第20話 現場監督、誘惑に抗う
乾いた河床に、槌の音が絶え間なく響いていた。
石組み班が運び込んだ石を、誠とバルドの職人たちが基礎の位置に据えていく。一つ据えるごとに、水平器代わりの水を張った溝で高さを確かめ、隙間には砕いた石を丁寧に詰めていった。指先は冷え切り、感覚が鈍くなっているせいで、細かい作業には余計に神経を使う。
「ここ、まだ半寸沈んでる」
誠が指摘すると、職人が黙って石の下に楔を打ち込み、微調整していく。地道な作業だった。派手さはないが、この一つ一つの精度が、後々の橋の寿命を左右する。
石を据え、突き固め、また据える。その繰り返しが、朝から晩まで続いていた。
ガルフが土台の突き固めを担当していた。大槌を振り下ろすたび、低い音が河床に響く。何度も、何度も。腕の筋肉が悲鳴を上げているはずだが、彼は表情一つ変えずに槌を振り続けていた。額から流れる汗が、冷えた空気に触れてすぐ湯気に変わる。
「水平、よし」
バルドが声を上げると、次の石が運ばれてくる。基礎はゆっくりと、しかし確実に形を成していった。
だが、その動きには、数日前にはなかった重さが混じり始めていた。
連日の作業で、村人たちの顔には疲労の色が濃くなっている。空は日ごとに低く垂れ込め、その朝はついに、小さな雪片がちらつき始めた。
「うわっ」
石を運んでいた村の若者が、足を滑らせて尻餅をついた。幸い怪我はなかったが、周囲から乾いた笑いも起きない。誰もが、それだけ余裕を失っていた。
道具を落とす音が、あちこちで増えていた。テオも、ガルフも、口数が目に見えて減っている。朝礼での掛け声にも、以前ほどの張りがなくなっていた。誠は槌を振るう手元を見ながら、その空気の変化を感じ取っていた。
昼の休憩時、バルドの職人たちが小声で話しているのが、誠の耳に届いた。
「このままの調子で、間に合うのか」
「雪、これからもっと降るぞ。川が凍り始めたら、作業自体できなくなる」
「棟梁、何も言わねえけど、たぶん焦ってる」
バルドは何も言わず、腕を組んだまま河床を見下ろしていた。以前より、その頻度が増えていることに、誠は気づいていた。誰よりも経験を積んだ男の勘が、何かを察知しているのかもしれなかった。空を見上げる回数も、心なしか増えている。
その日の夕方、作業を終えたところで、ドルガが誠のもとへやってきた。
「誠、少しいいか」
その声には、いつもの張りがなかった。ドルガの背中は、いつもより少し丸まっているように見えた。
「村の連中の限界が近い。今朝、二人ほど熱を出して寝込んだ」
「……知ってます」
「このままの速さじゃ、冬までに終わらんかもしれん。だったら――」
ドルガは言葉を選ぶように、一度口を閉じた。しばらく地面を見つめてから、また口を開く。
「多少、確認の手間を省いても、いいんじゃないか。石の据え方も、毎回そこまで細かく見なくても」
誠は、すぐには答えなかった。
「儂は、お前のやり方を疑ってるわけじゃない。ただ、村の連中がこれ以上倒れちゃ、元も子もない」
村長としての重みが、その声に滲んでいた。これまで誠のやり方を支持してきた男が、疲弊する村人たちを前に、初めて揺らいでいる。
「儂も、若い頃に似たようなことがあった。街道の普請で、冬が迫って、皆くたくたで……あの時は、適当なところで手を打った。結局、次の年にまた同じ場所が崩れた」
ドルガは自嘲するように、小さく笑った。
「分かっている。急いで手を抜けば、また同じことになると。それでも、今の村を見ていると、口に出さずにはおれん」
その言葉には、彼自身の過去の後悔と、目の前の村人への思いやりが、ないまぜになっていた。
そこへ、ミラが駆け寄ってきた。ドルガとの話を、少し離れた場所で聞いていたのかもしれない。
「監督、私がもっと魔力を込めればいいんじゃない?」
「もっと、というと」
「今までは、精度を優先して魔力を抑えてた。でも、多少雑でも、一気に埋めたり固めたりすれば、日数を大幅に縮められる。私の魔力なら、できるはず」
ミラの目は真剣だった。誰かを楽にしたい、その一心からの申し出だと、誠にはよく分かった。
「私、まだ皆の役に立てる。監督が一人で抱え込まなくていいように」
その言葉に、誠は胸を突かれる思いがした。かつて「一人で背負うことじゃない」と自分に言い聞かせたのと同じことを、今度はミラが誠に向けて言っている。彼女の成長が、確かにここにある。
――だが。
誠の脳裏に、一瞬にして、あの日の光景がよみがえった。
工期表に赤字で書き込まれた短縮の指示。現場に響く重機の音。そして、事務所で向き合った火村工事部長の、汗ばんだ丸い顔。
