第83話 ベルマン氏、再び
一月半ほどが経った。
紅の月はとうに過ぎ、霜の月の上旬が過ぎた頃だった。
村の畑では、麦の刈り入れがすっかり終わっていた。あちこちの畑で、束ねた麦藁の山が立ち並び、風に乗って乾いた麦の匂いが運ばれてくる。朝晩の空気には、もう夏の名残はなく、薄い冷たさが頬に当たるようになっていた。
(——マルゲルダさんは、いつ、また来るんだろう)
頭の中で、その問いが、何度か立ち上がっていた。
わたしの中で、マルゲルダさんの最後の言葉が、消えないままだった。
——あんたは、ちゃんと作った人の顔をしている。
その言葉を、わたしは何度も思い返していた。
◇◇◇
その日の昼前、村の南の辻に、二頭立ての馬車が止まったらしい。
わたしと父が工房で作業しているとき、玄関の戸が叩かれた。
エマが玄関に出て、それから「リナ、お父さん」と呼びに来た。
「マルゲルダさんと、もう一人」
(——もう一人)
頭の中で、心臓が一度跳ねた。
玄関に出ると、マルゲルダさんが、見覚えのある人の隣に立っていた。
背の低い、丸い顔の、商人らしい服装の男の人。
(——あ)
「ベルマン氏」
父が、その人の名前を呼んだ。
ベルマン氏が、軽く頭を下げた。
「アルベルトさん。お久しぶりです」
それは、以前ハーラム町の商人ギルドから来た人だった。リナの計算珠盤を見て、契約を交わした、あの商人ギルドの代表。
(——マルゲルダさんが、ベルマン氏を、連れてきた)
(——あの二人、知り合いだったんだ)
その繋がりが、頭の中にすっと収まった。
◇◇◇
マルゲルダさんが、軽く笑った。
「お嬢さんの装置の話、ハーラム町でしたら、ベルマン氏が興味を持ってくれてね。お嬢さんの作ったものが、商人ギルドの記録にも残っていると」
「それは、計算珠盤の話か」
父が、ベルマン氏を見て聞いた。
「そうです」
ベルマン氏が、軽く頷いた。
「リナお嬢さんの計算珠盤は、町でいくつか作られて、商家の帳簿の場で使われています。それから、少し前にうちの工房に頼まれた多桁加算機の話も、町ではかなりの噂になっています」
(——え)
その情報が、頭の中にゆっくり収まった。
一年あまり前の話を、町で覚えている人がいる。
それはわたしが想像していたよりも、ずっと長く広く、わたしの作ったものの話が続いていたということだった。
ベルマン氏が、軽く息を整えてから続けた。
「正直に申し上げますと、町のギルドからは『どれだけ待たせるんだ』という催促を、ここしばらく受けています。他の商人ギルドも、お嬢さんの技術に関心を持ち始めているようでして」
「うん?」
「氷の月のうちに、何らかの返事を、ハーラム町に持ち帰りたい。それが、わたしの立場でもあります」
ベルマン氏は、それを責めるような口調では言わなかった。ただ「自分の側にも事情がある」と、正直に置いた言い方だった。
◇◇◇
タール爺さんと、村長ハインリヒにも声をかけて、装置の前まで一緒に行くことになった。
村の北の水路に着くと、ベルマン氏とマルゲルダさんは、装置の前で、長い間立ち止まっていた。
ベルマン氏が、まず口を開いた。
「これは、計算珠盤や多桁加算機とは、また違う種類のものですな」
「はい」
わたしが軽く頷くと、ベルマン氏が続けた。
「あれは、人が机の上で使う道具。これは、人がいない場所で、勝手に動く機械。種類が、全く違う」
「うん」
「同じ人が作ったとは、にわかには信じがたいです」
ベルマン氏が、わたしの方を向いた。
「リナお嬢さん」
「はい」
「計算珠盤、多桁加算機、そして、この水門の装置。それと、ハーラム町でも噂を聞いた『穿孔布』。全部、あなたが作ったのですね」
「はい」
短く答えた。
言葉の重みが、一年あまり前の陽の月にベルマン氏と話したときとは、少し違っていた。あの時のわたしは、ほとんど黙って、父にすべてを任せていた。今のわたしは、自分の口で「はい」と言えた。
グスタフ親方が、わたしの隣で、小さく頷いた。
「お前さん、ちゃんと答えたな」
親方の声は、誰にも聞こえないくらい小さかった。けれど、わたしの耳には、ちゃんと届いた。
◇◇◇
ベルマン氏が、装置をもう一度、長い時間見てから、ゆっくり振り向いた。
「アルベルトさん」
