第81話 申し出
二週間ほど経った朝、マルゲルダさんはまた来た。
今度は手ぶらだった。
荷物がないということは、売りに来たのではなく、話しに来たのだと気付いた。
金の月の終わりが近づいていた。朝の風には、まだ夏の名残の強い陽射しが乗っていた。けれど、麦畑の脇では、刈り入れの段取りを話す村人の声が聞こえるようになっていた。
マルゲルダさんは、玄関の前に立って、馬を村の入り口の木に繋いでいた。荷馬車も連れていなかった。
「お父さん。マルゲルダさんが来た」
わたしが玄関の方を指差すと、父は工房の小さなねじを置いて、立ち上がった。
「うん」
それだけ言って、父はわたしの後ろから玄関に向かった。
◇◇◇
マルゲルダさんは、父を見ると、軽く頭を下げた。
「アルベルトさんですね。突然、すみません」
「いえ。話があると、娘から聞いています」
父が、いつもより少しだけ丁寧な口調で答えた。父は、見知らぬ大人と話すときは、いつもこういう話し方になる。それは、決まりが悪いというより、自分の立場をきちんと示そうとしている話し方だった。
「中で、お話しできますか」
「ええ」
父がマルゲルダさんを家の中に案内した。お母さんが台所からお湯を沸かしてくれた。木の食卓を囲んで、わたしと父とマルゲルダさんが座った。お母さんは、お茶を出してから、台所の方の椅子に少し離れて座った。何も言わずに、ただ、聞ける場所にいる。それが、お母さんの座り方だった。
◇◇◇
マルゲルダさんは、お茶を一口だけ飲んで、それからゆっくり話し始めた。
「先日、見せてもらった水門の装置。あれを、ハーラム町の商人ギルドに紹介したいんです」
(——商人ギルド)
頭の中で、その言葉が、ぴたりと止まった。
父も、何も言わずに、マルゲルダさんの顔を見ていた。
「わたしは、ヴェルデン村とハーラム町と近隣の村を回って、麦と布を運ぶ行商をしてます。商人ギルドにも、年に数回、顔を出します。あそこには、いろんな町や村の商人が出入りしてて、新しい技術を見たがる人もいます」
マルゲルダさんは、そこで一度、息を置いた。
「お嬢さんが作った装置は、ヴェルデン村でも——いや、もしかしたら町の麦畑でも、役に立つかもしれない。広く知られれば、村や町の暮らしが、少しずつ変わると思います」
父は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「町に持ち込む、というのは、どういうことですか」
(——え)
わたしは、父の問いを聞いて、少し驚いた。
父は、商人ギルドのことも、ハーラム町のことも、いつもの仕事で何度も耳にしているはずだった。けれど、父はあえて、それを「分からない」という前提で聞いていた。
(——お父さんは、確かめている)
(——マルゲルダさんが、どう答えるかを)
その気付きが、静かに胸に残った。
◇◇◇
マルゲルダさんは、父の問いに対して、何度か頷いてから答えた。
「いくつかの方法があります。一つは、装置の設計図を、わたしが商人ギルドに持っていく。設計図を見た商人たちが、自分の村や町で、似たものを作ろうとする。あるいは、設計図を見た職人が、お嬢さんの代わりに、新しい装置を作る」
「もう一つは」
「お嬢さんの装置そのものを、町まで運ぶ。実演会のような形で、町の人たちに見てもらう。これは、お嬢さんの装置の現物が、町まで動かなければならない」
「もう一つは」
「お嬢さんご本人が、町まで行く。装置を見せて、説明する。これは、お嬢さんの時間と、家族の同意が要る」
マルゲルダさんは、それぞれの選択肢を、丁寧に並べてくれた。
無理に勧めるような口調ではなかった。ただ、「こういう道がある」と、目の前に並べてくれているだけだった。
父は、しばらく黙ってから、軽く頷いた。
「考えさせてください」
「もちろんです」
「リナ、おまえも、考えるか」
父が、わたしの方を向いた。
「うん。考える」
「分かった」
父は、それだけ言って、お茶をもう一口飲んだ。
◇◇◇
マルゲルダさんは、それから十日ほど後にもう一度来ると言って、馬を引いて帰っていった。
お母さんが、お茶の椀を片付けながら、ぽつりと言った。
「すごい話ね」
「うん」
「町の商人ギルドって、わたしも一度しか行ったことないわ。麦を売りに、何年か前に、お父さんとヨハンを連れて」
