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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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第88話 家族の議論

夜の食卓の後、父が「話を聞かせてくれ」と言った。


あの晩から何日も、頭の中で整理していたことを、そろそろ外に出す時だと思った。


眠りの月の十四日。屋根裏の窓の外は、もう冬の冷たい風が常駐していて、夜は早く深くなる季節になっていた。父が珍しく、夕飯の後すぐに工房へ戻らずに、食卓に座り直していた。エマも、洗い物の手を一度止めて、食卓の隅の椅子に座った。

ノラは寝床で先に眠っていた。


「リナ」


「うん」


「ベルマン氏の話、進めてもいいか」


(——進める)


父の問いは、いつもの父らしい問い方だった。

「進めるか/進めないか」ではなくて、「お前の中で答えが出たか」を確かめる聞き方だった。


「えっと——進める前に、聞いてほしい話がある」


「うん」


「わたしの考えてること、ちゃんと、説明してみる」


エマがお茶の椀をわたしの前に置いてくれた。

湯気が顔に当たって、頭の中の言葉が、少しだけほぐれた気がした。


◇◇◇


「えっと、まず、ベルマン氏の『製造権』の話、なんですけど」


「うん」


「あれは、わたしの作ったものを、ベルマン氏の工房で複製して、いろんなところに売る、という話」


「そうだな」


「でも、複製されたものは、わたしの手を離れる」


「うん」


「複製されたものを、誰がどう使うかは、わたしには決められなくなる」


エマが、わたしの方を、ゆっくり見ていた。

父も、お茶の椀に手を置いて、続きを待っていた。


「だから、わたしが考えたのは——」


声が、一度詰まった。

頭の中で、爺さんに言われた言葉が、よみがえった。

「印の意味を、お前さんがどれだけ言葉にして残せるかが、大事じゃ」。


——言葉にする。

——自分の頭の中だけで持っていない、家族にちゃんと届く言葉に。


息を一度吸って、続けた。


◇◇◇


「わたしの作ったものに、わたしの印を、残したい」


「印?」


「うん。お父さんが時計のねじにつけてる、あの印みたいなもの。『これはリナが考えたもの』って、消えない形で証明する印」


父が、軽く頷いた。


「それで、その印を、ベルマン氏に渡すか」


「ううん。印そのものは渡さない。印を『刻んでいい人』を、わたしが決める」


「うん」


「ベルマン氏の工房が複製を作るなら、わたしが許可した装置だけに、わたしの印が刻まれる」


「印のついてない複製は」


「リナの装置じゃない。別の人が作った、似てるけど別物の装置」


父が、お茶を一口だけ飲んで、また続きを待ってくれた。


「それから——印の意味を、ちゃんと言葉にして残したい」


「言葉、というと」


「この印は、こういう装置に刻まれる」「この印が刻まれた装置は、こういう使い方をしていい」「こういう使い方は、許可されていない」——そういう決まり事を、ちゃんと文字で残す」


エマが、静かに口を開いた。


「リナ」


「うん」


「それ、難しい話ね」


「うん。難しい」


「でも、あなたの言いたいことは分かる」


エマが、軽く微笑んだ。


「あなたが、自分の作ったものの『行き先』を、ちゃんと自分で見守りたい、ということでしょう」


(——あ)


胸の奥に、何かがすっと収まった。

エマは、わたしが何時間もかけて考えていたことを、二行で言い直してくれた。


◇◇◇


父が、お茶の椀を一度置いた。


「リナ」


「うん」


「分かるまで答えなければいい。急ぐことはない」


「うん」


「お前が、その印と決まり事をちゃんと作れたら、それから、ベルマン氏に話せばいい」


「うん」


「ベルマン氏は、急かさずに待とうとしてくれている。お前の答えを、ちゃんと待つ人だ」


(——ちゃんと待つ人だ)