「はい」
「ハーラム町に、お嬢さんの作ったものを、もっと広く知らせる場が必要だと思います」
「具体的には」
「商人ギルドの大寄り合いがあります。氷の月のうちに。そこで、お嬢さんの装置を実演する場を、こちらで用意します」
(——大寄り合い)
その言葉が、頭の中にずしりと落ちた。
ベルマン氏が、続けた。
「いや、それだけでなく」
「うん?」
「うまく行けば、ハーラム町だけの話では、終わらないかもしれません」
「と、言うと」
「王都に、話を通せるかもしれません」
(——え)
「王都?」
「ええ。王都にも、商人ギルドの本部があります。そこには、技術を扱う部署もあります。お嬢さんの作ったもの——特に、この自動で動く水門装置の話は、もしかしたら、本部の人たちにも届く可能性があります」
頭の中で、何かが、ゆっくり広がっていった。
(——王都)
(——ハーラム町よりも、ずっと遠い場所)
(——お父さんが、若い頃に修行した場所)
(——わたしの作ったものが、そこまで届く、かもしれない)
温かいような、冷たいような、両方の感覚が胸の奥でざわついた。
◇◇◇
父が、しばらく黙ってから、ベルマン氏に答えた。
「考えさせてください」
「もちろんです」
ベルマン氏が、軽く頭を下げた。
「急がなくて、いいのです。ただ、こちらが、何を考えているか、お知らせしておきたかった」
「ありがとう、ございます」
父はそれだけ言って、軽く頭を下げた。
ベルマン氏とマルゲルダさんは、村長ハインリヒと、タール爺さんにも丁寧に挨拶をしてから、村の南の辻の方へ戻っていった。
◇◇◇
家に戻る道、グスタフ親方が、わたしの隣を歩いていた。
「嬢ちゃん」
「うん」
「お前さん、町に行くのか」
「えっと——」
「俺は、お前さんが行くなら、応援する。行かないなら、それも応援する。どっちでもいい」
親方は、わたしの方を見ないで、そう言った。
それから、軽く笑った。
「ただ、何かを決める前に、ちゃんと考えろ。それと、家族と話せ」
「うん」
「お前さんは、半年前のお前さんと、もう、別の顔だ」
(——え)
「ちゃんと、自分で考えて、自分で答えられる顔をしとる」
親方はそれだけ言って、別の道から自分の鍛冶屋の方へ歩いていった。
◇◇◇
その夜、屋根裏で、わたしは天井を見上げていた。
ノラの寝息が、隣で規則正しく繰り返されている。
霜の月の初めを過ぎた夜の風が、屋根板の上を一度撫でて、また静かになった。
頭の中で、ベルマン氏の言葉を、もう一度並べてみた。
——王都に、話を通せるかもしれません。
その「王都」という言葉は、頭の中で、どんどん大きくなっていた。
わたしは、王都に行ったことがない。
お父さんは若い頃に時計の修行で行ったらしいけれど、わたしには、その話をまだ詳しくは聞いていない。
王都は、ハーラム町よりも、ずっと遠い場所だと聞いている。
(——わたしの作ったものが、そんな遠くまで、届くのだろうか)
(——届いた先で、わたしのいないところで、わたしの作ったものは、どう扱われるのだろうか)
頭の中で、その問いが、ゆっくり広がっていた。
王都、という言葉が、頭の中で大きくなっていた。
グレンフィールド村から、王都まで。
どのくらい遠いのか、わたしはまだ知らなかった。
■あとがき・解説
第83話は、二か月(約六十日)の時間ジャンプを挟んだ頃、マルゲルダさんがハーラム町の商人ベルマン氏を連れて再訪する回でした。半年余り前にリナの計算珠盤を見て契約を交わしたあの人が、今度は自動灌漑装置の前で「王都に、話を通せるかもしれません」と告げる。今回は、その「王都」という言葉について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「過去の取り引き先が、別の話で戻ってくる」——人脈は、線ではなく網になる
ベルマン氏が、計算珠盤の頃の付き合いを覚えていて、マルゲルダさんと繋がっていた事実。
前世の言葉でいうと、これは「人脈の網目化」と呼べる種類の現象でした。商いの世界では、一度取り引きをした相手とは、たいてい別の話でもう一度繋がります。最初は計算珠盤の話だった人が、二度目は水門装置の話で戻ってくる。間に半年余りの空白があっても、その人の頭の中ではリナの作ったものへの記憶は途絶えていない。むしろ「あの時の子が、また何か作ったらしい」という情報が、商人の網目を伝って広がっていく。
