第89話 巡回学者
金の月の半ばに差し掛かった頃、王都から人が来た、とエルナさんが言いに来た。
「巡回学者」という言葉が、村の中を静かにざわつかせた。
わたしは、その人の名前を聞いて——知らない人だ、と思った。
新年の暁の月入りから、もう半年あまりが過ぎていた。暁の月、萌の月、雷の月、青の月、翠の月、陽の月——そして金の月の前半まで、わたしは屋根裏で印の試作を繰り返し続けていた。途中、いくつか「これだ」と思った形があった。けれど、紙の上に置いて何日か眺めていると、いつも「まだだ」と思った。
ベルマン氏には、まだ正式な返事をしていなかった。途中で一度、父からベルマン氏へ「まだ返事は出せない。印の形に納得がいく日まで待ってほしい」と書いた手紙を出してもらっていた。
マルゲルダさんも、翠の月にもう一度村に来てくれたけれど、「急ぎませんよ」と言って帰っていった。
金の月の半ばに入って、麦の穂が黄金色に染まりきった頃。
エルナがいつもより少しだけ早足で家に来た、そういう朝だった。
◇◇◇
「テオドール、と仰る方よ」
エマが台所からお茶を持ってきて、エルナの前に置いた。
「王立学院と、王宮の魔導師団。その両方に関わっている方らしいわ。年に何度か、各地の村や町を回って、新しい技術や工芸を記録する役目があるんですって」
「えっと——」
いくつかの情報が、頭の中ですとんと並んだ。
——王立学院。
——王宮の魔導師団。
——両方に籍がある人。
それは、ベルマン氏が前に言っていた「王都に話を通せるかもしれない」という話と、もしかしたら繋がっているのかもしれなかった。
「リナのこと、聞きたいって」
エルナが、お茶を一口だけ飲んでから、続けた。
「ベルマン氏から、紹介状を持って来ているらしいの」
(——紹介状)
その言葉に、わたしは思わず黙った。
——ベルマン氏が、わたしの話を、王都の人に紹介した。
——その紹介を受けて、王都から人が来た。
——わたしの作ったものが、わたしの知らないところで、人を動かし始めている。
温かい感覚と別の感覚が、胸の奥でざわついていた。
◇◇◇
「お会いに、行ったほうがいいですか」
「ええ。今、集会所に滞在してるわ。村長さんが場所を貸してる」
「お父さんも、一緒に?」
「ええ。あなたと、お父さんと、わたしの三人で、挨拶に行きましょう」
エルナの「わたしも一緒に」という言葉が、なぜか少しだけ、胸の奥を温めた。
(——エルナさんが、わたしの隣に立ってくれる)
(——王都の人と話す場面で)
これまでにない種類の同行者だった。
◇◇◇
集会所までの道、わたしは父とエルナの間を歩いていた。
「リナ」
父が、いつもより少しだけ低い声で言った。
「うん」
「無理に、何かを答えなくていい」
「うん」
「分からなければ、『分かりません』と言え」
「うん」
「そして、お前さんが言わないことを、その人に問い詰めさせるな」
(——お父さん)
父の言葉が、頭の中にゆっくり収まった。
父は、わたしを守るために、わたしに「沈黙する権利」を確認してくれていた。
エルナが、わたしのもう片側で、軽く頷いた。
「祭司として、横にいます。何か危なければ、わたしが止めます」
(——うん)
二つの盾が胸の奥に並んだ気がした。
◇◇◇
集会所に着くと、テオドール様が、奥の小さな机の前に座っていた。
痩身で背の高い、五十くらいの男の人。旅慣れた服装で、机の上には、革の鞄と、何枚かの紙の束が並んでいた。
顔は、笑っていなかった。
責めるような顔でもなかった。ただ、何かをじっと観察するような顔だった。
「テオドール、と申します」
立ち上がって、軽く頭を下げた。
父が「アルベルトです。娘のリナです」と紹介してくれた。エルナも「祭司エルナです」と名乗った。
テオドール様は、机の上から一枚の紙を取り出した。
「ベルマン氏から、お預かりした記録です」