その言葉が、頭の中ですとんと落ちた。

父は、ベルマン氏のことを、わたしよりたぶんよく見ていた。


エマが、お茶のおかわりを注いでくれた。


「わたしは、あなたが考え続けている限り大丈夫だと思う」


「うん」


「お父さんもそう思ってる」


エマがそう言って、父の方を見た。父は何も言わずに、ただ、軽く頷いた。


それが、わたしの中で、別の重さを下ろす許可になった。


◇◇◇


その夜遅く、わたしは屋根裏で手紙の包みを開いていた。


旅商人が、昼にヨハンからの手紙を運んできていた。けれど、ベルマン氏の話を家族と整理するのが先だったから、夜になるまで開けなかった。


エマが寝室に降りていった後、わたしは寝床の脇で蝋燭を立てて、紙を広げた。


ヨハンの字は、最近、少しだけ整ってきていた。最初の頃よりも、文字が大きく、線がまっすぐ通っている。


「父さん、母さん、リナ、ノラ。元気にしてます」


その一文は、いつもと同じだった。


続きを読み進めると、町の道具屋の話が出てきた。

ヨハンは、ある朝、町の市場の道具屋を覗いたらしい。


「妙な珠盤を見た。リナがうちで作った計算珠盤と、ほとんど同じ形だった」


(——え)


頭の中で、心臓が一度、跳ねた。


「枝の数も同じ、玉の色も似てる。誰が作ったかは、店主にも分からないらしい。『どこかから入ってきた』としか言わない」


「お前のじゃない、と思った。でも、形は確かに似てた。お前のが、町で広まってる、というのは前にも書いたけど、今度はもう、誰が作ったか分からない別物が、お前のの形をして売られている」


エマが一瞬だけ見せた不安そうな顔が、屋根裏で蘇った。


「お前さんが、これをどう感じるかは、俺には分からん。でも、知らせておく方がいいと思った」


ヨハンの手紙は、いつもの「祭礼で帰る」「家族のみんなに」で締めくくられていた。


◇◇◇


紙を畳んで、机の隅に置いた。


頭の中で、ヨハンの一文を、もう一度なぞった。


——誰が作ったか分からない別物が、お前のの形をして売られている。


(——すでに、始まっている)


その事実が、胸の奥にずしりと届いた。


——わたしが「印」を作り始めるより先に、装置の「形」だけが町で広まっていた。町の人は「これがリナの装置だ」と知らない。「どこかから来た面白い道具」として、買って、使っている。


屋根裏で考えていた「複製問題」は、頭の中だけの話ではなく、現実の世界ですでに進行していた。


(——印は、急がなければならない)


(——でも、急いで作ると、たぶん間違える)


焦りと慎重さが、頭の中で同時に肩を並べていた。


爺さんの「考え続ける者が、必要な時代が、来るかもしれん」という言葉が、頭の隅で響いた。


——急ぎながら、考え続ける。

——その両方を、同時にやらなければならない。


◇◇◇


それから、数日が過ぎた。


眠りの月の終わりが近づき、村は雪を待っていた。今年は、雪の降り始めが少し遅いらしく、村人たちが「もうそろそろ降るかね」と空を見ていた。麦の刈り入れはすっかり終わり、村は静かな冬支度の時間に入っていた。


わたしは、屋根裏で印の試作と、印の意味を言葉にする試作を、並行して進めていた。

紙が、机の上で増えていった。

けれど、急がない、と決めていた。


ベルマン氏には、まだ返事をしていなかった。

氷の月のうちに、と最初に区切られていた期限は、父から「もう少し待ってほしい」と伝えてもらい、ベルマン氏は「印の話が形になるまで、こちらも急がない」と返してくれていた。

