話は——道と、それだけでは済まないかもしれません」
それだけ言うと、セラは馬に乗り、護衛とともに街道の向こうへ消えていった。
誠はしばらく、土埃の消えた道を見つめていた。
日が高くなっても、光には力がない。冬の日は短い。街道の話が本当に動くなら、着手できる季節は限られる。今から段取りを組んでも、遅すぎるということはないはずだ。
頭の中で、村道と橋を直した時の手順が勝手に組み変わっていく。あの規模ではない。もっと長い距離、もっと厄介な地形になる。
——だが、やることは変わらない。
崩した理由を見る。段取りを組む。人を集める。
道だけでは済まない。
その一言が、やけに耳に残った。
次回の更新は、7月30日 21:10を予定しています。
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