紙には、何かの一覧が並んでいた。わたしは横から覗き込んだ。
「計算珠盤」「水時計」「論理ゲート(観測装置)」「機械式計算機」「穿孔布」「自動灌漑装置」「プレヴェルティス(祭司エルナ命名)」——わたしがこの一年あまりで作ってきた発明と、その概要が、簡潔な文章で並んでいた。
(——え)
頭の中で、その記録の細かさに、心臓が一度跳ねた。
——ベルマン氏が、ここまで詳しく、わたしの発明を記録していた。
——わたしが知らないうちに。
(——プレヴェルティスの命名のことまで……エルナさんがベルマン氏に話していたんだ)
以前、ベルマン氏が村に滞在していた折に、エルナがその名の由来をひとこと添えていたのを、わたしも横で聞いた覚えがあった。あの短い説明が、こうして紙の上に残っていた。
——わたしの知らないところで、わたしの作ったものの「目録」が、どこかで作られていた。
——その目録が、王都の人の手元まで届いている。
胸の奥が、ほんの少しだけ、ざわりと音を立てた。
父が、紙の一覧を一度だけ目で追って、テオドール様に短く問いを置いた。
「この記録は、どこまで王都の方々に共有されているのですか」
「ベルマン氏の紹介状に添える形で、王立学院の記録庫まで届いています。装置の概要までです。中の仕組みや図面までは、わたしも預かっておりません」
テオドール様は、それを隠さずに答えてくれた。
父が、軽く頷いた。エルナも、わたしの横で一度だけ目を細めて、テオドール様の答えをそのまま受け取った様子だった。
◇◇◇
「これらを、ご令嬢が、設計されたのですか」
テオドール様が、わたしの方を見ながら、聞いた。
「はい」
短く答えた。
それ以上の言葉を、足さなかった。父の「言わなくていい」を、思い出していた。
「十歳の子が、こういうものを……」
テオドール様が、途中で言葉を止めた。
それから、紙の上に視線を戻して、しばらく黙った。
エルナが、ここで静かに口を開いた。
「テオドール様」
「はい」
「リナは、村のための発明をしてきました。それだけは、申し上げておきます」
(——え)
エルナの言葉が、頭の中にずしりと届いた。
エルナの声は、いつものお祈りの声よりも少しだけ低く、少しだけ強かった。
それは、祭司として「この子は、わたしが守る子だ」と宣言するような声だった。
テオドール様が、エルナの方を見て、何度か頷いた。
「分かりました」
それだけ言って、テオドール様は、紙を机の上に置いた。
◇◇◇
「ご令嬢」
「はい」
「日を改めて、もう少し、お話を聞かせていただけますか」
「えっと——」
父が、横から軽く頷いた。
「リナ。聞かせるだけだ。お前さんが答えたくないことは、答えなくていい」
「うん」
「日を改めて、もう一度、お話を伺いに来ます。場所は、また集会所で」
テオドール様が、軽く頷いた。
「ありがとうございます。リナ様、お父様、エルナ様」
それだけ言って、テオドール様はまた机の上の紙の束を、丁寧に整理し始めた。
わたしたち三人は、軽く頭を下げて、集会所を出た。
◇◇◇
帰り道、わたしは父とエルナの間を歩いていた。
金の月の半ばの乾いた風が、麦畑の畝の間を通り抜けていた。
「お父さん」
「ん」
「あの人は、何を調べに来たんだろう」
父は、しばらく考えてから、答えた。
「分からん。ただ、お前さんを問い詰める人には、見えなかった」
「うん」
「次の聞き取りで、ちゃんと話を聞いて、それからお前さんが決めればいい」
エルナが、横から軽く頷いた。
「その時も、わたしが同席します」
「うん」
二人の言葉が、わたしの中で、別の温度を持って広がった。
父は「問い詰める人には見えなかった」と判断していた。
エルナは「同席する」と決めていた。
二人の判断が、わたしを取り囲んで、わたしの「次の対面」を支えてくれていた。
◇◇◇
