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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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第98話 バルドゥスとの別れ

翌朝、足が少し重かった。


ハーラム町まで歩いて、町の石畳を歩いて、また村まで戻った。

十一歳の身体は、頭で思うよりずっと正直だった。


梯子を下りる時、ふくらはぎが少しだけ痛んだ。


「リナ?」


台所でエマが振り返った。

竈の火はまだ小さく、鍋の中で粥がゆっくり泡を立てている。


「足、痛いの?」


「少し」


「昨日はたくさん歩いたものね」


エマはそう言って、椀を一つ棚から取った。

それから、わたしの顔を見て少しだけ目を細める。


「今日は工房?」


「ううん。バルドゥスさんのところ」


エマは手を止めなかった。

椀に粥をよそい、木の匙を添えてわたしの前に置く。


「そう」


それだけだった。


(——お母さんは、聞かない)


(——でも、分かってる)


王都の手紙。

町の狼煙台。

ヨハンの詰所。


昨日見たものは、まだ頭の中で片付いていなかった。

紙と煙と、夜番の名前が書かれた古い紙。


その全部の奥に、ずっと別の問いが沈んでいる。


世界の根っこ。

読み取り層。


バルドゥスさんから最初に聞いた、あの古い言葉だった。


◇◇◇


バルドゥスさんの家へ向かう道は、昨日の町の道より柔らかかった。


土の道に、まだ朝露が残っている。

萌の月の風は冷たすぎず、けれど夏の重さもない。


畑の脇を歩きながら、わたしは昨日のヨハンの手を思い出していた。

木剣を握って硬くなった手。

道具袋をまだ使っている手。

ノラへの木片を渡した手。


(——手紙には手の硬さは届かない)


(——煙にはもっと届かない)


でも、どちらも必要だった。


紙だけでは遅い。

煙だけでは少ない。


それなら、煙にもっと多くを載せる。

そんなことを考えながら、わたしはバルドゥスさんの家の前に着いた。


門の横の古い松は、相変わらず斜めに枝を伸ばしていた。

その下で、バルドゥスさんが小さな籠を膝に置いて座っている。


籠の中には乾いた葉が入っていた。

バルドゥスさんはその葉を一枚ずつ指で選り分けていた。


「来たか」


顔を上げずに言われた。


「はい」


「足が重そうじゃな」


「昨日、町まで行きました」


「ふん」


バルドゥスさんは葉を一枚、籠の縁に置いた。


「町は足より先に頭を疲れさせる」


わたしは少しだけ笑った。

その言い方は、たぶん正しかった。


◇◇◇


「座れ」


バルドゥスさんは隣の古い腰掛けを杖の先で軽く叩いた。


わたしはそこに座った。

木の板は朝の冷たさを少しだけ残していた。


「王都の話か」


いきなり言われて、わたしは瞬きをした。


「知ってるんですか」


「村は狭い」


バルドゥスさんは葉を選り分けながら言った。


「それに、お前さんの家の前を、昨日アルベルトがずいぶん遅く歩いておった」


「お父さんが?」


「あれは考え事をしている足じゃ」


父の足音まで読まれている。


(——村の老人、見ている範囲が広すぎる)


そう思ってから、わたしは慌てて口を閉じた。


「すぐに王都へ行くわけじゃありません」


「うん」


「まず、紙で返します」


「うん」


「でも、いつか行くかもしれません」


バルドゥスさんの指が止まった。

乾いた葉が、指の間でかさりと小さく鳴った。


「そうか」


それだけだった。


けれど、その一言の中に、驚きはなかった。

ずっと前から知っていたことを、今聞いただけのような声だった。


◇◇◇


「バルドゥスさん」


「ん」


「前に言ってくれたことがあります」


「わしはいろいろ言う。年寄りじゃからな」


「世界の根っこに触れた人のことです」


バルドゥスさんの目が、少しだけこちらを向いた。


「読み取り層のことか」


「はい」


言葉にした瞬間、胸の奥が少し冷えた。


それは、ずっと追いかけたい問いだった。

魔法陣の下にあるもの。

世界が魔法を読み取る場所。


でも今のわたしの手には、そこまで届く道具がない。

届くどころか、どこに手を伸ばせばいいのかも分からない。


「王都へ行ったら」


そこで言葉が止まった。


バルドゥスさんは急かさなかった。

乾いた葉を一枚、籠の外へ移す。


「王都へ行ったら、その問いに近づくことになるのかなって」


「近づくかもしれん」


バルドゥスさんはあっさり言った。


「遠ざかるかもしれん」


「遠ざかる?」


「大きな場所には、大きな問いがある。大きな問いは、小さな問いを飲み込みやすい」


老人は籠の中を見たまま続けた。


「お前さんの問いが、お前さんのものでなくなることもある」


(——問いが取られる)


胸の奥でその言葉が重く落ちた。


前世でも似たことはあった。

誰かが始めた小さな改善が、会議をいくつも通るうちに別の目的へ変わっていく。

動かしたかったものと、動かされるものがずれていく。


十一歳の手を見た。

指は細い。

爪の横には、昨日の道でついた小さな土がまだ残っていた。


(——この手で、どこまで持っていける?)