「工期が厳しい。段取りは、多少省いてもいい」
そう言った男の声は、今でもはっきりと耳の奥に残っている。分かっていたはずだった。省略していい安全などない。あの時、誠は書類を握りしめ、「それはできません」と言いかけた。だが、上からの圧力と、後がない工程表を前に、言葉は喉の奥で止まった。
――今回だけは。次からは、ちゃんと戻す。
そう自分に言い訳をした瞬間のことを、誠は今でも覚えている。あの一瞬の妥協が、取り返しのつかない一日に繋がった。
足場の点検を一日、省略した。たった一日。だが、その一日の間に、緩んだ金具が誰にも気づかれないまま、そこにあり続けた。
崩れる音がした瞬間、誠は考えるより先に動いていた。悠真の体を突き飛ばし、自分がその場に留まった。何が起きたのか、痛みすら感じる暇もなかった。気づいた時には、もう体が動かなかった。
――俺が、あの日にもっと強く言っていれば。段取りを削らせなければ。
そう思ったのは、いつも決まって、全てが終わった後だった。
今、目の前にいるのは、あの時の元請けとは違う。ドルガもミラも誠を信頼し、村を、誠を守ろうとしているだけだ。悪意は、どこにもない。
――だからこそ、危うい。
悪意のない誘惑ほど、断りにくいものはない。誠はそのことを、身をもって知っていた。相手を思う気持ちから出た「今回だけは」が、一番厄介だということも。
「ドルガさん、ミラ」
誠は、二人の目をまっすぐ見た。
「気持ちはありがたいです。でも、確認を省くことも、魔力で雑に埋めることも、できません」
「……そうか」
ドルガの声が、少し沈んだ。
「精神論で言ってるわけじゃありません。石の据え方一つ、土の締め方一つが甘いと、そこが弱点になる。橋脚が流された時と、同じことが起きます」
誠は河床にしゃがみ込み、据えたばかりの石を指した。
「ここが甘ければ、増水の時、また同じ場所から崩れる。今度は、村の誰かが橋の上にいる時かもしれない」
その言葉に、ドルガもミラも、口をつぐんだ。
「だからといって、今のままの人手で押し切るつもりもありません」
誠は立ち上がり、頭の中で組み直した段取りを口にした。
「石組み班と基礎組み班で、作業時間をずらします。疲れが溜まってる班から、順番に休ませる。今日休んだ分は、別の班が肩代わりする形にすれば、誰か一人に無理を集中させずに済む」
「それで、間に合うのか」
「間に合わせます。急ぐんじゃなく、無駄をなくす。それが、段取りです」
誠はさらに続けた。
「それと、体調を崩した二人は、無理に現場へ戻さないでください。人手は、俺とバルドさんで割り振り直します。倒れた人間を一人抱えるより、元気な人間を効率よく回す方が、結局は早い」
ドルガは、しばらく誠の顔を見つめていた。それから、深く息を吐いた。
「……儂が、弱気になった。すまん」
「謝ることじゃありません。村の皆を思っての言葉です」
ミラも、俯きながら頷いた。
「私も、ごめん。ちゃんと考えず、力業に頼ろうとした」
「その気持ちは、悪くない。ただ、今はまだ使う時じゃないってだけだ」
誠はそう言うと、ミラの頭に軽く手を置いた。
「お前の魔力が本当に活きる場面は、これから先にもっとある。今日、無理に使い切る必要はない」
ミラは、少し照れくさそうに頷いた。
少し離れた場所で話を聞いていたバルドが、腕組みを解いて歩み寄ってきた。
「――お前、頑固だな」
「よく言われます」
「悪い意味じゃない」
バルドはそう言うと、河床に転がる石を一つ拾い上げた。
「段取りを組み直すなら、うちの職人の割り振りも変える。監督、明日からの班分けを、もう一度詰めるぞ」
「お願いします」
「あと」
バルドは付け加えるように言った。
「体調崩した二人の分、うちの若いのを二人回す。人手が足らなくなるのは、うちでもよくあることだ」
思いがけない申し出に、誠は一瞬言葉に詰まった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。冬前に橋を架けると決めたのは、俺だ」
ドルガも、目元を拭いながら頷いた。
「儂も、明日から皆に伝える。休む時は、遠慮なく休めと」
雪はまだ、ちらついていた。だが、河床に立つ誰の目にも、迷いは残っていなかった。
誠は空を見上げた。灰色の雲の向こうに、まだ弱々しい太陽の光が透けている。冬は容赦なく迫ってくる。それでも、今この場にいる誰もが、同じ方向を向いていた。
最後の追い込みが、始まろうとしていた。
次回の更新は、7月28日 21:10を予定しています。
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