第82話 条件
マルゲルダさんは、約束通り十日ほど後に来た。
父が、珍しく祭司様に声をかけていた。
見届けてほしい、ということだと、後で分かった。
穣の月の初め。陽射しはまだ夏の名残を残しつつ、夕方の影が前より少しだけ長くなっていた。麦畑は黄金色に近づきつつあり、刈り入れ前の静かな時期に入っていた。朝晩の空気には、ほんの少しだけ涼しさが混じり始めている。
エルナさんが朝早く家に来てくれた。祭司の白いローブの上に薄手の羽織を着て、いつもより少しだけかしこまった服装だった。
「リナ。今日は、見届け人として、ここに座らせてもらうわね」
「うん。ありがとうございます」
エルナさんは食卓の隅に座って、軽くお茶を一口飲んだ。
父も、いつもより少しだけ整った服装だった。
(——お父さん、本当に、これを「大事な話」として扱ってる)
頭の中で、その事実が、ゆっくり置かれた。
◇◇◇
マルゲルダさんは、昼前に来た。
今日も馬を引いて、けれど荷馬車は連れていなかった。エルナの姿を見て、軽く頭を下げた。
「祭司様も、いらしてくださったんですね」
「ええ。アルベルトさんから、見届けてほしいと頼まれて」
エルナさんがそう答えると、マルゲルダさんは少しだけ目を細めた。
それは、警戒というよりは、「相手が真面目に向き合っている」と認識した目つきだった。
「ありがたいです。話の中身に、立会い人がいてくださると、わたしも、後で言葉に責任が持てます」
マルゲルダさんはそう言って、食卓の椅子に座った。
わたしと父も、隣の椅子に座った。エルナさんは、台所側の椅子で、少し離れて座っていた。
◇◇◇
マルゲルダさんは、お茶を一口飲んで、それから本題に入った。
「先日話した、三つの方法。お嬢さんと、お父さんで、何か考えてくださいましたか」
父が、わたしの方を見た。
「リナ。お前から答えるか」
(——え)
頭の中で、心臓が一度、跳ねた。
答えは、用意していた。けれど、自分の口から、それを言うかどうか、迷っていた。
エルナさんが、わたしの方を、静かに見ていた。
父も、口を出さずに、わたしの言葉を待っていた。
(——わたしが、決める)
(——わたしが、答える)
その覚悟が、ゆっくり胸の底に置かれた。
「マルゲルダさん」
「うん」
「あの——」
声が、一度詰まった。それでも、わたしは続けた。
「設計図は、渡しません」
(——あ)
(——言えた)
頭の中で、何かが軽く震えた。
マルゲルダさんが、ゆっくり首を傾けた。
責めるような表情ではなかった。ただ「もう少し聞かせてほしい」という顔だった。
「理由を、聞いてもいいかね」
「えっと——」
わたしは、何度か息を吸ってから、答えた。
「まだ、うまく言葉にできないんですが」
「うん」
「これはわたしが考えたものだから、どう使うかは、わたしが決めたい、と思っています」
(——言えた)
(——ちゃんと、言葉になった)
胸の奥に、温かい何かが残った。
◇◇◇
マルゲルダさんは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かった」
(——え)
「設計図を渡さないなら、残りは二つだ。装置を町まで運ぶか、あんたが町まで行くか」
「えっと、装置を運ぶ、というのは——」
「装置の現物を、ハーラム町の商人ギルドの実演会で見せる。実演会のあいだ、装置は町にある。終わったら、村に戻ってくる」
「期間は、どのくらいですか」
「短ければ、十日。長くて、二十日くらい」
(——二十日)
頭の中で、その期間を考えた。
タール爺さんが、その間、装置なしで水路を見ることになる。
村の人たちが、装置の運用を、どう受け止めるか。
「それは、タール爺さんと村長さんに相談しないと、決められません」
「もちろんです」
マルゲルダさんが、軽く頷いた。
「もう一つは、あんたが町まで行くこと。装置はそのまま村に置いておいて、あんたが商人ギルドの会合で、装置の話をする」
「えっと——」
「これは、もっと、家族の同意が要る」
マルゲルダさんが、父の方を向いた。
