第16話 現場監督、予測を的中させる
その日の朝は、様子が違っていた。
空気が湿り、上流の方角から届く水音が、いつもより低く唸っている。空を見上げると、山の稜線に重たい灰色の雲がかかっていた。吐く息の白さも、心なしかいつもより濃い。冬はもう、すぐそこまで来ている。
土の匂いにまで、いつもと違う湿り気が混じっていた。長年現場に立ってきた誠の勘が、静かに警鐘を鳴らしている。
「監督、川の水が増えてる」
ミラの声に、緊張が滲んでいた。誠は駆け寄り、杭に刻んだ水位の跡を見た。昨日より、明らかに高い。指先で触れた木肌は、朝露を吸ってひやりと冷たかった。
(……予想より、早いな)
【大地審眼】を起動する。川岸一帯が、視界の中でざわめくように色を変えていた。杭を打った箇所の周囲が、これまでよりも濃い赤に染まっている。水の勢いが、目に見えて増していた。
見る。判断する。動く。
「ミラ、村に戻って皆に知らせろ。川に近づくな、資材は今すぐ高台へと」
「え、でも、まだデータが」
「今はそれどころじゃない」
短く言い切りながら、誠の脳裏を一瞬、悠真の顔がよぎった。あの日も、こうして誰かに「危ない、離れろ」と叫んだはずだった。今度こそ、間に合わせる。
そう言い切ると、ミラは頷いて走り出した。誠自身も、川岸に置いていた木材や道具を、急いで高台へ運び始めた。
村に戻ると、ドルガが既に人を集めていた。
「監督、どうなっておる」
「上流で、雨が降ってるはずです。この分だと、今日中に増水します」
「今日中、だと」
ドルガの顔から、さっと血の気が引いた。三年前の記憶が、この村の誰の中にも消えずに残っている。
「杭を打った場所――橋脚の跡がある辺りは、真っ先に削られます。あの周辺には誰も近づけないでください」
ドルガは一瞬迷う素振りを見せたが、すぐに大声で村人に指示を飛ばし始めた。木材を運ぶ者、家畜を高台へ移す者、井戸端の桶や道具をかき集める者――半信半疑の目を向けていた者たちも、この慌ただしさの前では従うしかなかった。
ハンナは家々を回り、老人や小さな子供の手を引いて高台へ誘導していた。慌ただしく駆け回る足音と、荷車の軋む音が、村中に響き渡っている。
「ねぇ、大丈夫かな」
「大丈夫、大丈夫だから。誠さんの言う通りにすれば平気だから」
子供の不安げな声に、ハンナは努めて明るく答える。その言葉が、誠の耳にも届いた。信じてくれている――そのことが、体の奥に力を与えてくれる気がした。
ミラは村の中を走りながら、ふと川べりで遊んでいたピノの姿に気づいた。
「ピノ! 川は危ないから、離れて!」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。ピノの手を引いて高台へ駆け上がりながら、ミラは以前の自分なら、こんな風に大声で誰かに指図することなどできなかっただろうと思った。誰かを守るために動く。それが今、当たり前のようにできている。
そんな中、ガルフは黙々と、川に近い納屋から荷を運び出していた。誰よりも早く、誰よりも多く運んでいた。
「ガルフ、無理はするなよ」
誠が声をかけると、ガルフは手を止めずに一言だけ返した。
「……間に合わせる」
その目には、いつもと違う焦りがあった。誠には、その理由が分かる気がした。三年前、同じような水音の中で、彼は妻を失っている。あの日、誰かが「危ない」と一言でも早く声を上げていれば――そんな悔いを、この男はずっと抱えてきたのかもしれない。
最後の一往復を終えたガルフは、荷を高台に下ろすと、川の方角を睨むように見た。それ以上は何も言わず、また次の荷へ向かっていった。
昼過ぎ、川は姿を変えた。
