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第11話 現場監督、貴族の使者に会う

霜が村の広場を白く覆っていた。


昨夜の祭りの残り火はまだ小さく燻り、灰の匂いが冷えた空気に混じっている。誠は誰よりも早く起き出し、広場の隅に立っていた。吐く息が白く尾を引き、夜露の凍った土を踏むたびに霜柱が小さく崩れる感触が長靴の底に伝わってくる。体の芯には疲労が残っていたが、頭は妙に冴えていた。


冬は、もうそこまで来ている。


村の入り口に、馬車が一台。昨夜見た通りの位置に、それは変わらず止まっていた。誠が歩み寄るより先に、扉が開いた。


降り立ったのは、若い女だった。


きっちりと結い上げた黒髪。飾り気のない文官服。腰には帳面と、使い込まれたペンケース。歩く姿勢は定規で引いたようにまっすぐで、この村の誰とも違う空気をまとっていた。女は村を一瞥し、小さく息をついた。


「……いつもならここまで、車輪が半分は泥に埋まるところなのですが」


独り言のような、誰にともない呟きだった。


その声を拾ったのは、寝起きの体を引きずって駆けてきたドルガだった。


「セラ様! 今の時期に、もういらしたか」


「ええ。定期の見回りです」


そう答えながらも、セラの目は既にドルガではなく、その足元――村の奥まで続く道の方に向いていた。


轍もぬかるみもない、平らな地面が一本に伸びている。彼女はしばらく、そこから動かなかった。


道の向こうでは、テオが運搬班の若い衆を率いて資材を運んでいる。見慣れぬ馬車に一瞬手を止めたが、すぐに顎で仲間に指図を出し、作業へ戻った。その様子に、以前のような刺々しさはない。


少し離れた井戸端では、ミラが桶を抱えて立ち尽くしていた。セラの仕立てのいい服を見て、土で汚れた自分の手を一瞬隠しかけ――だがすぐに、背筋を伸ばして視線を戻した。誠はその小さな変化を、横目で確かに見ていた。


「……これは」


周囲を見渡していたセラの事務的な声に、初めてわずかな揺らぎが混じった。


「うちの若いのが、いや」


ドルガが誠の方へ手を向けた。誇らしさを隠しきれない声だった。


「この男が、やった」


セラの視線が、初めて誠に向いた。値踏みするような、感情の読めない目だった。


「あなたは」


「技師をしている、轟誠といいます」


誠がそれだけ名乗ると、セラはしゃがみ込み、道の端に指先を這わせた。土の断面をなぞるように見て、それから立ち上がる。


(机上だけの人間じゃないな)


