第87話 バルドゥスの問い
バルドゥス爺さんの家は、村の端の石積みの壁の家だ。
いつ来ても、門の前の古い松の木だけが同じ顔で迎えてくれる。
今日は、自分から会いに来たかった。
眠りの月の二日。朝の風には、もう完全に冬の冷たさが乗っていた。村は冬支度の最中で、あちこちで薪を割る音や布団を干す音が乾いた空気の中で響いていた。
わたしは、屋根裏で何枚も書いた印の試作の紙を、布袋に入れて持ってきていた。
誰かに見せて、感想を聞きたい紙だった。
父にもエルナさんにもまだ見せていない。最初に見せるなら、バルドゥス爺さんがいい気がした。
(——爺さんは、わたしの問いに、答えを返さない人だ)
(——けれど、わたしの問いを、もう一段深い問いに変えてくれる人だ)
頭の中でそう確かめてから、わたしは門の前に立った。
◇◇◇
「リナか」
家の戸を叩く前に、家の中から爺さんの声が聞こえた。
ノックの音より、わたしの足音の方が先に届いていたらしい。
「うん。お邪魔します」
戸を押して中に入ると、爺さんはいつもの小さな椅子に座っていた。手元には、薪を割るための鉈と、新しく削り出した松の枝が並んでいた。冬支度の合間だった。
「上着、汚れるぞ。座れ」
爺さんが、自分の隣の小さな木の腰掛けを軽く叩いた。
わたしは布袋を膝の上に置いて、その腰掛けに座った。
しばらく、二人で何も言わずに、土間の冷たさを感じていた。
「お前さん、何か持ってきたな」
「うん」
「見せい」
わたしは布袋から、紙を一枚ずつ取り出した。
◇◇◇
紙の上には、いろんな模様が並んでいた。
縦線と斜め線の組み合わせ。
点と曲線の組み合わせ。
歯車を抽象化した小さな円。
コードの記号を、この世界の文字に翻訳した試行錯誤。
爺さんは、紙を一枚ずつ、ゆっくり手に取って眺めた。指の腹で軽く撫でて、ときどき紙を裏返して、裏側を確かめるような動作をした。
しばらくして、爺さんが顔を上げた。
「これは、何じゃ」
「印を、作りたいんです」
「お前さんの印か」
「うん」
「何のために」
わたしは、しばらく考えてから、答えた。
「わたしの作ったものに、わたしの印を残したい。誰かが複製しても、わたしの印が乗っていなければ、それは別物だと、見た人が分かるように」
爺さんが、ゆっくり頷いた。
「お父さんの印を、見たんか」
「うん」
「アルベルトは、十二の頃に自分で印を作った。修行に出る前にの」
「うん」
「お前さんは、誰かに『印を作れ』と言われたんか」
「言われてない」
「自分で、考えたんか」
「うん」
爺さんが、また頷いた。
表情は変わらなかった。けれど、頷きの数だけ、わたしの中の何かが少しずつ受け止められている気がした。
◇◇◇
「リナ嬢ちゃん」
「うん」
「古代の魔導士の話を、わしから聞いたことがあったの」
「うん。前に、爺さんから聞いたとき」
爺さんが軽く頷いた。
「古代の魔導士の中にもな、自分の作った魔法陣に、印を入れた者がおった」
(——え)
その情報が、頭の中にすとんと収まった。
「印を、入れた」
「うん。魔法陣の中央に、小さな印を一つ。誰が作ったかが、分かる印じゃ」
「それは、今も、見られる?」
「古い書物に、ちらほら残っとる。ただし、書き手が誰かは、もう分からん。印だけが残っとる」
(——印だけが、残っとる)
頭の中で、その事実が、ゆっくり広がった。
——古代の魔導士も、印を残した。けれど作った人の名前は、もう分からない。印は、形だけが伝わってきた。
それは、わたしが今やろうとしていることと、似ていた。
◇◇◇
「爺さん」
「ん」
「古代の魔導士は、印を作るだけで終わったの?」
「と、いうと?」
「えっと、たとえば——『この術は、誰がどう使っていい』みたいな決まり事も、作っていたの?」
爺さんが、しばらく考えてから、答えた。
「伝承では、弟子に『この術を使っていい。ただし、これこれのことをしてはならぬ』と言い渡したと聞く」
「口で?」
「うん。口約束じゃ」
(——口約束)
その言葉を、頭の中で、しばらく転がしてみた。
「それは、今も、守られとるの?」
「分からん。弟子が代を重ねるうちに、忘れられたか、変えられたか。今の祭司の術が、古代の制約をどれくらい守っとるかは、わしには分からん」
(——口約束では、壊れる)
その事実が、頭の中にずしりと届いた。
——人が代を重ねれば、口約束は忘れられる。印だけが形として残り、印の意味は伝わらない。だから、印と決まり事は、別々に必要だ。そして決まり事は、口約束では壊れる。
(——機械に、決まり事を任せられたら)