ベルマン氏は、父の言うとおり「ちゃんと待つ人」だった。


ヨハンの次の手紙が来るまで、わたしは、屋根裏でゆっくり考え続けていた。

夜は早く深くなり、朝は遅く明けるようになった。


眠りの月が終わり、暁の月の入りが来た。

神暦1236年。新しい年の、最初の朝。

わたしの作ったものに、わたしの印を、まだ、決められていなかった。


暁の月の十一日頃、ベルマン氏から父宛てに短い文が届いた。「氷の月のうちに、と最初に区切らせていただいた件、こちらは構いません。印の話、お嬢さんの中で形になるのをお待ちします」。父はその文を読み上げてから、わたしに渡した。紙の端が、ベルマン氏の几帳面な指で一度折られた跡が残っていた。


「ベルマン氏は、待ってくれる」


父は、それだけ言って工房に戻った。

わたしは、その紙を屋根裏の机の隅に置いた。試作の紙の束の上に。


——ヨハンの手紙に書いてあった一文。

——見覚えのある珠盤、誰が作ったか分からない。

——すでに、始まっている。


その事実だけは、屋根裏の机の上で、消えずに残っていた。


■あとがき・解説


第88話は、夜の食卓で、リナが家族に「印」と「印の意味の言葉」の構想を初めて開く回でした。母エマの「あなたが、自分の作ったものの『行き先』を、ちゃんと自分で見守りたい、ということでしょう」という二行のまとめ。父の「ベルマン氏は、ちゃんと待つ人だ」という静かな評。そして、夜遅く屋根裏で開いたヨハンの手紙の中の——「妙な珠盤を見た」「誰が作ったか分からない」。今回は、その「外側で進行していた事実」について、ゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「考えを家族に開く」——頭の中の言葉を、外の言葉に変える


リナが「えっと——進める前に、聞いてほしい話がある」と切り出した場面。


前世の言葉でいうと、これは「内的構想を、外的説明に変換する」最初の試練でした。屋根裏で何日も練ってきた考えは、リナの頭の中ではすでに整理されていました。けれど、それを家族に向かって声に出そうとした時、頭の中の言葉と、外に出す言葉は、別のものだと気付く。頭の中では一行で済むことが、外に出そうとすると五行になる。逆に、頭の中でぐるぐるしていたことが、外に出すと一行で済んでしまうこともある。


「自分の頭の中だけで持っていない、家族にちゃんと届く言葉に」——その変換の難しさを、リナはこの夜、自分の口で身体的に経験しました。バルドゥス爺さんに言われた「印の意味を、お前さんがどれだけ言葉にして残せるかが、大事じゃ」という宿題が、まず家族に向けた最初の説明の練習の中で、形を取り始めていました。


■「行き先を見守る」——母エマの二行


エマが「あなたが、自分の作ったものの『行き先』を、ちゃんと自分で見守りたい、ということでしょう」と言ってくれた場面。


前世の言葉でいうと、これは「核心の要約」と呼ばれる、聞き手の最も高度な技でした。話し手が長い時間をかけて積み上げてきた言葉を、聞き手が二行で言い直してくれる。話し手は、その二行を聞いた瞬間に「ああ、自分が言いたかったのはそれだ」と腑に落ちる。話し手自身が、まだ自分の言葉の核心に辿り着いていない時に、聞き手の方がその核心を先に掴んで、言葉にして返してくれる。


エマがそれをできたのは、母として、リナの中で長い時間動いていた感情の輪郭を、ずっと隣で見てきたからでした。台所からお茶を運ぶ位置にずっといて、何も言わずに観察してきたエマだからこそ、リナの言葉になる前の感覚を、二行で言い直すことができた。


「製造権」というベルマン氏の言葉でも、「使い方を決める権利」というエルナさんの言葉でもなく、「行き先を、自分で見守りたい」というエマの言葉が、リナの胸の奥に「すっと収まった」のは、その言葉が母の側から来た、家庭の言葉だったからでもありました。


