第10話 現場監督、村の道を繋ぎ終える
工事をはじめて数日、最後の側溝に水が流れ込んだ瞬間、誠は小さく息を吐いた。
夕暮れの光が、掘りたての土の表面を橙色に染めていた。水音が、村の端から端まで、途切れることなく続いている。土の匂いに混じって、乾いた草の匂いがかすかに漂っていた。初めてこの村に降り立った朝、長靴を呑み込んだあの重い泥の感触を、誠はふと思い出した。あの泥道が、もうどこにもない。
数日がかりの工事だった。井戸端、荷車道、畑への道。村を巡る道という道が、ようやく一本に繋がった。
「できた……できたよ、監督!」
ミラが泥だらけの両手を掲げて駆け寄ってきた。その顔には、疲労よりも大きな高揚が浮かんでいた。
「終わったな」
誠は短く答えた。だがその一言に込めた重みは、自分でも意外なほど深かった。
「あたし、初めて誰かの役に立てた気がする」
ミラがぽつりと言った。俯きがちだったあの夜の横顔とは、別人のように背筋が伸びている。
「役に立ったんじゃない。役に立っていたんだ、最初から。気づく人間がいなかっただけで」
誠がそう言うと、ミラは目を丸くして、それからくしゃりと笑った。土で汚れた頬に、涙の筋が一本流れているのに、誠は気づかない振りをした。
真っ先に動いたのは、ピノだった。
「わあああ!」
小さな体で、仕上がったばかりの道を一直線に駆けていく。水たまりも、深い轍もない、平らな地面を、何のためらいもなく踏みしめて。母親らしき女が、その後ろを追いかけながら、声を上げて笑っていた。数日前、この同じ場所で足首をひねって泣いていた子供が、今は誰よりも軽やかに走っている。
その後ろ姿を、ガルフが黙って見つめていた。腕を組んだまま、何も言わなかったが、その目には確かな安堵の色があった。
「テオさん」
誠が声をかけると、テオは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「……大したことしてねえよ、俺は。あんたの言う通りに動いただけだ」
「言う通りに動いてくれる人間が、一番大事なんですよ」
テオは何か言い返そうとして、結局何も言わずに、仕上がった道の方へ視線を逸らした。それから、ぼそりと付け加えた。
「……次があるなら、また声かけろよ」
その一言に、誠は小さく頷いた。数日前、鼻を鳴らして立ち去った男と同一人物とは思えない変わりようだった。
夜、広場に村総出の宴が用意された。
焚き火の炎が夜風に揺れ、パチパチと薪の爆ぜる音が響く。大鍋からは、いつもより濃い出汁の匂いが立ち上っていた。湯気が夜気に溶けて、辺り一帯に温かい匂いを広げている。子供たちが焚き火の周りを駆け回り、大人たちの笑い声がそれに重なった。
「今日は奮発したのよ」
ハンナが椀を手渡しながら、少し照れたように微笑んだ。
椀の中には、根菜と一緒に、これまでより厚く切られた肉が沈んでいた。誠は一口すすった。出汁の旨みが濃く、肉は柔らかくほろりとほどけた。噛むほどに滲み出る脂の甘みが、疲れた体に染み渡っていく。焚き火の熱と椀の温かさが、両側から誠を包んでいた。
「美味いです、本当に」
「よかった……あなたのおかげで、この村は変わったの。だから、少しくらい奮発しないとね」
ハンナの声には、これまでにない明るさがあった。
(村にこうやって笑顔が生まれるなら、やった甲斐がある)
誠はこの世界にきてはじめて、自分がここにいる意味を実感した。
村人たちは思い思いに車座になり、笑い声が絶えなかった。ミラはピノに囲まれて土魔法を見せびらかし、小さな塔を作っては歓声を浴びていた。テオは若者たちと今日の作業の手柄話に花を咲かせている。ガルフは静かに酒を口に運びながら、その輪をどこか遠くから眺めていた。
「……ありがとうな」
ガルフがぽつりと呟いた。誠にというより、独り言のようだった。
「あの日、止めてくれて。おかげで、こうして飯を食って酒が飲める」