家に戻って、わたしは屋根裏に上がった。
机の上には、印の試作の紙が、まだ何枚も広げてあった。
半年余りかけて、形だけは少しずつ、定まり始めていた。
けれど、印の意味を言葉にする作業は、まだ途中だった。
(——あの人は、何を調べに来たのか)
その問いが、頭の中で消えずに残っていた。
ベルマン氏の記録を、テオドール様は持っていた。
ベルマン氏は、わたしの発明を、わたしの知らないところで、こんなに詳しく記録していた。
そして、その記録が、王都の人を動かした。
(——誰かが、何かを動かした結果として、あの人はここに来ている)
その輪郭が、頭の中にすとんと収まった。
それはこれまでの「わたしが作って、家族と村の人に見せる」という小さな循環とは別の流れが、すでにわたしの手の外で動き始めている、という事実だった。
金の月の半ばの乾いた風が、窓の外で一度だけ強く鳴った。
ノラの寝息が、隣で規則正しく繰り返されていた。
日を改めて、テオドール様と、もう一度会う。
わたしは、その日を、まだうまく構えられないでいた。
■あとがき・解説
第89話は、新年から半年余りが過ぎた金の月の半ば、王都から「巡回学者」テオドール様が村にやって来る回でした。ベルマン氏の紹介状を携え、リナの発明の一覧を持っている。エルナさんが祭司として「リナは、村のための発明をしてきました」と宣言する場面。「あの人は、何を調べに来たのか」という問いが、屋根裏に残ったまま夜が更ける。今回は、その「外側から動いた結果」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「巡回学者」——王都の知が、地方の現場を歩く
テオドール様の肩書き——王立学院と王宮の魔導師団の両方に籍があり、年に何度か各地の村や町を回って、新しい技術や工芸を記録する役目。
前世の言葉でいうと、これは「フィールドワーカー」と呼ばれる種類の研究者の、王宮版でした。王都の図書館や研究室の中だけで知が完結する時代は、たいていの文明で一定の時期に行き詰まります。書物の中だけ見ていても、新しいものは生まれない。だから、知の中心にいる人が、定期的に辺境の現場を歩いて、新しい技術や工芸を記録する仕組みが必要になる。前世の人類史の中でも、明治期の博物学者や、文化人類学者や、産業史研究者など、いくつもの似た役目の人が存在しました。
テオドール様の存在は、リナの世界の王都が「知の更新を制度化している」ことを示していました。王宮の中だけで完結せず、巡回学者を通じて辺境の知を吸い上げ続けている。だからこそ、グレンフィールド村のような地方の村にも、王都の人が訪ねてくる可能性が生まれる。
■「ベルマン氏の記録」——リナの知らない目録が、王都に届いていた
テオドール様が机の上から取り出した、リナの発明の一覧。計算珠盤、水時計、論理ゲート、機械式計算機、穿孔布、自動灌漑装置、プレヴェルティス——一年余りの発明が、簡潔な文章で並べてあった。
前世の言葉でいうと、これは「自分の知らないところで、自分の作品の目録が作られていた」という、創作者なら誰もが一度は経験する種類の戸惑いでした。商人ギルドの記録は、商売の都合で作られているのか、別の意図があるのか、リナにはまだ分かりません。けれど、その記録は確実に存在していて、しかも王都の人の手元まで届いている。
「プレヴェルティスの命名のことまで……エルナさんがベルマン氏に話していたんだ」というリナの気付きは、自分の周りで動いていた善意の網目に、初めて触れた瞬間でした。エルナさんはたぶん、悪意を持ってベルマン氏にプレヴェルティスの命名の経緯を話したわけではない。村の祭司として、商人に村の話を伝えるのは自然なことでした。けれどその一言が、こうして紙の上に書き留められ、王都まで運ばれていた。
