第80話 隣村の目
ぜんまいが回る音だけが、水路の脇で規則正しく響いていた。
金の月の十三日。麦の刈り入れ前の乾いた風が、北の水路を渡っていた。金の月は実りの色が深まる三十日間で、村の人たちが「穂が黄金に染まる月だ」と笑う季節でもあった。その三十日が、もう半ばに差し掛かろうとしていた。夏の名残の強い日差しはまだ残っていた。けれど、朝の風には、わずかに別の匂いが混じっていた。乾いた穂の匂いだった。
タール爺さんの隣で、わたしは装置の動きをしばらく見ていた。
ぜんまいの軸が、規則正しく回っている。水門の縄が、時刻に応じて、ゆっくり巻き上げられたり下ろされたりしている。
「ちゃんと、動いとる」
爺さんが言った。
「うん」
「お前さんが、また見に来てくれて、装置も嬉しかろう」
爺さんがそう言って、軽く笑った。
わたしも、つられて、少しだけ笑った。
◇◇◇
水路の上流の方から、馬の蹄の音が聞こえてきた。
タール爺さんが顔を上げて、その方向を見た。
わたしも、目を細めた。
土の道を、一頭の馬が、ゆっくり歩いてくるのが見えた。馬の隣には、肩幅の広い、背の高い女の人が立って、馬を引いていた。
(——あ)
頭の中で、何かが小さく動いた。
「タール、よお」
女の人が、距離を縮めながら、爺さんに声をかけた。爺さんもよく知っている人らしい。
「マルゲルダか。久しぶりじゃの」
(——え)
頭の中で、その名前が、ぴたりと止まった。
(——マルゲルダ?)
(——お兄ちゃんの手紙に書いてあった、あの名前?)
胸の奥で、心臓が一度、小さく跳ねた。
◇◇◇
マルゲルダさんはわたしの隣まで来ると、まずタール爺さんの方を向いて軽く頭を下げた。
「水門、見せてもらってもいいかね」
「ああ、もちろん」
タール爺さんが、自然にマルゲルダさんを装置の前まで案内した。
マルゲルダさんは、装置の前で立ち止まると、長い間、何も言わなかった。
腕を組んで、装置の動きをじっと見ている。
ぜんまいが回る音。
歯車が嚙み合う音。
縄が巻き上げられる音。
それらを、マルゲルダさんは、一つずつ、確かめるように聞いていた。
しばらくして、マルゲルダさんが、ゆっくりタール爺さんの方に向き直った。
「これは、誰が作った」
声は、低くて、まっすぐな声だった。
責めているわけでも、驚いているわけでもなかった。ただ、純粋に、答えが欲しいという声だった。
「村の子だよ」
タール爺さんが、わたしの方を指差した。
マルゲルダさんが、わたしを見た。
目が細くなった。
それは、笑った時に細くなる目とは、少し違う細まり方だった。
何かを評価する人の目だった。
「あんたが?」
「……はい」
わたしは、軽く頷いた。
◇◇◇
マルゲルダさんは、もう一度装置の方を向いて、しばらく見ていた。
それから、わたしの方に振り向いて、ゆっくり言った。
「あんたが、設計した?」
「はい」
それだけ答えた。
言葉を増やそうとしたけれど、何を増やせばいいか、瞬時には分からなかった。
マルゲルダさんは、また、しばらく黙った。
「歯車の組み方は、ハーラム町の時計師の手と似とるな」
「……お父さんが、時計師です」
「ああ。そうか」
マルゲルダさんは、軽く頷いた。
「設計は、あんた。組み立ては、父親と二人。そんなところか」
「うん。それと、グスタフ親方も」
「グスタフ、というと、村の鍛冶屋か」
「はい」
「あの腕の親方を、子供の発明に巻き込んだのか」
(——え)
頭の中で、何かが小さく止まった。
マルゲルダさんは、責めているわけではなかった。ただ、感心しているような、それでいて、もう一歩踏み込んだ何かを確かめようとしているような声だった。
「えっと、巻き込んだ、というか——」
「いや、いい」
マルゲルダさんが、軽く手を上げた。
「あんたがその親方を呼んだのか、親方が自分から関わったのか。それは、後で聞く。先に、もう少しこの装置を見せてもらう」
そう言って、マルゲルダさんは、また装置の方を向いた。
◇◇◇
しばらくして、マルゲルダさんが、装置の前から離れた。
「タール」
「ん」
「水門は、ちゃんと動いとるな」
「ああ。リナ嬢ちゃんが作って以来、一度も止まっとらん」