それだけ言うと、ガルフはまた黙って杯を傾けた。多くを語らない男の、精一杯の言葉だと誠には分かった。
杖の音が近づいてきた。ドルガだった。焚き火の輪に加わることはせず、少し離れた場所に立ち、村を貫く道を、無言でぐるりと見渡した。
「……悪くない」
それだけ言うと、ドルガは誠の隣に腰を下ろした。杯を一つ受け取り、口をつけることもせず、ただ手の中で温めている。多くを語らないのは、この老人らしいと誠は思った。
「村長」
「なんだ」
「まだやることは残ってます。今日終わったのは、あくまで骨組みです。締固めが甘い箇所も、まだ何箇所か」
「……お前さんは、休むということを知らんのか」
ドルガが呆れたように言った。だが、その声には咎める響きはなかった。
「知ってます。ただ、今日はまだその日じゃないと思っただけです」
ドルガは小さく笑った。誠がこの村に来てから初めて見る、老人の笑い方だった。
「初めて会った時、わしはお前を、行き倒れの物好きだとしか思っとらんかった」
「今も、大して変わってないと思いますよ」
「かもな。だが、今のこの村を見せてやりたい人間が、わしには何人もいる」
その言葉に、誠は何も返さなかった。ただ、静かに頷いた。
誠はその光景を、少し離れた場所から見ていた。自分が培ってきた工事の段取り一つで、こんなにも人の表情が変わる。前世で幾度となく見てきたはずの光景が、今はどこか違って見えた。
誰かに仕事を割り振り、誰かに任せる。人に頼るのが下手で、何でも自分で抱え込んできた誠にとって、この十日間は初めての感覚だった。
ミラの魔法がなければ側溝は掘りきれなかった。
テオが束ねなければ運搬は回らなかった。
ガルフが倒れなければ、村の空気はここまで変わらなかったかもしれない。
一人で抱えることだけが、段取りではないのだと、誠は今更ながら気づき始めていた。前世で最後まで誰にも頼れなかった自分に、誠は今初めて、少しだけ違うやり方を教えられた気がした。
宴もたけなわの頃、一人の老人がぽつりとつぶやいた。
「道はこれでいい。だが……橋がなけりゃ、冬は越せんなあ」
その一言に、周囲の空気が少しだけ静かになった。
「川の木橋、去年の増水でだいぶ傷んでるもんな」
「あれが落ちたら、町まで出るのに丸一日の遠回りだよ」
「昔は、あの橋を渡って行商がよく来てたもんだが。近頃はさっぱりだ。北の方に道を取られちまってな」
ダンがそう付け加えると、何人かが頷いた。橋一本のせいで、村に入るはずの商いが逃げていく。誰もが薄々分かっていながら、口にする機会がなかった話らしかった。
村人たちの声には、笑いの中にも切実な響きが混じっていた。誠はその言葉を、静かに受け止めた。
道は繋がった。だが、村の暮らしはそれだけで完結しない。橋があり、その先に町があり、交易があり――全てが繋がって初めて、人の暮らしは回る。
(橋か)
宴が更けていく頃、誠は広場の端に立ち、暗闇に沈む村の輪郭を眺めていた。焚き火の明かりが届かない先まで、乾いた道がまっすぐ伸びているのが、闇の中でもかろうじて分かった。
道は繋がった。だが、この先も現場は続いていく。前世でもそうだった。一つの仕事が終われば、また次の仕事が待っている。それは現場を生業とする者の宿命だった。
焚き火の熱が、疲れた体にじんわりと染みていく。今夜だけは、その続きを考えるのをやめようと、誠は目を閉じた。
遠くで、虫の音が絶え間なく響いていた。夜はまだ暖かかったが、この心地よさもそう長くは続かない。冬はもうすぐそこまで来ている。
翌朝、村の入り口に、見慣れない馬車が一台、静かに止まっていた。
第1章完
第11話からは物語の進展に合わせ、毎日21:10の安定更新に切り替えます。引き続きお楽しみください!
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