第97話 兄の詰所
詰所へ向かう道は、石の匂いがした。
同じハーラム町の中でも、商人ギルドの前とは空気が違う。
荷車の油と香辛料の匂いが薄くなり、代わりに乾いた革と汗と、鉄を磨いたような匂いが混じっていた。
ベルマン氏は、細い路地の入口で足を止めた。
「この先です。私はここで失礼します」
「案内、助かった」
父が短く頭を下げた。
ベルマン氏は、わたしの方を見た。
「お嬢さん。狼煙台の次は詰所ですか」
「はい」
「今日は、見るものが多いですね」
「見るだけです」
そう答えた瞬間、ベルマン氏の目が少しだけ細くなった。
「ええ。今日のところは」
それだけ言って、ベルマン氏は商人ギルドの方へ戻っていった。
(——今日のところは)
(——やっぱり、見透かされてる)
わたしは何も言わずに、父の後ろを歩いた。
◇◇◇
自警団の詰所は、思っていたよりも小さかった。
石造りの低い建物で、入口の横に木の槍立てがある。
壁には古い傷がいくつも残っていた。剣の跡なのか、荷車をぶつけた跡なのかは分からない。
中から、掛け声が聞こえた。
「もう一回!」
「はい!」
その声の中に、聞き慣れたものが混じっていた。
ヨハンの声だった。
胸の奥が、跳ねた。
(——いる)
(——本当に、ここにいる)
手紙で何度も読んだ名前。
家の食卓で何度も口にした名前。
その声が、石の壁の向こうから聞こえていた。
父が入口の横で立ち止まった。
「入るぞ」
「うん」
父は扉を叩いた。
返事を待ってから、ゆっくり開けた。
◇◇◇
中は、土と藁の匂いがした。
床には固く踏まれた土があり、隅に古い藁が積まれている。
壁際には木剣と盾が並び、奥には粗末な寝台がいくつか置かれていた。
ヨハンは、木剣を持って立っていた。
わたしの記憶の中のヨハンより、肩が広くなっている。
顔つきも少し変わっていた。日焼けして、頬の線が前より硬い。
でも、こちらを見た瞬間にできたえくぼは、前と同じだった。
「リナ?」
ヨハンの声が裏返った。
隣にいた年上の男の人が、木剣を下ろして笑った。
「なんだ、妹か」
「父さんも?」
ヨハンは木剣を壁に立てかけ、慌ててこちらへ来た。
途中で足を止め、父に向かって背筋を伸ばす。
「父さん」
「元気そうだな」
「うん。元気」
父はそれだけ聞くと、ヨハンの腰の革帯を見た。
継ぎ目が少し裂けている。
「あとで直せ」
ヨハンは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「うん。道具袋に、革の切れ端がある」
父が小さく頷いた。
それは、二年前の夜に父が渡した布袋が、まだここで生きている証拠だった。
◇◇◇
「本当に来たんだな」
ヨハンは、詰所の外の壁際にわたしたちを連れ出してから言った。
「手紙に書いてあったから」
「町に来る気はないかってやつ?」
「うん」
「あれ、書くのに三日かかった」
「三日?」
「書いて消して、また書いて消した」
ヨハンは少し照れた顔で首の後ろをかいた。
「来いって言うと、命令みたいだろ。来なくてもいいって書くと、来てほしくないみたいだろ」
「うん」
「だから、ああなった」
その言葉を聞いてわたしは手紙の最後の一行を思い出した。
町に来る気はないか。
俺がここにいる間に。
短い一行の裏側に、三日分の消した文字があった。
(——手紙は、書かれた文字しか届かない)
(——消した方は、届かない)
わたしはヨハンの指を見た。
木剣を握っていた手は、前より硬くなっている。掌の皮が厚く、指の付け根に小さな傷がいくつもあった。
手紙の中には、書かれていなかった手だった。
◇◇◇
ヨハンは、詰所の中を少しだけ見せてくれた。
寝台は四つ。
そのうち一つの端に、見覚えのある布袋が吊ってあった。
父の時計修理道具の袋だった。
「これ」
わたしが指差すと、ヨハンが少し得意そうに笑った。
「まだ持ってる」
「使ってる?」
「靴紐の金具が外れた時とか、鞘の留め具が緩んだ時とか。あと、先輩の椅子ががたついた時も直した」
父が、袋の口を少しだけ開けた。
中を覗いて、すぐに閉じる。
「油が減ってる」
「使った」
「足す」
父は鞄から小さな油の小瓶を出し、ヨハンに渡した。
ヨハンはそれを受け取って、しばらく黙っていた。
「ありがとう」
「なくなったら言え」
父の声はいつも通り短かった。
けれどヨハンは、その短さをちゃんと読んでいる顔をしていた。
◇◇◇
寝台の横の壁に、紙が一枚貼ってあった。
古い紙だ。
端が丸まり、何度も貼り直した跡がある。
そこには、町の見回りの順番と、夜番の名前が書かれていた。
ヨハンの名前もある。
「夜も見回るの?」
「まだ一人ではないけどな。先輩と一緒に回る」
「怖くない?」
ヨハンは少し考えた。
「怖い時はある」
そう答えたのが、少し意外だった。
昔のヨハンなら、たぶんすぐに「怖くない」と言った。
「でも、怖いから見る。見ない方が怖い」
ヨハンは壁の紙を指で軽く叩いた。