父は、しばらく黙ってから、ゆっくり口を開いた。
「リナを、今すぐ町に出すつもりは、ないです」
「分かりました」
「ですが、装置を運ぶという話なら、検討の余地はあります。タール爺さんと、村長と、相談した上で、ですが」
「もちろんです」
マルゲルダさんが、また頷いた。
それから、エルナの方を向いて、軽く頭を下げた。
「祭司様。今、わたしが申し上げたこと、それから、お嬢さんとお父さんが言ったこと。すべて、後で何か起きたときの、確認のために、覚えておいていただけますか」
「ええ。わたしの記録に、書き留めておきます」
エルナさんがそう答えて、軽く目を伏せた。
◇◇◇
マルゲルダさんが、お茶を飲み終えて、立ち上がった。
「今日のところは、これくらいで失礼します。タール爺さんと、村長さんへの相談に、何日くらいかかりますか」
「一月半ほど、いただきたい」
「分かりました。次は、一月半ほど後にお邪魔します」
マルゲルダさんは、軽く頭を下げた。
それから、わたしの方を向いた。
「リナ嬢ちゃん」
「はい」
「あんたは、ちゃんと作った人の顔をしている」
(——え)
頭の中で、その言葉が、ぴたりと止まった。
マルゲルダさんは、それ以上の説明はせずに、軽く頷いて、玄関の方へ歩いていった。
◇◇◇
エルナさんが、わたしの方を見て、軽く笑った。
「リナ。あなた、ちゃんと言えたわね」
「えっと——」
「『設計図は渡しません』」
エルナさんが、その一言を、ゆっくり繰り返してくれた。
「あなたが、自分の作ったものに、責任を持とうとしている。それを、わたしは、ちゃんと聞きました」
エルナさんが、お茶の椀を片付けて、台所のお母さんに「ありがとう」と声をかけた。
それから、軽く目を伏せて、何かを少し考えるような表情をした。
(——エルナさん、何を考えてるんだろう)
頭の中で、その問いが立ち上がった。
けれど、すぐには答えが出てこなかった。
エルナさんはその表情のまま、玄関で「では、また」と挨拶をして、教会の方へ帰っていった。
◇◇◇
夜、屋根裏で、わたしは天井を見上げていた。
マルゲルダさんの最後の言葉が、頭から離れなかった。
——あんたは、ちゃんと作った人の顔をしている。
その「ちゃんと作った人」という言葉。
それは、リナを「子供」として扱う言葉ではなかった。
「何かを作って、責任を持っている人」として扱う言葉だった。
(——わたし、そういう顔をしてるんだろうか)
頭の中で、その問いを置いてみた。
温かい何かと、別の何かが、同時に胸の奥でざわついていた。
温かい方は、嬉しさだった。
別の方は——うまく言葉にできなかった。
それは、嬉しいのか、怖いのか、よく分からなかった。
ただ、わたしは今日初めて、「設計図は渡しません」と自分の口で言えた。
その事実だけは、しっかりと、胸の奥に残っていた。
ノラの寝息が、隣で規則正しく繰り返されていた。
穣の月の初めの夜風が、屋根板を一度だけ撫でて、また静まった。
——ちゃんと作った人の顔をしている。
その言葉を、夜になってももう一度頭の中で並べ直した。
嬉しいのか、怖いのか、よく分からなかった。
■あとがき・解説
第82話は、マルゲルダさんとの正式な交渉の場に、父がエルナさんを「見届け人」として呼んだ回でした。リナが自分の口で「設計図は渡しません」と告げる場面。マルゲルダさんの「あんたは、ちゃんと作った人の顔をしている」という最後の言葉。今回は、その「自分で言葉にする」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「見届け人」——後で言葉に責任が持てるように
父がエルナさんに「見届けてほしい」と頼んで、エルナさんが祭司として食卓の隅に座る場面。マルゲルダさんが「立会い人がいてくださると、わたしも、後で言葉に責任が持てます」と言った場面。
前世の言葉でいうと、これは「立会人を立てる契約」と呼ばれる形でした。二者間で約束を交わす時、その場で交わされた言葉は、後になると「言った言わない」の話になりがちです。けれど、第三者が同じ場でその言葉を聞いていたら、後でその第三者に確かめることができる。立会人がいることで、当事者の双方が「軽率に約束しない」「軽率に約束を曲げない」という緊張を持ちます。