■「ちゃんと待つ人」——父のベルマン氏評


「ベルマン氏は、急かさずに待とうとしてくれている。お前の答えを、ちゃんと待つ人だ」という父の言葉。


前世の言葉でいうと、これは「取り引き相手の人間性を見抜く」種類の評価でした。商人の中には、相手を急かして判断を曇らせて、自分の有利な条件に持ち込もうとする人がいます。逆に、相手の判断を尊重して、納得が固まるまで待ってくれる商人もいます。前者と後者の見分けは、契約の細部ではなく、相手の「待ち方」の中に現れる。


父はベルマン氏を「ちゃんと待つ人」と判定していました。半年余りの付き合いの中で、ベルマン氏の催促の出し方、引っ込め方、待ち方を見てきた結果の評でした。リナは父のその評を、頭の中で「すとんと落ちた」と感じます。父の方が、リナよりもベルマン氏を長く見ている。父の見立てに乗っかってよさそうだ、という安心が、リナの肩を一段下ろしました。


そして実際、後の場面でベルマン氏は「印の話が形になるまで、こちらも急がない」という返事を寄越してくれます。父の見立ては正しかった。職人として何十年も商人と付き合ってきた父の目は、ちゃんと相手の本質を見抜いていた。


■「すでに、始まっている」——ヨハンの手紙の重み


ヨハンの手紙の中の「妙な珠盤を見た」「枝の数も同じ、玉の色も似てる」「誰が作ったかは、店主にも分からない」という一節。


前世の言葉でいうと、これは「現実は、議論を待ってくれない」という事実の冷たい知らせでした。リナが屋根裏で「複製問題をどう扱うか」「印をどう作るか」を考えている間に、町ではすでに、誰が作ったか分からない珠盤が、リナの計算珠盤の形を真似て売られていた。リナの問いが「これからのこと」だと思っていたのに、実は「すでに進行中のこと」だった。


考え事は、考え事をしている本人の時間軸でしか進みません。けれど現実の世界は、考え事の有無に関わらず、独自の時間軸で動いていきます。リナが「使い方を決める権利」とは何かをエルナさんと話している頃、町の道具屋では別の珠盤が並んでいた。リナが「魂紋」という言葉に辿り着く頃、その別の珠盤が誰かに買われていた。


「印は、急がなければならない」「でも、急いで作ると、たぶん間違える」——焦りと慎重さが、頭の中で同時に肩を並べていた、というリナの感覚は、現実と思考の時間軸のずれに気付いた時の、誰もが感じる種類の戸惑いでした。


■「リナ10歳の誕生日」——夜の屋根裏に、静かに刻まれた区切り


文中には書かれていないけれど、第88話の終盤、神暦1236年・暁の月1日、Day 721 で、リナは10歳になりました。誕生日の朝の特別な場面はなく、ただ屋根裏で印の試作を続けている朝として、新しい一年が始まっていきます。


前世の言葉でいうと、これは「祝うべき節目を、あえて祝わない」種類の時間の区切り方でした。8歳の誕生日から始まった物語は、二年が経ち、10歳になった。けれど、リナの中では「複製問題」と「印」の課題が解けないまま、年が変わった。誕生日を祝う余裕も、立ち止まる余裕もなく、ただ問いと向き合い続ける朝が、新しい一年の最初の朝として置かれていた。


成長は、誕生日の日に階段を一段上がるような形では訪れません。長い斜面を、自分でも気付かないうちにゆっくり登り続ける。10歳になった朝のリナは、8歳の頃の自分とは別の重さを持つようになっていたけれど、その別の重さは、誕生日の朝に急に降りてきたのではなく、ここまでの一年余りの中でゆっくり積み重なってきたものでした。


——ヨハンの手紙に書いてあった一文。

——見覚えのある珠盤、誰が作ったか分からない。

——すでに、始まっている。


屋根裏の机の上で、その事実が消えずに残っていました。次の話で、もう一人の外部からの来訪者が、村に入ってくることになります。次の話もお楽しみに。


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