第84話 町の論理
ベルマン氏は半月ほど後も村に残っていた。
朝、父が「話し合いをする」と言って、いつもより早く起きた。
何かが決まる前の、静かな朝だと思った。
霜の月の下旬から数日。先日ベルマン氏が口にした「王都」という言葉が、わたしの頭の中に残ったままだった。
わたしは台所でお粥を食べながら、エマがいつもより少しだけ多めに椀を出してくれたことに気付いた。
(——お母さん、お客さんが来るって知ってる)
(——お父さんが、夜のうちにお母さんに伝えたんだ)
その流れが、頭の中にすっと収まった。
◇◇◇
ベルマン氏とマルゲルダさんが、午前のうちに家に来た。
今回は、エルナは同席しなかった。ベルマン氏が「最初は、家族同士の話で」と希望したので、見届け人としてのエルナは、相談の場には呼ばれなかった。
「ありがとうございます。お時間をいただいて」
ベルマン氏が、食卓の前で軽く頭を下げた。
父も、わたしも、軽く頷いた。
ベルマン氏は、革の鞄から、丁寧に折りたたまれた紙の束を取り出した。
「これは、もしお嬢さんの作ったものをハーラム町で広く知らせる場合に、わたしどもの商人ギルドがどのように関わるかをまとめた書面です」
(——書面)
その言葉が、頭の中にずしりと届いた。
少し前にベルマン氏と初めて会ったときは、口約束だけで契約をした。今回は、書面が出てきた。
それは今回の話が、あの時よりもずっと大きな話になっているということだった。
◇◇◇
ベルマン氏が、紙の束を父の前に置いた。
父が、一枚ずつめくりながら、目で文字を追っていく。
わたしも、横から覗き込んだ。難しい言葉が、いくつも並んでいた。
ベルマン氏が、ゆっくり説明を始めた。
「いくつかの方法があります。一つは、お嬢さんの装置の『製造権』を、町の工房に渡すこと。対価として、金貨で支払う」
(——製造権)
頭の中で、知らない言葉が、ぴたりと止まった。
「ベルマン氏」
わたしは、思わず口を開いた。
「はい?」
「『製造権』というのは、どういう意味ですか」
ベルマン氏が、わたしの方を見て、軽く微笑んだ。
「お嬢さんが設計したものを、うちの工房で、同じ仕組みで作ることができる権利、ということです」
「えっと——」
「お嬢さんが、ここで設計したものを、町で複製して、いくつも作る。それを、町の商人や農家に売る。その権利を、わたしどもが買う、という意味です」
(——複製)
頭の中で、その言葉が、ゆっくり広がっていった。
「複製、というのは——」
「ええ。お嬢さんの装置と同じものを、たくさん作る、ということです」
(——わたしの設計したものが、わたしのいないところで、いくつも作られる)
(——いくつも作られたものが、わたしの知らない人たちの場所で、動き続ける)
胸の奥に、何かがゆっくり沈んでいった。
温かい感覚ではなかった。
むしろ、少し冷たい感覚に近かった。
◇◇◇
ベルマン氏が、続けて説明をした。
「複製して売ることで、町の商人や農家が、お嬢さんの装置の恩恵を受けることができます。リナお嬢さんの作ったものが、より広い範囲に、より多くの人たちに、届くわけです」
「うん」
「うちの工房が、複製のための技術を持っています。職人もいます。そして、商人ギルドが、買い手を見つけます」
「うん」
「対価として、金貨を、お嬢さんと、お父さんの工房にお渡しします」
ベルマン氏は、書面の中の数字を指差した。
わたしは、その数字をちらりと見たけれど、金額の感覚が、まだうまく掴めなかった。父も、その数字を見て、少しだけ眉を上げた。
「考えさせてください」
父が、短く言った。
ベルマン氏が、軽く頷いた。
「もちろんです」
◇◇◇
ベルマン氏が、書面を父に預けて、帰り支度を始めた。
玄関の前で、父が立ち止まって、ベルマン氏に確認した。
「ベルマン氏」
「はい」
「『製造権』を、こちらが、ベルマン氏の工房に渡したとして、ですが」
「うん」
「それから後は、リナの装置を誰がどう作ってどう売るかは、ベルマン氏の自由ということになると理解していいのですか」
ベルマン氏が、しばらく考えてから、ゆっくり答えた。
「基本的には、そうです」
「基本的には」
「ええ。書面には、品質を保つための取り決めが、いくつか書かれています。あまりにも粗悪なものを作って、お嬢さんの名前を汚すようなことは、しないように」