——印が「これはリナの装置だ」と示すだけでなく、装置自体が「この使い方はいい、この使い方は駄目」と区別できる仕組みになっていたら。口約束ではなく、機械の構造そのものが、決まり事を守る。機械の方が、忘れない。
◇◇◇
「爺さん」
「ん」
「人と人の約束を、機械に任せられたら、と思っているんだけど」
爺さんが、急に手を止めた。
手元の鉈が、土間の上に小さな音を立てた。
「リナ嬢ちゃん」
「うん」
「お前さんは、人と人の約束を、機械に任せようとしておるのか」
爺さんの声は、いつもより少しだけ低かった。
責めているわけではなかった。ただ、聞き返している声だった。
わたしは、しばらく考えてから、答えた。
「……そうかもしれない」
「うん」
「でも、機械の方が、忘れないから」
爺さんが、軽く頷いた。
それから、わたしの方を見ないで、土間の遠くを見ながら、続けた。
「それが正しいかどうかは、わしには分からん」
「うん」
「ただな」
「うん」
「それを考え続ける者が、必要な時代が、来るかもしれん」
(——え)
その言葉に、わたしは思わず黙った。
爺さんが、また鉈を持ち上げて、松の枝を一本、軽く撫でた。
「古代の魔導士たちは、印は残したが、決まり事は口約束で済ませた。それが、後の世で忘れられた。だから、お前さんが『機械に任せる』と言うなら、それは古代から続いとる宿題に、新しい答えを出そうとしておることになる」
「宿題——」
「うん。宿題じゃ」
爺さんが、軽く笑った。
それは、面白がる笑いだった。
わたしの試作の紙を見ているときよりも、もっと深いところで、面白がっている笑いだった。
◇◇◇
「リナ嬢ちゃん」
「うん」
「お前さんがその印を作るなら、わしは見守る」
「うん」
「ただし、一つだけ、覚えとけ」
「うん」
「印は、お前さんが作るが、印の意味を決めるのは、お前さんだけじゃない。お前さんの後の代の者たちも、その印の意味を読み直す」
(——後の代の者たち)
頭の中で、その言葉が、ゆっくり広がった。
「だから、印そのものより、印の意味をお前さんがどれだけ言葉にして残せるかが、大事じゃ」
「うん」
「お前さんの印が、お前さんの死後も、お前さんの代わりに『これはわたしが作ったものだ』と語り続けてくれるように。そのための、言葉が、要る」
爺さんはそれだけ言って、また松の枝を撫で始めた。
(——印の意味を、言葉にして残す)
その課題が、頭の中にずしりと届いた。
——印を作るだけでは足りない。意味を言葉にして残し、わたしの代わりに、後の世まで「これは、わたしが作ったもの」と語り続けてくれるように。
◇◇◇
爺さんの家を出て、村の中央に向かう道を歩いた。
眠りの月の昼下がりの陽は、もう薄くなっていた。麦の刈り入れの済んだ畑が、土色の絨毯のように広がっていた。
頭の中で、爺さんの言葉を、もう一度並べ直した。
——人と人の約束を、機械に任せようとしておるのか。
——それを考え続ける者が、必要な時代が、来るかもしれん。
——印の意味を、お前さんがどれだけ言葉にして残せるかが、大事じゃ。
わたしは、自分の中で、まだ整理しきれていなかった。
けれど、整理しきれない、ということが、爺さんの言うとおり「考え続ける」ということなのかもしれなかった。
人と人の約束を、機械に任せる。
その問いを持って帰る道が、少し長く感じた。
■あとがき・解説
第87話は、リナが自分から足を運んでバルドゥス爺さんを訪ねる回でした。屋根裏で描いた印の試作の紙を布袋に入れて、誰にも見せていない試作を、最初に爺さんに見せる。「人と人の約束を、機械に任せられたら」と口にした瞬間、爺さんが手元の鉈を一度止める。「印の意味を、お前さんがどれだけ言葉にして残せるかが、大事じゃ」という宿題。今回は、その「古代から続く宿題」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「自分から会いに行く」——相談相手を、能動的に選ぶ
冒頭、リナが自分の判断でバルドゥス爺さんの家に向かう場面。
前世の言葉でいうと、これは「メンターを自分で選ぶ」という、若い人の自立の小さな一歩でした。これまでリナの相談相手は、たいてい「向こうから来てくれる人」でした。エルナさんは家を訪ねてきてくれた。父は工房に座っていた。けれど今回、リナは布袋に試作の紙を詰めて、村の端まで自分で歩いていった。「最初に見せるなら、バルドゥス爺さんがいい気がした」という直感は、リナが自分の頭の中で相談相手の地図を持つようになっていることの表れでした。
そして、その選択の理由を「爺さんは、わたしの問いに、答えを返さない人だ。けれど、わたしの問いを、もう一段深い問いに変えてくれる人だ」と頭の中で確かめている。「答えをくれる人」ではなく「問いを深めてくれる人」を選ぶというのは、相談の経験を重ねた人にしかできない、洗練された選択の形でした。