「町ではかなりの噂になっています」というベルマン氏の一言は、リナの想像していたよりずっと広い網目の存在を示していました。半年前の取り引きは、リナにとっては「終わった話」でしたが、町の側ではまだ「進行中の話」として記憶されていた。穿孔布の話も、誰かが誰かに話して、別の誰かが聞いていた。商人の網目は、リナの預かり知らないところで、ずっと動いていた。
■「催促という言葉の重み」——相手の側にも事情がある
「どれだけ待たせるんだ」という商人ギルドからの催促を、ベルマン氏が「正直に申し上げます」と前置きして伝えた場面。
前世の言葉でいうと、これは「相手の立場を正直に開示する」という、誠実な交渉の作法でした。商人が客に対して「うちの側でも、こういう圧力がかかっています」と打ち明けるのは、本当は売り手側の弱みを見せることになります。けれどベルマン氏はそれを隠さなかった。隠すと、後で「あの時、あれほど穏やかに見えたのに、急に態度を変えた」と思われる。最初から事情を開いておけば、相手の判断に「相手の事情」も組み込んでもらえる。
「氷の月のうちに、何らかの返事を、ハーラム町に持ち帰りたい」というベルマン氏の言葉は、責めではなく、自分の立場の正直な置き方でした。父が後で「ベルマン氏は、ちゃんと待つ人だ」と評したのは、こういう正直さを見ていたからでもありました。
■「王都」——遠い場所の名前が、初めて自分のものとして近づいてくる
「王都に、話を通せるかもしれません」というベルマン氏の言葉。
前世の言葉でいうと、これは「自分のスケールが、急に一段上に置かれる」瞬間でした。これまでリナの作ったものの行き先は、家・工房・村・隣村・ハーラム町という同心円の中にありました。村から町までの距離は、リナにはまだ実感の伴わない距離でしたが、それでも「いつかは届くかもしれない場所」として頭の中にありました。
王都は違いました。王都は、父が若い頃に時計の修行で行った場所として、家の中の物語の中にだけ存在していました。「お父さんが若い頃に修行した場所」という、過去の物語の中の場所が、急に「リナの作ったものが届くかもしれない場所」として、未来の物語の中に置き直された。
頭の中で「ハーラム町よりも、ずっと遠い場所」と呟いたリナの感覚は、地理的な遠さの感覚と、時間的な遠さの感覚と、社会的な遠さの感覚が、同時に頭の中で広がっていく感覚でした。商人ギルドの本部。技術を扱う部署。九歳の女の子の作ったものが、そんな場所で語られる可能性。
■「半年前の自分と、別の顔」——成長は、他人の目に映る
「お前さんは、半年前のお前さんと、もう、別の顔だ」というグスタフ親方の言葉。
前世の言葉でいうと、これは「成長は、自分では見えない」という事実の、優しい確認でした。自分の成長は、たいてい自分では気付けません。毎日少しずつ変わっていくものを、毎日見ている自分の目では、変化として捉えられない。一方で、間を置いて会う人の目には、その変化がはっきり見える。
グスタフ親方はリナと毎日会っているわけではありませんでした。穿孔布の頃から、自動灌漑装置の頃を経て、今日の交渉まで、いくつかの節目だけで顔を合わせてきた人でした。だから、節目ごとのリナの顔の違いが、親方の目には鮮明に映っていた。「ちゃんと、自分で考えて、自分で答えられる顔をしとる」という親方の評は、毎日見ている家族には言えない種類の証言でした。
「俺は、お前さんが行くなら、応援する。行かないなら、それも応援する」という親方の中立の置き方も、職人としての筋でした。決めるのはリナ自身であって、周りの人は応援か見守りかを選ぶだけ。その距離の取り方が、リナの肩から余計な重さを下ろしてくれていました。
——王都、という言葉が、頭の中で大きくなっていた。
その夜のリナの胸の中には、温かいような、冷たいような、両方の感覚が静かに重なっていました。これからの物語は、村と町の中の話から、王都を含むもっと広い圏域の話へと、ゆっくり輪郭を変えていきます。次の話もお楽しみに。