「ですが、それ以外は、ベルマン氏の判断、と」
「ええ」
父は、それを聞いて、何度か頷いた。
表情は、変わらなかった。
ただ、わたしの隣で、父が一度、息を深く吸ったのが分かった。
◇◇◇
ベルマン氏とマルゲルダさんを玄関で見送ってから、父はわたしを工房に呼んだ。
「リナ」
「うん」
「分かったか」
「えっと——」
「製造権、というやつだ」
父が、作業台の上に書面を広げた。
わたしは、書面の文字を、もう一度目で追った。
「お父さん。これは、わたしの作ったものが、わたしのいないところで勝手に動き続けるということ?」
「そうだ」
父が、軽く頷いた。
「複製、というのは、そういうことだ」
「えっと——」
「お父さん。もし町の工房で粗悪な複製が作られて、それで水門が壊れたら、誰が責任を取るの」
父が、ねじを置いた手を、しばらく止めた。
「うちじゃない、と書面には書いてある。だがな」
「うん」
「壊れた水門の前にいるのは、買った人だ。その人が誰に文句を言いに行くかは、書面の通りにいくとは限らん」
(——あ)
その事実が、頭の中にずしりと届いた。
書面の中の「責任」と、現場で起きる「文句」は、別のものだった。
「お父さん、わたし、それでいいのか、まだよく分からない」
「うん」
「ベルマン氏のおっしゃることは、わたしのためになると思う。村の人や町の人や、もっと多くの人が、わたしの装置の恩恵を受けられる」
「うん」
「でも、わたしの名前で売られて、それが間違った装置だったら——その時、わたしは、どこから直しに行けばいいの」
父が、しばらく黙ってから、ゆっくり言った。
「うちの娘が、分からないうちに決めるわけにはいかん」
「お父さん」
「もう少し、考えていい。分かるまで考えろ」
「うん」
父はそれだけ言って、書面を作業台の上に置いて、また鐘時計の小さなねじを磨き始めた。
◇◇◇
夕方、わたしは屋根裏で、書面のコピーを開いていた。
書面の文字は、いつもの紙より、ずっと固い言葉で書かれていた。
「製造権《同じ仕組みで作る権利》」「対価」「品質保証《同じ品質で作るという約束》」「不正競争の禁止《同じものを安く作って横から売る行為の禁止》」——どれも、村の生活では、聞いたことのない言葉ばかりだった。
頭の中で、わたしは、ベルマン氏の説明を、もう一度並べてみた。
——お嬢さんが設計したものを、うちの工房で、同じ仕組みで作る権利。
(——同じ仕組みで作る、ということは)
(——わたしと同じ装置が、町に、いくつも、増えていく)
(——それは、わたしが「これは、わたしの装置だ」と言えなくなる、ということ?)
頭の中で、別の場面を、もう一つ置いてみた。
(——もし町の人が、わたしのところに「これを直してくれ」と来たら)
(——それは、町の工房が作った装置でも、わたしが直すことになるのか)
(——わたしが直さなくていい装置を、わたしが直しに行く——そのとき、それは誰の装置なんだろう)
答えは、出てこなかった。
ペンを置いて、わたしは天井を見上げた。
ノラの寝息が、隣で規則正しく繰り返されていた。
氷の月の入りの夜の風が、窓のすぐ向こうで一度音を立てた。
複製——つまり、わたしのいないところで、わたしの作ったものが、動き続ける。
それが何を意味するか、まだうまく整理できなかった。
■あとがき・解説
第84話は、ベルマン氏が「製造権」という新しい概念を書面で持ち込む回でした。同じ仕組みで作る権利を町の工房に渡す——その言葉の意味を初めて聞いたリナの胸の中に、温かさではなく、冷たい感覚が沈んでいきます。父が「うちの娘が、分からないうちに決めるわけにはいかん」と短く言い切る場面。今回は、その「複製」という問題について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「書面」——口約束から、紙の上の言葉へ
ベルマン氏が革の鞄から取り出した、丁寧に折りたたまれた紙の束。
前世の言葉でいうと、これは「契約の格上げ」を示す道具立てでした。半年余り前、ベルマン氏が初めてリナの計算珠盤を見に来た時の取り引きは、口約束だけで進みました。今回は、書面が出てきた。それは今回の話の規模が、口約束で処理しきれない大きさに育っているということでした。
