第15話 現場監督、数字で語る
峠を越え、見慣れた村の輪郭が見えてきた頃には、日はすっかり傾いていた。土の匂いに、微かに焚き火の煙が混じる。冬の匂いだ、と誠は思った。
「証明してみせろ、か」
口の中で呟くと、思いのほか重かった。あの男は、誠の言葉を頭ごなしに否定したわけではない。ただ、口約束では動かないと言っただけだ。
――前の現場でも、同じだった。「言った」「聞いてない」の水掛け論を潰すのは、いつも記録だった。日報、写真、測量の数字。感覚じゃなく、誰が見ても同じものを残す。それが、現場を守るということだった。
理屈より、目に見える事実。バルドが欲しがっているのも、きっと同じものだ。
村に戻ると、ドルガが待ちかねたように駆け寄ってきた。
「どうだった」
「木材と金具は、まだ頼めていません」
誠は経緯を手短に話した。バルドという棟梁の名、川底の話に一定の反応を示したこと、そして「証明してみせろ」という一言。
ドルガは腕を組み、唸った。
「証明、とは。もう見てきたことを、どう証明しろというんだ」
「一度見た結果じゃなく、進んでいる証拠を見せます」
「進んでいる……?」
「川底は今も削れ続けてるはずです。それを、数字で示します」
その夜、誠はミラに図を描きながら説明した。
「川岸に、目印の杭を何本か打つ。橋脚があった場所の周りに、間隔を測って」
「杭を、打つだけ?」
「杭からの距離と、水面までの深さを毎日測る。何日か続ければ、削れてる場所とその速さが数字になる」
ミラは首を傾げた。
「見れば分かるのに、どうしてわざわざ測るの?」
「見た目の印象は、人によって違う。数字は、誰が見ても同じだ」
その一言に、ミラは何かを飲み込むように黙った。誠は続けた。
「バルドは経験を積んだ職人だ。俺の言葉は信じなくても、俺が集めた事実は信じる」
翌朝から、川岸での作業が始まった。
夜明けの川岸は、まだ霜で白く、草を踏むたびに氷の粒が砕ける音がした。誠が組んだ木の杭を、川岸に沿って等間隔に打ち込んでいく。ミラは縄を張って距離を測る役目を任されたが、慣れない手つきで何度も測り直していた。
「ここ、あってる?」
「ずれてる。基準の杭から、まっすぐ引け」
「まっすぐって言われても……」
半分呆れたような、半分面白がるような村人たちの視線が、遠くから注がれていた。杭を打つだけの作業に、何の意味があるのか。誰の顔にもそう書いてあった。
そんな中、テオだけは何も言わず、杭を運ぶ手伝いに加わっていた。以前の彼なら真っ先に鼻で笑っていたはずの作業だ。
「テオ、いいのか。運搬班の仕事もあるだろう」
「こんなもん、大した手間じゃない」
素っ気ない返事だったが、その日から毎朝、テオは言われる前に杭と縄を担いで川岸に現れるようになった。誠がその変化に気づいていることを、テオ自身は知らない。
ドルガだけは、腕を組んだまま黙って見ていた。何も言わず、ただ見ていた。
それから数日、朝の測定が村の日課になった。
一日目、杭からの距離を測るミラの縄は何度もずれ、誠が同じ場所を三度測り直す羽目になった。二日目、ようやく手つきが安定してきたものの、数字の読み方でまだ戸惑っていた。
「監督、この差、大きいの? 小さいの?」
「昨日の数字と比べろ。増えてるか減ってるか、それだけでいい」
杭からの距離、水面までの深さ。ミラはその都度、震える手で縄を張り、誠が声にする数字を紙に書き留めていく。三日目にはほとんど迷いなく縄を張れるようになり、四日目には誠が測る前に自分から数字を読み上げるようになっていた。
「監督、また同じとこだけ、数字が動いてる」
四日目の朝、ミラが指した杭の記録には、他の杭より明らかに大きな変化が並んでいた。橋脚があった場所の真下――誠が最初に赤く光るのを見た、あの一点だった。
誠は紙に並んだ数字を指でなぞった。一日ごとの変化はわずかでも、積み重なれば無視できない量になっている。感覚では気づけない速さで、川底は今も削れ続けている。
「ここが、一番削れてる場所だ。バルドに見せる証拠は、これで揃う」
ドルガは相変わらず何も言わなかったが、誠が紙を広げるたび、横からじっと数字の列を覗き込むようになっていた。ある朝、ついに我慢できなくなったように口を開いた。
「……これで、本当にバルドとやらは信じるのか」
「信じさせるだけの数字を、これから積み上げます」
ドルガは何か言いたげに口を動かしたが、結局は小さく頷くだけだった。杭の列を見る目に、疑いよりも期待の色が増えているのを、誠は見逃さなかった。
冷え込みは日ごとに強くなっていた。朝の川岸に立つと、吐く息はすぐに白く固まり、指先はかじかんで縄を扱う手も鈍くなる。それでもミラは、震える指を息で温めながら、毎朝川岸に立ち続けた。
昼過ぎには、ハンナが握り飯を届けに来てくれた。
「冷えるでしょう。これで、少しは温まるから」
湯気の立つ汁を受け取り、誠とミラは川岸に座り込んで啜った。冷えきった体に染み渡る温かさに、ミラが小さく息を吐く。
「監督、こういう地味な作業のほうが、実は好きかも」
「なんでだ」
「だって、ちゃんと結果が、目に見えるから」
「俺は若い頃、これが大嫌いだったよ」
そう言うと、誠は小さく笑った。まだこの仕事をはじめて間もない頃、先輩に言われて水位の記録を取り続けたことがあった。当時はただ地味なだけで、意味を理解しないまま続けていた。しかし、現場の記録こそが工事には重要だったんだと、何年か経ってから気づいた。
派手な仕事より、地道な記録の積み重ねの方が、結局は誰かを守る。
五日目、六日目と数字は積み上がっていった。杭の記録は、もう言い逃れのできない形で、川底の変化を語っていた。
作業を終え、誠は最後に川面を見た。
夕日を反射して、水はいつも通り穏やかに流れていた。だが、目を凝らすと――上流の方で、水の色がわずかに濁っているのが見えた。
普段より、ほんの少しだけ、水位が高い。
「監督?」
異変に気づいた誠の表情を見て、ミラが不安げに声をかけた。
「山の方で、何かあったのかもしれない。……いや、考えすぎか」
そう自分に言い聞かせながらも、誠の中で何かが引っかかっていた。この時期の水位上昇は、村の誰からも聞いたことがない。杭のデータは、まだ何日分か必要だ。だが、川そのものが、その猶予を待ってくれるとは限らない。
季節外れの気配が、川の上流から静かに近づいていた。
次回の更新は、7月23日 21:10を予定しています。
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