父が、椀を運ぶお母さんの背中越しに、軽く頷いた。
「あそこは、いろんな人がいる場所だ。リナが行くなら、わたしも、お父さんも、一緒に行かないとね」
お母さんがそう言って、お茶の椀を台所に運んでいった。
「リナ」
父が、わたしの方を見て言った。
「考えとけ。でも、急ぐな」
「うん」
「お前が、これからしばらく、考えることが多くなるだろう」
父がそう言って、立ち上がって、工房に戻っていった。
(——お父さん、何も決めなかった)
(——でも、「考えとけ」「急ぐな」と言ってくれた)
(——わたしが、自分で決めることを、お父さんは、待ってくれている)
胸の奥に、また温かい何かが残った。
◇◇◇
夕飯の後、わたしは屋根裏に上がった。
机の上に、ヨハンへの返事を書こうとして、紙とペンを置いた。
前回の手紙からの返事は、すでに送ってある。けれど、マルゲルダさんのことを、ヨハンに早めに知らせておきたかった。
ヨハンは、町の市場で、マルゲルダさんと先に会っている。
わたしより、ヨハンの方がマルゲルダさんの人柄を、もしかしたらよく知っているかもしれない。
ペンを取って、紙の上に向かった。
「お兄ちゃんへ」
そこまで書いて、ペンが止まった。
(——マルゲルダさんが来た、と書こう)
(——そして、商人ギルドに紹介したい、と言われた、と書こう)
(——お兄ちゃんは、あの人を、どんな人だと思った?)
(——わたしは、どうしたらいい?)
頭の中で、書きたい言葉が、次々と立ち上がっていた。
けれど、どれも、紙の上にうまく落ちなかった。
——お兄ちゃんに、相談したい。
——でも、相談したい中身が、まだ、わたしの中で形になっていない。
ペンを持ったまま、わたしは天井を見上げた。
◇◇◇
頭の中で、マルゲルダさんの言葉を、もう一度並べてみた。
——設計図を、商人ギルドに持っていく。
——お嬢さんの装置そのものを、町まで運ぶ。
——お嬢さんご本人が、町まで行く。
三つの選択肢。
そのどれを選んでも、わたしの作ったものが、わたしの知らない人の手に渡ることになる。
(——あ)
頭の中で、別の問いが立ち上がった。
(——わたしが作ったものを、他の人が「使う」ということは、どういうことだろう)
(——わたしのいないところで、わたしの作ったものが、動き続ける。それは、わたしにとって、どう感じることだろう)
頭の中で、その問いを置いてみた。
すぐには、答えが出てこなかった。
ただ、その問いを置いた瞬間、胸の奥で、別の感覚が立ち上がった。
(——使われ方を、決めるのは、誰なんだろう)
(——わたしが作ったものでも、使うのは、別の人だ)
(——その人たちが、どう使うかを、わたしは、どこまで決められるんだろう)
頭の中で、その問いが、ぐるぐる回り始めた。
答えは、出てこなかった。けれどわたしは、その問いをちゃんと「問い」として置いておくことだけは、できた。
——以前のわたしなら、答えが出るまで、ずっと屋根裏で考え続けたかもしれない。
——でも、今は違う。
——分からないことは、分からないまま、しばらく置いておいてもいい。
バルドゥス爺さんの「下に置く」という言葉が、頭の中で、もう一度よみがえった。
◇◇◇
ペンを置いた。
紙の上には、「お兄ちゃんへ」の六文字だけが残っていた。
わたしは、その紙を、机の隅に丁寧に折り畳んで置いた。
(——今夜は、書けない)
(——もう少し、考えてから書こう)
それは、半年前のわたしなら、決して取らなかった選択だった。
書けないなら、書けるまで、屋根裏で粘っていただろう。
けれど、今のわたしは、紙を畳んで置けるようになっていた。
ノラの寝息が、隣で規則正しく繰り返されていた。
窓の外には、金の月の終わりの夜の風が、静かに流れていた。
屋根裏で手紙の紙を前にして、一行も書けなかった。
それでも、書けないことが、怖くなくなっていた。
■あとがき・解説
第81話は、マルゲルダさんが二週間後に再訪し、ハーラム町の商人ギルドへ装置を紹介したいと申し出る回でした。三つの選択肢——設計図を渡す/装置を運ぶ/リナ自身が町に行く。父の「考えとけ。でも、急ぐな」という短い許し。そして屋根裏でヨハンへの手紙が一行も書けなかった夜。今回は、その「答えが出ないことを置いておく」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「選択肢を並べる」——決めさせるのではなく、見せる