■「古代の魔導士の印」——歴史の中で、すでに通った道
爺さんが「古代の魔導士の中にもな、自分の作った魔法陣に、印を入れた者がおった」と語った場面。
前世の言葉でいうと、これは「車輪の再発明をしているわけではない」という、安心の手渡しでした。リナが今やろうとしていることは、世界の歴史の中で誰かが似たことをすでに通っている。完全に新しいことを始めているわけではない。古代の魔導士たちも、自分の作ったものに印を残そうとした。その印は、今も書物の中に形だけが残っている。
「印だけが残っとる」「書き手が誰かは、もう分からん」という爺さんの言葉は、リナの中に二つの感覚を同時に呼び起こしました。一つは「先人がいる」という安心。もう一つは「印だけでは足りない」という警告。形は残ったけれど、形の意味は伝わらなかった。それは、リナが今まさにやろうとしている「印を作る」という作業の、避けて通れない落とし穴の予告でもありました。
■「口約束は壊れる」——時間軸の中での合意の脆さ
爺さんが、古代の魔導士は弟子に「この術を使っていい。ただし、これこれのことをしてはならぬ」と口で言い渡した、と語った場面。そして「今も、守られとるかは、わしには分からん」と続けた場面。
前世の言葉でいうと、これは「制度の経年劣化」と呼べる現象でした。最初に交わされた約束は、最初の世代では守られます。けれど、世代が代わるたびに、約束の中身は少しずつ変わっていく。意図が忘れられ、字面だけが残り、字面の解釈が変わり、いつしか最初の意図とは別物になっている。口約束は、その劣化の速さが特に速い。書面でも劣化はするけれど、口約束はもっと速い。
リナの中で、その時間軸の重さが、ゆっくり広がっていきました。「印は、お前さんの後の代の者たちも、その印の意味を読み直す」という爺さんの言葉が、ここで効いてきます。リナが今、印を作る。けれどリナが死んだ後も、その印は残る。残った印を、後の世代の人がどう読むか。リナは、まだ会ったことのない後の世代の人たちに向かって、印の意味を書き残しておかなければならない。
■「人と人の約束を、機械に任せる」——爺さんの鉈が止まった瞬間
リナが「人と人の約束を、機械に任せられたら、と思っている」と口にした時、爺さんが急に手を止めた場面。
前世の言葉でいうと、これは「スマートコントラクト」と呼ばれる思想の、極めて素朴な形での発露でした。人と人の約束は、忘れられる、曲げられる、すり替えられる。それを機械の構造そのものに埋め込めば、機械は忘れない。機械の方が、人より忠実に約束を守る。前世の人類は、二十一世紀の終わり頃から、この発想を本気で実装し始めました。
リナの世界では、まだそんな考えは存在しません。爺さんが手を止めたのは、その発想が「あまりにも遠く」「あまりにも危うい」と直感したからでした。「お前さんは、人と人の約束を、機械に任せようとしておるのか」という爺さんの問いには、責めはなく、ただ確認だけがありました。
そして、爺さんが続けたのは——「それが正しいかどうかは、わしには分からん」「ただな、それを考え続ける者が、必要な時代が、来るかもしれん」。前世の言葉でいうと、これは「未来の課題への、現在からの委嘱」でした。爺さんは答えを持っていない。けれど、答えを探す者が必要な時代が来る、と直感している。その役を、リナに引き渡そうとしている。
■「印の意味を、言葉にして残せ」——古代の宿題の引き継ぎ
爺さんの最後の言葉「印そのものより、印の意味をお前さんがどれだけ言葉にして残せるかが、大事じゃ」。
前世の言葉でいうと、これは「ライセンス文書」を作れ、という指示でした。印を作るだけではなく、印の意味を文章で残せ。「この印が刻まれた装置は、どう使っていいのか」「どう使ってはいけないのか」「印を刻んでいいのは誰か」——そういう運用の決まり事を、印とは別の言葉として残せ。
爺さんが「お前さんの印が、お前さんの死後も、お前さんの代わりに『これはわたしが作ったものだ』と語り続けてくれるように」と続けた場面の重さは、リナの寿命を超えた時間軸の話でした。印を作る人は、自分の死後の世界まで責任を持たなければならない。それは、九歳の女の子にとっては、ずっしりと重い宿題でした。
人と人の約束を、機械に任せる。
その問いを持って帰る道が、少し長く感じた。
帰り道の麦畑の風景の中で、リナの胸の奥に残った重さは、これからの物語を貫く問いの重さでもありました。次の話で、この問いがいよいよ家族に向かって開かれていきます。次の話もお楽しみに。