「夜番の時、遠くの狼煙台も見る。煙が上がったら、詰所にも知らせが来る。町の外のことは、ここにも入ってくる」
狼煙台。
ヤンさんの声が、頭の中に戻ってきた。
煙は、上げるより読む方が難しい。
「お兄ちゃんも、煙を見るの?」
「見る。読めるってほどじゃないけど、上がったら分かる」
「手紙より早い?」
「そりゃ早い。けど、細かいことは分からない」
ヨハンは肩をすくめた。
「火事か、敵か、異常なしか。せいぜいそのくらいだ」
(——早いけど、少ない)
(——手紙は多いけど、遅い)
頭の中で、二つのものが並んだ。
紙。
煙。
どちらも、お兄ちゃんに届く。
でも、どちらも足りない。
◇◇◇
「リナ」
ヨハンが、ふいにわたしを呼んだ。
「うん」
「王都の話、聞いた」
「どこで?」
「ベルマン氏のところの使いが来た。父さんとリナが町に来るかもしれないって」
わたしは父を見た。
父は何も言わなかった。
「行くのか」
ヨハンの問いは、まっすぐだった。
「すぐには行かない」
「うん」
「まず、紙で返す」
「うん」
「でも、いつか行くかもしれない」
そう言った瞬間、詰所の奥で誰かが木剣を壁に立てかける音がした。
乾いた音だった。
ヨハンはその音を聞いてから、わたしを見た。
「その時は、俺も行く」
「まだ分からないよ」
「分からなくても、言っとく」
ヨハンは昔と同じ顔で少しだけ笑った。
「俺はお前の作るものを町から見てるって言った。でも、町より遠くへ行くなら、町から見るだけじゃ足りない」
胸の奥が静かに痛くなった。
(——お兄ちゃんは、いつも先に言う)
(——わたしがまだ形にできないことを)
わたしは頷いた。
「うん」
「今は、ここで強くなる」
ヨハンが自分の木剣を見た。
「お前が作るものが遠くへ行くなら、俺もそこまで歩けるようになっておく」
父が、ヨハンの横顔を見ていた。
何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ目を細めていた。
◇◇◇
帰る前に、ヨハンは袋から小さな包みを出した。
「ノラに」
「なに?」
「木切れ」
包みの中には、短い木片が入っていた。
片側が少し削られ、子供の人形の手に見えなくもない形をしている。
「前のは?」
「まだ袋に入ってる。これは、こっちで拾ったやつだ」
ヨハンは少し照れたように笑った。
「ノラに、町の手だって言っといてくれ」
わたしは包みを受け取った。
軽い。
けれど、手の中に置かれると妙に存在感があった。
「うん。渡す」
「それと、母さんに、飯は少しましになったって言っといて」
「少し?」
「少し」
ヨハンが笑った。
笑うと、えくぼができた。
その顔を見て、やっと息が深く入った。
手紙の中のお兄ちゃんではない。
詰所の壁に名前を書かれたお兄ちゃん。
油の減った道具袋を持ち、夜の見回りで煙を探しているお兄ちゃん。
そのお兄ちゃんが、ここにいた。
◇◇◇
詰所を出ると、午後の光が石畳の上に斜めに落ちていた。
父は歩き出す前に、一度だけ詰所を振り返った。
ヨハンは入口の横に立ち、こちらを見ている。
今度は、馬車の上からではなかった。
丘の向こうへ消える背中でもなかった。
同じ町の同じ道の上で、わたしたちは手を振った。
(——声は届く)
(——でも、いつでも届くわけじゃない)
わたしの手の中で、ノラへの木片が少しだけ角を立てた。
手紙では届かなかったものが、今日はたくさん届いた。
だからこそ。
届かない時間が、前よりもはっきり見えた。
■あとがき・解説
第97話は、リナがハーラム町の自警団詰所でヨハンの生活を見る回でした。
第70話から第74話で「旅立った兄」「手紙の中の兄」として描かれていたヨハンを、今回は町の生活の中へ戻しています。
今回は「詰所」「早さと詳しさ」「町から見るだけでは足りないこと」についてゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「詰所」——町を見回る人たちの拠点
自警団の詰所は、町を見回る人たちの拠点です。
ヨハンはここで寝起きし、訓練し、夜番に入っています。
油の減った道具袋、夜番の紙、硬くなった手。
手紙には書かれていなかったものが、リナの目の前に置かれる場所です。
■「早いけど少ない/多いけど遅い」——狼煙と手紙の違い
狼煙は早く届きますが、伝えられる内容は限られます。
手紙は細かく書けますが、届くまで時間がかかります。
この二つの制約が、リナの通信設計の出発点になります。
■「町から見るだけじゃ足りない」——さらに遠くを見るための言葉
ヨハンは、リナがさらに遠くへ行く可能性を先に受け止めました。
この言葉は、第2部後半でヨハンがリナの移動と安全にどう関わるかへ繋がっていきます。
兄妹の再会は、懐かしさだけではなく、それぞれの場所で少しずつ変わってきたことを確かめる場面でもあります。
次の話もお楽しみに。