マルゲルダさんが「いくつかの方法があります」と前置きしてから、設計図/装置/本人の三つを丁寧に並べた場面。
前世の言葉でいうと、これは「選択肢の提示」と呼ばれる種類の話の進め方でした。何かを売り込みたい時、人はたいてい一つの案を強く推したくなります。「これがいちばんいいです、これにしましょう」という形。けれど、その押し方は、相手の側に「断る/受ける」の二択しか残しません。マルゲルダさんは違いました。「こういう道がある」「もう一つ、こういう道もある」「さらに、こういう道もある」と並べて、それぞれの中身を簡潔に説明して、それから手を引いた。
無理に勧めるような口調ではなかった、というリナの観察は、商人としてのマルゲルダさんの慎重さでもありました。相手に選ばせるためには、相手の側に「選ぶ材料」を全部渡しておかなければならない。一つに絞ると、その瞬間に話は「押し売り」に近づいてしまう。マルゲルダさんが三つ並べたのは、リナと父に「自分たちで選んでほしい」という意思の表明でもありました。
■「父の検証」——分かっているはずのことを、あえて聞く
父が「町に持ち込む、というのは、どういうことですか」とマルゲルダさんに問うた場面。父は商人ギルドのことも、ハーラム町のことも、いつもの仕事で何度も耳にしていたはずです。
前世の言葉でいうと、これは「相手の答え方を確かめる」種類の質問でした。自分の知っていることをあえて知らないふりで聞いて、相手がどう答えるかを観察する。答えの中身そのものより、答え方の中に「この人は誠実か」「この人は隠さずに話す人か」を読み取る。父は時計師として、町の商人と何度も取り引きしてきた人でした。商人の言葉の中の真摯さと、商売っ気と、抜け道の作り方を、長い経験で読み分ける目を持っていた。
「お父さんは、確かめている」というリナの気付きは、その父の流儀に初めて気付いた瞬間でした。父はマルゲルダさんを試していたわけではない。ただ、これからリナの仕事を預けるかもしれない相手の答え方を、自分の耳で確かめておきたかった。
■「使い方を決めるのは誰か」——答えの出ない問いを、問いのまま置く
屋根裏でリナが頭の中に置いた問い——「わたしが作ったものを、他の人が『使う』ということは、どういうことだろう」「使われ方を、決めるのは、誰なんだろう」。
前世の言葉でいうと、これは何百年も前から人類が答えを出せずに考え続けてきた問いの、いちばん素朴な入り口でした。誰かが作ったものを、別の誰かが使う。使う側は、作った人の意図通りに使うとは限らない。むしろ、たいていは違う使い方をする。それは悪いことなのか、自然なことなのか。作った人は、どこまで使い方に口出ししていいのか。
リナはこの晩、この問いの答えを出せませんでした。答えが出ないことは、不思議ではありません。答えが出ないからこそ、屋根裏で何度も繰り返し考えることになる。けれどリナは「以前のわたしなら、答えが出るまで、ずっと屋根裏で考え続けたかもしれない」と気付き、「でも、今は違う」と続けました。
■「分からないまま、置いておく」——粘らずに、降ろす
ペンを置いて、紙を畳んで、机の隅に置く。「今夜は、書けない」「もう少し、考えてから書こう」。
前世の言葉でいうと、これは「保留」という形の判断でした。書けないなら書けるまで粘るのが、半年前のリナの流儀でした。けれど今夜のリナは、書けないことを「書けない」と認めて、そのまま降ろした。バルドゥス爺さんの「下に置く」という言葉が、ここで実装された形になりました。
決めないことを決める。書かないことを選ぶ。問いを問いのまま置いておく。それは、答えが見えない時の最も成熟した一手であり、九歳のリナが少しずつ身につけてきた「自分の手綱の取り方」でもありました。
書けないことが、怖くなくなっていた。
その一文が、屋根裏の蝋燭の灯りの下で、静かに置かれていました。マルゲルダさんの申し出は、これからリナの中で時間をかけてゆっくり熟成していきます。次の話もお楽しみに。