誠は内心でそう判じた。報告書の数字だけを見て頷くなら、指を汚す必要はない。この女は、自分の目と手で確かめる質の人間だ。それなら、話は早い。


無言のまま、セラは橋のたもとまで一定の歩幅で歩いていき、また戻ってくる。誠はその間、何も言わずに待っていた。


「排水は、どのように」


戻ってきたセラが、ようやく口を開いた。


「側溝を掘って、水の逃げ道を作りました。その後、土を締めて、層を分けて固めています」


セラは小さく頷き、帳面に何かを書きつけた。ペン先の音が、朝の静けさにやけに響いた。


「何日で」


「区画によります。村道全体で、十日ほどです」


「資材は」


「村にあるものだけです。新しく買ったものはありません」


そこで、ペン先が止まった。


セラは顔を上げ、しばらく誠を見つめた。誇張も謙遜もない答えが続いたことに、何かを測りかねているようだった。


「……あなたは、盛らない人ですね」


「できることをやっただけです」


――大きく見せて期待を裏切るより、地味でも約束を守る方がいい。前の現場でも、それだけを守ってきた。


「それが、一番難しいのですけれど」


彼女はそう呟くと、帳面を静かに閉じた。定規のようにまっすぐだった立ち姿が、ほんのわずかに緩む。


そのとき、セラの視線が再び橋の方へ流れた。


「あの橋は、いつからあのままですか」


「俺が来た時から、ずっとです」


「渡って、大丈夫なものでしょうか」


誠は答える代わりに、橋へ足を向けた。セラも黙ってついてくる。


近づくほどに、橋の姿がはっきりする。丸太を組んだだけの木橋。欄干の一部は苔むし、橋板の継ぎ目からは川面が透けて見えた。踏むたびに、かすかに軋む。


【大地審眼】が、視界の隅で静かに立ち上がった。


橋脚は根元から黄色く滲み、水に浸かる部分は特に色が濃い。橋桁を支える継手の一箇所は、橙に近い色でぼんやりと発光していた。あと何日保つかまでは、視えない。だが、この冬を越せる保証はどこにもない。


「……お世辞にも、長くはもたないと思います」


誠は静かに言った。


「水に浸かるところから、傷んでいます。増水が来れば、危ないでしょう」


「浸かるところから、というのは」


セラが眉をひそめた。専門の人間ではない。誠はできるだけ短く言い換えた。


「木は、乾いたり濡れたりを繰り返すことで徐々に弱ります。ずっと水の中でも、ずっと乾いていてもまだ保つ。一番早く傷むのは、その境目です」


セラは黙って帳面に書きつけた。要点だけを掬い取る手つきだった。


遅れて追いついたドルガが、橋を見上げて顔を曇らせた。


「まさか、橋までか……」


「今すぐという話ではありません。ですが、頭には入れておいてください」


セラの表情が、初めて硬くなった。


「この村には、もう」


「これ以上の資材も、人手もありません」


誠は正直に答えた。村道で使い切った。橋まで手が回る余力は、今の村にはない。

セラはしばらく黙って橋を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「正直に言います」


セラは道の先に目をやりながら続けた。


「この村へ来るたび、私はこの道を呪っていました。轍に馬車を取られて、半日を無駄にしたこともあります」


「今は」


「今は――わかりません。次にここへ来る用事があるかどうかも」


ふ、と口の端がわずかに緩んだ。すぐに元の表情に戻ったが、誠には確かに見えた。


「ただ、これは私の一存で決められる話ではありません。私はガレストン辺境伯の使いに過ぎませんので」


セラは帳面を開き直し、今度は自分から言葉を継いだ。


「我が領には、この程度では済まない道があります。街道は各所で崩れかけ、隊商は北の迂回路を使うようになりました。それから、国境近くの古い砦も、長らく手が入っていません」


言葉は淡々としていたが、その裏にある切実さは誠にも伝わった。


「この橋のことも、必ず併せてお伝えします」


そこへ、湯気の立つ椀を手にしたハンナが小走りにやってきた。


「帰りの道すがら、冷えるでしょう。よかったら」


差し出されたのは、根菜の匂いがする温かい汁だった。セラは一瞬戸惑った顔をしたが、両手で椀を受け取り、一口すすった。強張っていた肩から、わずかに力が抜けるのが誠にもわかった。


「……美味しい」


「よかった」


ハンナは笑い、椀を受け取りに戻っていく。セラはその背を、少しの間見送ってから一礼し、馬車へ戻っていった。


車輪の音が、以前のように泥に沈むことなく、乾いた土の上を軽やかに遠ざかっていく。誠はその音が村の外へ消えるまで、道の端に立ってじっと見送っていた。


隣に、いつの間にかガルフが立っていた。運んでいた杭を肩に担いだまま、無言で橋を見つめている。何かを言いかけて、結局何も言わずに作業へ戻っていった。その背中に、誠は何かを感じたが、今は言葉にしなかった。


吐く息の白さが、また一つ濃くなった気がした。冬は待ってくれない。


道の先には、まだ見ぬ街道が続いている。峠道、砦、そのさらに向こう。

だが誠の目に焼きついていたのは、そのどれでもない。


橙に滲んで発光していた、橋桁の継手――あの色だった。

次回の更新は、7月19日 21:10を予定しています。


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