◇◇◇


バルドゥスさんが、ようやく顔を上げた。


「リナ嬢ちゃん」


「はい」


「世界の根っこへの旅は、お前さんが決めるとき決めればよい」


声は静かだった。

けれど、乾いた葉の音より深く耳に残った。


「誰かに急かされて行くところではない」


「……はい」


「根っこを掘れば、木も畑も傷つく。掘るなら、掘る時を選ばねばならん」


バルドゥスさんはそう言って、籠の中の葉を一枚つまんだ。

茶色く乾いた葉は、端が少し欠けていた。


「今のお前さんの手にあるのは根っこを掘る鍬ではない」


「じゃあ、何ですか」


「紙と歯車と煙じゃろ」


心臓が一つ静かに跳ねた。


「煙」


「昨日、町で見てきた顔をしておる」


「顔で分かりますか」


「分かる。お前さんは、見たものをすぐ頭の中で並べる」


バルドゥスさんは少しだけ笑った。


「昔からそうじゃ」


◇◇◇


わたしは、膝の上で手を握った。


「煙を、文字にできないかと思っています」


言ってから、少しだけ怖くなった。


まだ形になっていない。

短い煙と長い煙。

間。

それを組み合わせれば、合図より多くのものを送れるかもしれない。


でもそれは、まだ頭の中の線でしかない。


バルドゥスさんは驚かなかった。

ただ、乾いた葉を一枚、鼻先に近づけて匂いをかいだ。


「煙に文字を背負わせるか」


「できるか分かりません」


「分からぬなら、見ればよい」


「はい」


「煙は根っこではない。道じゃ」


バルドゥスさんは葉を籠に戻した。


「道は、人が歩くためにある。まず道を作れ。根っこは逃げん」


(——根っこは逃げない)


(——でも、お兄ちゃんへの言葉は遅れる)


胸の奥の重さが、少しだけ形を変えた。


今すぐ世界の奥へ降りる必要はない。

けれど、今すぐ届いてほしい言葉はある。


ノラの木片。

母の食卓。

父の短い油の小瓶。

ヨハンの夜番。


それらは全部、世界の根っこより近い場所にあった。


◇◇◇


「しばらく、あまり来られないかもしれません」


そう言うと、バルドゥスさんは「ふん」と鼻を鳴らした。


「来たければ来い。来られなければ、来るな」


「それでいいんですか」


「年寄りは待つのが仕事じゃ」


バルドゥスさんは籠を膝から下ろした。

杖を手に取り、立ち上がる。


立ち上がるのに、少し時間がかかった。

わたしは思わず手を伸ばしかけて、止めた。


バルドゥスさんは自分の足で立った。


「リナ嬢ちゃん」


「はい」


「見えたものだけを書くな」


「え?」


「見えなかったものも書け」


老人の目が、まっすぐわたしを見た。


「お前さんは、見えたものにすぐ名前を付ける。じゃが、見えなかったものを忘れると、次に何を見るべきか分からなくなる」


見えなかったもの。


世界の根っこ。

読み取り層。

煙に載せられない手の硬さ。

手紙に残らない消した文字。


それらが一度に頭の中へ戻ってきた。


「はい」


今度の返事は、さっきよりも少しだけ深く出た。


◇◇◇


帰り道、わたしは何度も自分の指を見た。


細い指だった。

土が爪の横に残っている。

昨日の町の埃か、今朝の畑の土か、もう分からない。


でも、その指で紙を押さえることはできる。

線を引くこともできる。

短い煙と長い煙を並べて書くこともできる。


(——今日は根っこへ行かない)


(——煙を文字にする)


バルドゥスさんの家の方を振り返ると、松の枝の間で古いローブが少しだけ揺れていた。


手を振ると、バルドゥスさんは杖をほんの少しだけ上げた。


遠くて、声は届かなかった。


でも、その動きだけで十分だった。


わたしは前を向いて、紙と煙のことを考えながら村の道を歩いた。


■あとがき・解説


第98話は、バルドゥスとの会話で「世界の根っこ」への探求を一度脇に置く回でした。


第1部で見えた大きな謎を忘れるのではなく、今は目の前の道を作る。

今回は「世界の根っこ」「読み取り層」「煙は道であること」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「世界の根っこ」——魔法のさらに奥にあるもの


世界の根っこは、バルドゥスが以前から語っている、魔法が動く仕組みのさらに奥にあるものです。


リナは魔法陣を「読む」ことはできます。

けれど、その魔法陣を世界がどう受け取り、どう発動へ変えているのかまではまだ分かっていません。


ここでは、その探求を急がないことが確認されています。


■「読み取り層」——魔法陣と発動の間にあるかもしれない仕組み


読み取り層は、魔法陣と魔法の発動の間にあるかもしれない、見えない仕組みです。


第1部では、魔法陣はそのまま動くのではなく、世界が読み取って動かしているらしい、というところまで分かりました。


ただしこの段階では、この謎を本格的に解くのではなく、まず身近な通信の問題を扱います。


■「煙は根っこではない。道」——遠くの人へ言葉を届けるためのもの


狼煙は世界の真理そのものではありません。


けれど、離れた人に言葉を届けるための道にはなります。


リナにとって今必要なのは、遠い真理へ急ぐことではありません。

家族や町との間に、実際に使える道を作ることです。


第2部では、大きな謎を背景に置きながら、まず手の届く通信を形にしていきます。

次の話もお楽しみに。


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