書面が出てきた瞬間、話は二つの方向に重みを増します。一つは、約束の言葉が紙の上に固定される重み。もう一つは、紙の上に書かれていないことは「約束されていない」ことになる、という重み。口約束では、その場の空気で柔らかく扱えたことが、書面になると、書かれた通りに扱われる。リナの「書面、というその言葉が、頭の中にずしりと届いた」という感覚は、その重みの予感でもありました。
■「製造権」——同じ仕組みで作る権利、という抽象の入り口
「お嬢さんが設計したものを、うちの工房で、同じ仕組みで作ることができる権利」というベルマン氏の説明。
前世の言葉でいうと、これは「知的財産」と呼ばれる種類の概念の入り口でした。物そのものではなく、「物を作る仕組み」を別の形で取り扱う発想。物は手で運べる。けれど「作る仕組み」は手で運べない。だから「作る仕組みを使う権利」を、紙の上に書き起こして取り引きする。前世の人類が長い時間をかけて作ってきた抽象の体系の、いちばん基本的な単位の一つでした。
リナの世界では、まだこの概念は当たり前ではありません。職人の技は、たいてい家の中で世代から世代へ口伝で渡されてきた。「権利」として紙の上に書く習慣は、商人ギルドが商売の必要から作り上げた、比較的新しい仕組みでした。ベルマン氏がそれを当たり前のように出してきたのは、ベルマン氏が町の論理の中に深く立っている人だからでした。
リナがその言葉を初めて聞いて「同じ仕組みで作る、ということは——わたしと同じ装置が、町に、いくつも、増えていく」と頭の中で並べ直した場面は、抽象を自分の言葉で具体に戻す作業でした。抽象は、自分の具体に戻せなければ、本当には理解できない。
■「責任は、書面通りには動かない」——壊れた水門の前にいる人の話
父が短く言った「壊れた水門の前にいるのは、買った人だ。その人が誰に文句を言いに行くかは、書面の通りにいくとは限らん」。
前世の言葉でいうと、これは「契約上の責任」と「現場の責任」の乖離を見抜いた一言でした。書面の中では、責任の所在は明確に書かれています。「品質保証はこちら」「不正競争の禁止はあちら」。けれど、実際に水門が壊れた時、その場で困っているのは、書面を読んでいない買い手の人です。その人は、装置の作者の名前を見て、その人に文句を言いに行く。書面の中の責任分担より、装置の上に書かれている名前の方が、文句の届く先を決めてしまう。
リナの「わたしの名前で売られて、それが間違った装置だったら——その時、わたしは、どこから直しに行けばいいの」という問いは、子供の素朴さの中に、本質的な疑問を抱え込んでいました。複製品を作る権利を渡す、ということは、間違った装置を作る権利も同時に渡す、ということになる。けれど間違った装置の責任は、作者の名前の方に向かって動く。書面の上では切り離せても、現場では切り離せない。
父はその乖離を、職人として体で知っていました。「うちの娘が、分からないうちに決めるわけにはいかん」という一言は、ベルマン氏への拒否ではなく、リナの理解が追いつくまでの保留の宣言でした。
■「同じ仕組みで作るとは、何か」——抽象を自分の具体に戻す
屋根裏でリナが書面を開きながら、頭の中で並べ直した場面。
前世の言葉でいうと、リナがやっていたのは「概念の試運転」と呼べる作業でした。新しい概念を頭に入れた時、人はその概念を自分の知っている場面に当てはめてみて、当てはまるかどうかを確かめます。「町に同じ装置が増える」「わたしが直さなくていい装置を、わたしが直しに行く」——リナは、ベルマン氏が紙の上で抽象的に述べたことを、自分の身の周りの具体に変換し直していました。
その変換の中で、リナの胸の奥に冷たい感覚が沈みました。それは「複製は便利だ」という抽象の答えの背後で、「複製は、わたしの作ったものを、わたしの手の届かない場所に運んでいく」という具体の重さが立ち上がってきたからでした。
複製——つまり、わたしのいないところで、わたしの作ったものが、動き続ける。
その一行が、屋根裏の机の上で、ぼんやりと輪郭を結び始めていました。まだ整理しきれていない、けれど見過ごせない問い。次の話で、エルナさんとの対話を経て、この問いがもう少しはっきりした言葉に変わっていきます。次の話もお楽しみに。