「お前は、楽になったか」
「楽になった。ずいぶんとな」
爺さんが、軽く微笑んだ。
マルゲルダさんは、それを聞いて、何度か頷いた。
それから、わたしの方を向いた。
「あんた、名前は」
「リナです」
「リナ嬢ちゃん」
「はい」
「ハーラム町に、行ったことはあるか」
「ありません」
「そうか」
マルゲルダさんが、しばらく考えた。
それから、ゆっくり言った。
「これは、もっと大きな場所で、もっと多くの人が見るべき仕掛けだと思う」
(——大きな場所)
頭の中で、その言葉が、ゆっくり広がった。
「あんたの作ったもんを、村の外の人たちにも、見てもらう価値がある」
「えっと——」
「いや、今すぐ何かを決めろ、と言ってるんじゃないよ」
マルゲルダさんが、軽く手を振った。
「ただ、わたしが感じたことを、伝えておきたかったんだ」
そう言って、マルゲルダさんは、軽く頭を下げた。
「近いうちに、もう一度、来てもいいかね」
「えっと、はい。たぶん、大丈夫です」
「お父さんにも、会わせてもらえると、ありがたい」
「うん」
マルゲルダさんはそれだけ言って、馬を引いて南の道へ歩いていった。
タール爺さんとわたしは、その後ろ姿を、しばらく見ていた。
◇◇◇
「リナ嬢ちゃん」
タール爺さんが、わたしの方を見ないで、静かに言った。
「あの女は、隣村のヴェルデン村の行商人じゃ」
「うん」
「ハーラム町まで、麦や布を運んでる商売をしとる」
「うん」
「あの女が、ああいうふうに言ってくれることは、めったにない」
爺さんが、軽く頷いた。
「お前さんの作ったもんが、村の外の人の目にも、しっかり映ったということじゃ」
(——うん)
(——お兄ちゃんの手紙に書いてあった通りの人だった)
(——マルゲルダさん、本当に、わたしに会いに来た)
胸の奥で、温かい何かと、別の何かが、同時にざわついていた。
温かい方は、嬉しさだった。
別の方は——うまく言葉にできなかった。
それは何か新しいものが、これから始まるかもしれない、という予感だった。
◇◇◇
家に戻ると、わたしはすぐに父の工房に行った。
「お父さん」
「ん」
「あの、隣村の行商人、マルゲルダさんっていう人が、村に来てる」
父が、ねじを置いて、わたしの方を見た。
「ヨハンの手紙に書いてあった人だな」
「うん」
「今日、会ったか」
「うん。水路の前で。タール爺さんと一緒にいるとき」
父が、軽く頷いた。
「近いうちに、また来るって」
「お前を訪ねて?」
「うん。お父さんにも、会いたいって」
父が、しばらく考えてから、短く言った。
「分かった」
それだけだった。
(——お父さん、何も聞かなかった)
(——「どんな人だ」とも、「何の用だ」とも、聞かなかった)
(——ただ、「分かった」とだけ言った)
胸の奥に、また別の温かさが残った。
父は、わたしが「近いうちに、また来る」と言ったことに、すぐに同意した。
それは父がわたしを信用してくれている、という事実のいつもの形だった。
◇◇◇
その夜、屋根裏で、わたしは天井を見上げていた。
ノラの寝息が、規則正しく繰り返されている。
金の月の半ばの風が、屋根を撫でていた。
頭の中で、マルゲルダさんの言葉を、もう一度なぞり直した。
——もっと大きな場所で、もっと多くの人が見るべき仕掛けだ。
その言葉は、頭から離れなかった。
ハーラム町。
それより遠い場所。
わたしの作ったものが、村の外の見たことのない場所でどうなるのか。
(——わたしはまだ、自分の作ったものがどこまで広がるのかを、ちゃんと考えていない)
(——でも、マルゲルダさんは、それを考えている)
胸の奥で、何かが、ゆっくり動き始めた。
それはこれまでの、家族や村の中での「小さな発明の喜び」とは別の種類の何かだった。
怖い、というほどではなかった。
ただ、これまでとは違う種類の何かが、向こうから近づいてきていた。
——もっと大きな場所で、もっと多くの人が見るべき仕掛けだ。
その言葉が、頭から離れなかった。
■あとがき・解説
