第1話 現場監督、最後の指示を出す
第1章
まだ朝の7時半。いつもより少し早い朝礼。
長靴の底が、昨夜の雨を吸った土に沈む。ずぶり、と重い感触。誠は足を引き抜きながら、法面の際まで歩いた。
土と鉄の匂いがする。生コンの残り香に、錆びた足場の匂いが混じっている。遠くで発電機が唸り、吐く息が朝の光に溶けていく。山の際にはまだ靄が残り、鳥の声だけが妙に近い。
作業員たちの視線が集まった。
「昨日の雨でさらに開いた可能性があります。今日は法面側の作業を止めて、先に養生シートを掛け直しましょう」
「轟さん、それやると半日潰れますよ」
若い作業員の一人が渋い顔をする。誠は頷いた。
「潰れます。でも崩れたら半日どころじゃない」
段取り八分、仕事二分。誠が現場に入って十二年、変わらない口癖だった。準備を怠らなければ、事故の九割は起きない。それが誠の信じる唯一の法則だった。
朝礼の締めに、誠は法面際を指差した。
「今日の危険予知——KYはこれ一点に絞ります。亀裂の進行、単独での接近禁止。何か見えたら声を出す前に離れること」
作業員たちが頷く。声を出すより先に離れろ、というのが誠のいつもの言い分だった。声を出す一秒すら惜しい時がある。
朝礼が終わる頃、元請けの火村工事部長がヘルメットを片手に現場に降りてきた。五十絡み、白髪交じりの角刈り。革靴には泥ひとつ付いていない。現場を歩かない靴だ、と誠はいつも思う。
火村は誠を見つけると、開口一番だった。
「法面止めるって聞いたが」
「ひびが進行してます。念のため養生シートを――」
「念のためはいい。工期が三日押してる。発注元から今朝も電話が来た」
「三日押してるのは、先週足場の組み替えでこっちに無理な指示が出たからで」
「言い訳はいらん。今日は法面側も予定通り進めろ。誘導員も一人減らして人足に回す。間に合わせろ、方法は聞かない」
火村はそれだけ言うと、現場を見もせずに事務所へ戻っていった。
誠は動かなかった。
養生シートを張るだけの半日を、火村は「無駄」だと切り捨てた。誘導員を減らすことも、法面の異変を放置することも、火村にとっては手順ではなく単なる邪魔な工程でしかない。
本来なら当たり前にやるべきことを、当たり前だからという理由で誰も守らなくなる。誠が一番嫌う現場の空気だった。
だが今は言い返す時間さえ惜しい。誠は頭を切り替えた。人を減らされた分は、自分の目でカバーするしかない。段取りが崩れたなら、崩れた分だけ自分の体で埋める。それが誠のやり方だった。
資材搬入のトラックが来るまでの短い合間、誠は柏木悠真を手招きした。
「悠真、水分摂れ。今日は蒸れる」
「あ、はい」
悠真はペットボトルを受け取りながら、へへ、と笑った。今年で三年目、まだヘルメットの下の顔に幼さが残る。
「轟さん、俺、来月の資格試験受けようと思ってて」
「二級か」
「はい。轟さんに教えてもらった通り、まず過去問三年分やってます」
「悪くない。ただ、暗記より現場で理由を考えろ。なんでこの型枠にこの数の支保工が要るか、とか」
「……それ、この間言われて、まだ半分もわかってないです」
悠真が首をすくめる。誠は思わず口元を緩めた。
「田舎の親父さんも職人だったんだろ。血だな」
「やめてくださいよ、親父は基礎屋一筋で、俺がゼネコン入ったって話したら鼻で笑われたんです。現場で図面引けるようになったら見返してやりたくて」
「なら尚更、暗記だけで終わるな」
「わかるまで聞きに来い。俺はどこにも行かない」
軽口のつもりだった。だが言ってから、誠は少しだけ間を置いた。悠真のような若手を一人前にするのが、この十二年で誠が一番時間をかけてきた仕事だ。人に仕事を渡すのが下手なくせに、教えることだけは苦にならない。矛盾している自覚はあった。
「柏木さん」
トラックの誘導係から声がかかる。悠真は軽く敬礼のような仕草をして駆けていった。その背中を見送りながら、誠はふと、こいつが独り立ちする現場を見届けたいと思った。
「轟さん」
戻ってきた悠真が、今度は真顔で言った。
「法面、俺が見張っときましょうか。何かあったらすぐ知らせます」
「悠真は資材搬入の誘導だ。今日は人が減ってる分、お前の持ち場から目を離すな」
「でも轟さん1人じゃ――」
「いいから、お前の仕事をしろ」
誠は短く言って、悠真の肩を軽く押した。
誰かに任せるのが下手なのは自分でも分かっている。だが今日は特に、目の届く範囲を自分の身一つで抱えるしかなかった。人を割ける余裕が、今の現場にはない。
作業が再開する。
誠は法面のそばに立ち、ひび割れの動きを目で追い続けた。昨日より確実に開いている。雨水が染み込んで、内側から緩んでいる感触がある。経験がそう告げていた。湿った土の匂いが、時間を追うごとに強くなっている気がした。
昼を過ぎた頃、地鳴りのような低い音がした。
誠は反射的に振り返った。
法面の一部が、崩れる予兆で膨らんでいる。
そしてその真下、資材搬入のトラックを誘導していたはずの悠真が、誘導員不足のあおりで法面際まで下がっていた。
見た瞬間、頭の中で答えが出た。
悠真とここの距離、法面が崩れるまでの猶予、自分が動いて間に合うかどうか。逃げるなら悠真は右だ。左は積み上げた資材で塞がっている。他の作業員は遠い、助けを待つ余裕はない。考えるというより、体が先に結論を出していた。
「悠真!そこから離れろ!」
叫んだときにはもう、土砂が動いていた。
誠は走り出していた。ぬかるんだ地面に足を取られながらも止まらない。距離は十メートル足らず。だが体感では永遠に感じた。
悠真の腕を掴み、力の限り押し出す。
自分の体が入れ替わりに、崩れてくる土砂の中に取り残されるのが分かった。それでよかった。若い方を、生かす。それだけが、あの瞬間の誠にとって唯一の正解だった。
視界の端で、悠真が転がるように法面の外へ弾き飛ばされるのが見えた。誰かが悲鳴のような声で名前を呼ぶのが遠く聞こえた。
それだけ確認できれば十分だった。
轟き。衝撃。重み。
音が遠くなっていく中、誠は最後にもう一度、悠真の姿を探した。
――間に合った。
意識が、暗く沈んでいく。
段取りは、いつだって最後まで自分の仕事だと思っていた。
次回の更新は、7月15日 13:30を予定しています。
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