エルナさんは祭司として、村の中の「公的な記録の番人」の役を担う人でした。神の前で交わされた言葉は、人と人の間だけの言葉より重い。マルゲルダさんがその重みを歓迎したのは、誠実な商人の感覚でした。商売の話を「神の前」に置きたがる商人は、後で約束を破る気のない商人です。
■「自分の口で、自分の意思を言う」——子供から、当事者へ
「設計図は、渡しません」とリナが自分の口で告げた場面。
前世の言葉でいうと、これはリナがこの物語で初めて「能動的な拒否」を自分の言葉で表明した瞬間でした。これまでのリナの「拒否」は、たいてい受動的な形で表れていました。「お父さんに相談します」「考えさせてください」「分かりません」。それらはどれも、判断を一度誰かに預ける言い方でした。けれど今日のリナは、「渡しません」と、自分が主語の動詞で答えた。
ベルマン氏との初めての契約の時、リナはほとんど黙って、父にすべてを任せていました。それから一年余り。家の中で穿孔布を作り、村の中で自動灌漑装置の合意形成をくぐり抜けてきた経験が、リナの口に「自分の主語」を据えてくれていました。
「言えた」と頭の中で確かめたリナの胸の奥で、何かが軽く震えた——あの震えは、初めて自分の重さで言葉を出した時の、若い震えでした。父も、エルナさんも、口を出さずにその震えを待っていた。「リナ。お前から答えるか」と父が一度だけ振った糸が、リナの方に届いていました。
■「使い方を決めたい」——所有の主張ではなく、関与の主張
「これはわたしが考えたものだから、どう使うかは、わたしが決めたい、と思っています」とリナが続けた言葉。
前世の言葉でいうと、これは「所有」と「使用の決定権」を分けて考える、知財哲学のとても入り口の場所での言い分でした。リナが言ったのは「これはわたしのものだ」ではない。「どう使うかは、わたしが決めたい」。物そのものを抱え込むのではなくて、使い方の決定に関与し続けたいという、もう一段ややこしい立場の表明でした。
子供の頃にお絵かきを描いて、それを誰かが勝手に壁に貼ったら、嬉しいような、それでいて少し悔しい気持ちが胸の奥に残ることがあります。「飾ってくれてありがとう。でも、貼る場所はわたしが決めたかった」。リナが言ったことは、それの大人の版でした。作ったものは渡せても、使い方への発言権は、渡したくない。その境界線を、リナはまだ言葉にしきれていない。けれど、境界線があること自体は、もう確かに感じていた。
■「ちゃんと作った人の顔」——子供扱いから、作り手扱いへ
マルゲルダさんの最後の言葉「あんたは、ちゃんと作った人の顔をしている」。
前世の言葉でいうと、これは「作者性の承認」と呼べる種類の言葉でした。作ったものを評価する言葉はたくさんあります。「すごい」「便利だ」「役に立つ」。けれど、それらの言葉は「作ったもの」を評価していて、「作った人」を評価していない。マルゲルダさんが言ったのは、装置のことではなく、装置を作った人の顔のことでした。
その「ちゃんと作った人の顔」とは、何か。たぶん、自分の作ったものに責任を持つ顔。使われ方に発言権を持ちたいと願う顔。設計図を渡さないと言える顔。九歳のリナの顔の中に、マルゲルダさんはその種類の「作り手の顔」を見ていました。
嬉しいのか、怖いのか、よく分からなかった——その混乱は、子供扱いから作り手扱いへ移される時の、誰もが通る場所の感覚でした。「子供」のままでいられた方が楽だ、と思う気持ちと、「作り手」として認められて嬉しい、と思う気持ちが、同じ胸の中で隣り合っていた。
エルナさんが帰り際に見せた「何かを少し考えるような表情」も、たぶんこの「ちゃんと作った人の顔」と関係していました。祭司として見守ってきた村の子が、ある日、別の顔を持つようになる。エルナさんはそれを見届けながら、自分の中で何かを書き換えていた。次の話もお楽しみに。