第80話は、自動灌漑装置の見回りに来ていたリナとタール爺さんの前に、隣村ヴェルデン村の行商人マルゲルダさんが姿を見せる回でした。「これは、もっと大きな場所で、もっと多くの人が見るべき仕掛けだ」という、村の外側から来た最初の評価。今回は、その「外部の目」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「外部評価」——身内ではない人の目に、初めて触れる
マルゲルダさんが装置の前で長い時間立ち止まって、ぜんまいの音と歯車の音と縄の音を一つずつ確かめるように聞いていた場面。
前世の言葉でいうと、リナがこの日に初めて受けたのは「外部評価」と呼ばれる種類の視線でした。家族や村の人たちの「身内の評価」は、ずっと前から受けていました。バルツさんの厳しい目も含めて、それらはすべて「村の中の論理」で動く評価でした。けれど隣村から来たマルゲルダさんが装置を見る目は、村の論理とは別の論理で動いていた。「ハーラム町まで運べる商品になり得るか」「他の村でも欲しがる人が出るか」——そういう、村の外で生きてきた人の物差しが、装置に当てられた瞬間でした。
「歯車の組み方は、ハーラム町の時計師の手と似とるな」というマルゲルダさんの一言は、その物差しの精度の高さを示していました。父の仕事の系譜を一目で見抜く目は、村の人にはないものでした。
■「発明者として認識される」——「子供の遊び」とは別の枠で
「あんたが、設計した?」とマルゲルダさんがリナに正面から問うた場面。
前世の言葉でいうと、これはリナが初めて「発明者」として正面から認識された瞬間でした。村の人たちはリナのことを「賢い子」「不思議な子」として可愛がってくれていました。けれどそれは「子供のすごさ」の枠でした。「子供がすごいことをしている」というのは「すごい子供」のままです。マルゲルダさんの目は、リナを「子供」の枠から外して、「装置を設計した人」として見ていました。
子供から大人への扱いの変化は、たいてい誰かの一言から始まります。マルゲルダさんの「あんたが、設計した?」は、その最初の一言でした。リナの口から「はい」と短く返事が出たとき、リナ自身がまだ自分でも気付いていないところで、別の枠の中に立たされていた。
■「広がりの予感」——自分の作ったものが、知らない場所に届く
「これは、もっと大きな場所で、もっと多くの人が見るべき仕掛けだと思う」というマルゲルダさんの言葉。
前世の言葉でいうと、これは「広がりの予感」を伝える台詞でした。これまでリナの作ったものは、家族・工房・村の中で循環してきた小さな仕組みでした。手の届く範囲で動き、手の届く範囲で評価され、手の届く範囲で直されてきた。けれど、マルゲルダさんが見ているのは、もっと遠い場所にある「リナの作ったものの、行き先」でした。
ハーラム町。
もっと遠い場所。
リナが見たことのない場所。
その場所で、リナの作ったものが、どう扱われるのか。誰の手に渡るのか。どう動かされるのか。リナはまだ、そこまで考えていない。けれど、マルゲルダさんはすでに考えている。屋根裏で天井を見上げながら胸の奥に立ち上がった「これまでとは違う種類の何か」は、その「考えていなかったことを、外側から問われた」という戸惑いでもありました。
■「沈黙の同意」——何も聞かずに「分かった」と言う
「近いうちに、また来るって」と伝えたリナに、父が「どんな人だ」とも「何の用だ」とも聞かずに、「分かった」とだけ言った場面。
前世の言葉でいうと、これは「沈黙の同意」と呼べる種類の信頼の形でした。子供が外から知らない人を連れ込もうとしている時、たいていの親は「どんな人だ」「何の用だ」と先回りで確かめます。父は確かめなかった。それは「リナの選んだ相手なら、まず会ってみればいい」という、娘の判断への信頼の表明でもありました。
「分かった」の一言が、リナの胸の奥に残る種類の温かさを残したのは、その短さの中に、確かめないでいてくれた父の沈黙が乗っていたからでした。
——もっと大きな場所で、もっと多くの人が見るべき仕掛けだ。
その言葉が頭から離れないまま、リナの中で何かが静かに動き始めました。これは始まりの回です。これまでの「家族と村の中の発明」とは違う、別の物語が、ここから走り出していきます。次の話もお楽しみに。