濁った水が、両岸ぎりぎりまで盛り上がっていた。轟々という水音が、村の中まで届いてくる。飛沫が高台の際まで届き、冷たい霧のように顔にかかった。誠は少し離れた高台から、その様子を見守っていた。
杭を打った一帯――誠が「ここが削られる」と告げた場所に、村人たちの視線が集まっていた。誰もが息を詰め、川面から目を離さずにいる。
水が渦を巻き、その場所の岸を、目に見える速さで削り始めた。土がごっそりと持っていかれ、杭の一本が傾き、やがて水の中に消えていく。続けてもう一本、また一本。杭は誠が予測した順番通りに、次々と姿を消していった。
誰も、声を出さなかった。
言葉より先に、目の前の光景がすべてを語っていた。誠が指した場所が、誠の言った通りに崩れていく。それだけの、単純な事実だった。
「……本当に、分かってたのか」
隣に立っていたテオが、ぽつりと呟いた。かつて誰よりもミラの魔法を嘲笑い、誠のやり方に反発していた男の口から出た言葉だった。
少し離れた場所で、ミラも同じ光景を見つめていた。かつて自分の魔法を「気味が悪い」と言われた日のことを、彼女はふと思い出していた。今、誰も彼女を笑わない。誰もが、誠とミラの言葉に息を呑んでいる。
ドルガは何も言わず、ただ川と誠を交互に見ていた。その目に、これまでとは違う色が浮かんでいるのを、誠は見て取った。
夕方になる頃には、水は徐々に落ち着き始めた。
濁流の跡には、削られた岸と、流された杭の残骸だけが残っていた。誠はその場所を見つめながら、静かに息を吐いた。
高台に集まっていた村人たちの間から、安堵の声が漏れ始めた。子供を抱きしめる母親、荷を下ろして座り込む男たち。誰も怪我をせず、何も失わずに済んだ。それだけの事実が、これほど重く感じられたことはなかった。
誠は水が引き始めた川岸に降り、【大地審眼】でもう一度周囲を見渡した。削られた岸の色は、まだ赤に近い黄色でくすぶっている。だが、それ以上の広がりは見られなかった。予測の範囲内だ。
「この程度で済んで、助かった」
誠は小さく呟いた。次に架ける橋は、もっと川の性質を踏まえた場所と工法を選ぶ必要がある。今日の記録は、そのための貴重な材料になる。
予測は当たった。だが、それだけでは足りない。
前の現場でも、危険を予測すること自体は、そう難しくなかった。難しいのは、その予測を誰かの命を守る行動に変えることだ。悠真を助けられなかったのは、予測が足りなかったからじゃない。行動に移す一歩が、遅かったからだ。
今度は、間に合った。
橋を架け直すには、もっと多くの手が要る。だが今日、村人たちは誠の言葉を、初めて疑いなく信じて動いた。この信頼こそが、これから先の全ての工事を支える土台になる。
「……今日のことはクロイツェンにも伝わるだろう」
ドルガが、隣に立って呟いた。
「あの棟梁の耳にも、届くといいんですが」
誠がそう返すと、ドルガは小さく笑った。
「届かせればいい。届くまで待つ理由もない。噂を待つより、こっちから突っ込んでしまえ」
「証拠なら、揃ってます」
誠は懐から、あの数字の記録を取り出した。杭の位置、削れた速さ、そして今日、予測通りに崩れた事実。ドルガはそれを覗き込み、感心したように唸った。
「しかし、たかが杭と縄で、ここまで分かるとはな」
「杭と縄は、道具の一つに過ぎません。大事なのは、毎日欠かさず測ることです」
その言葉に、ドルガは何度も頷いた。
冷え込む夕暮れの中、川はまだ低く唸っていた。だがその音はもう、恐怖ではなく、次の仕事への号砲のように誠の耳に響いていた。
明日には、もう一度町へ向かう支度をしよう。誠はそう決めて、暮れていく空を見上げた。
次回の更新は、7月24日 21:10を予定しています。
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