人は、自分の何気ない一言が、どこまで運ばれるかを予測できません。エルナさん自身も、自分の一言がここまで遠くまで届くとは思っていなかったでしょう。
■「祭司エルナの宣言」——盾としての一言
エルナさんがテオドール様に向かって「リナは、村のための発明をしてきました。それだけは、申し上げておきます」と告げた場面。
前世の言葉でいうと、これは「先制的な防衛」の宣言でした。テオドール様はまだ何も問題発言をしていません。けれどエルナさんは、テオドール様が今後どんな問いを投げてくるかを予測して、その前に「この子の発明は、村のためのものだ」という枠を先に置きました。後でテオドール様が「これは王都の役に立つ技術だ」と言いたくても、その手前に「村のためのもの」という枠が置かれている。
エルナさんの声は「いつものお祈りの声よりも少しだけ低く、少しだけ強かった」とリナは観察しています。祭司として、村の子を守る立場の人間が、王都から来た学者に対して、自分の立場を一段だけ前に出した瞬間でした。
父も同じことを、別の言葉でやっていました。集会所までの道で「無理に、何かを答えなくていい」「分からなければ、『分かりません』と言え」「お前さんが言わないことを、その人に問い詰めさせるな」と、リナに沈黙する権利を確認してくれていた。父の盾と、エルナの盾。二つの盾が胸の奥に並んだという感覚は、リナがこの対面に対して構えるべきだった、最も大事な構えでもありました。
■「十歳の子が、こういうものを」——途中で止まった言葉
テオドール様が「十歳の子が、こういうものを……」と言いかけて、途中で言葉を止めた場面。
前世の言葉でいうと、これは「驚きを、口に出す前に呑み込む」という、訓練された学者の作法でした。テオドール様が言いかけたのは、たぶん「十歳の子が、こういうものを作れるはずがない」だったか、「十歳の子が、こういうものを作れるとは」だったか、どちらかの方向でした。けれど、どちらにしても、その言葉はリナに対して何かの圧力をかけることになる。だからテオドール様は、途中で言葉を止めた。
止めたという事実が、テオドール様の人柄を示していました。年齢を理由に値踏みすることが、リナにとって不当な扱いだと、テオドール様は瞬時に判断できる人だった。父の「お前さんを問い詰める人には、見えなかった」という後の評は、その止まった言葉の判断を見ていた評でもありました。
■「すでに動き始めている」——リナの手の外の流れ
家に帰った後の屋根裏で、リナが「誰かが、何かを動かした結果として、あの人はここに来ている」と頭の中で整理した場面。
前世の言葉でいうと、これは「自分のキャリアが、自分の意思の届かない場所で進み始めている」と気付いた時の、独特の感覚でした。これまでリナの発明は、リナ自身の「次は何を作ろう」「次は誰のために」という意思の流れの中で生まれてきました。それが今、リナの意思の外で、別の人たちの意思の連鎖の中で動き始めている。ベルマン氏が記録を取り、紹介状を書き、テオドール様が動いた。リナはその連鎖の途中で何も決めていない。
それは、これまでの「わたしが作って、家族と村の人に見せる」という小さな循環とは、別の流れでした。怖い、というほどではない。けれど、これまでの場所には戻れない種類の流れでした。九歳の金の月にマルゲルダさんが装置の前に現れた時から、ゆっくり始まっていた「広がりの予感」が、ここで具体的な人の形を取って、リナの目の前に立っていた。
——日を改めて、テオドール様と、もう一度会う。
——わたしは、その日を、まだうまく構えられないでいた。
屋根裏の机の上には、まだ完成していない印の試作の紙が広げてある。印の意味を言葉にする作業も、途中のまま。けれど世界はそれを待ってはくれない。次の対面の日が、もう決まっている。サブアーク 1-D は、ここから後半に入っていきます。次の話もお楽しみに。




