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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑤「旅立ちと、抱えこみ」

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第79話 それが、次の話だ

エマが台所に立っていた。


わたしは、台所の入り口に立ったまま、少し迷ってから声を出した。


「お母さん。昨日の夜、ちゃんと寝た」


エマが、お粥の鍋から目を上げて、わたしを見た。

それから、ゆっくり微笑んだ。


「知ってる」


「えっ」


「あなたが屋根裏で寝息を立てる時間が、ちゃんと早くなってたわ。ここ三日くらい」


エマがそう言って、また鍋に視線を戻した。


(——お母さん、気付いてた)


頭の中で、その事実が、ゆっくり置かれた。

わたしが「ちゃんと寝た」と自分から言うより、ずっと前から、エマはわたしの寝息の時間を確かめていた。


「お母さん」


「うん?」


「わたし、言えるようになったかもしれない」


エマが、もう一度顔を上げて、わたしを見た。

それから、何度か瞬きをした。


「うん。あなた、言えるようになったのね」


(——あ)


胸の奥で、何かが小さく揺れた。

それは温かい揺れだった。怖いものではなくて、ちゃんと前に進んだ感じの揺れだった。


エマはそれ以上、何も聞かなかった。

ただ、「お粥、できたから席についてね」と言って、椀を二つ取り出した。


◇◇◇


午後、わたしは父の工房に行った。


父はいつもの場所で、鐘時計の小さなねじを磨いていた。

わたしが入ってくると、顔を上げないままで、軽く頷いた。


「お父さん」


「ん」


「明日、頼まれた井戸の話、断ろうと思ってる」


父が、ねじを置いて、わたしの方を見た。

何かを言うかと思ったけれど、何も言わなかった。


「あの、ハンスさんの井戸の汲み上げの話、まだ、進んでない。たぶん、しばらく進まない」


「うん」


「ハンスさんに、そう言いに行こうと思う。『今は、できません』って」


「断ってもいいんだな?」


(——え)


その確認は、父からの試しではなかった。

父は、わたしが本当に断る覚悟があるかをわたし自身に確かめさせるための、短い問いだった。


「うん。断る」


父が、軽く頷いた。


「分かった」


それだけ言って、父はまたねじに視線を戻した。


(——お父さん、何も付け加えなかった)


頭の中で、その事実が、ゆっくり広がった。

「気をつけろよ」とも、「ちゃんと謝れよ」とも、何も言わなかった。

「断る」と決めたわたしを、ただ、そのまま受け取ってくれた。


胸の奥で、温かさが、また一つ立ち上がった。


◇◇◇


夕方、旅商人が村の南の辻にやってきた。


エマがわたしを呼んで、「ヨハンからの手紙、来てるわよ」と言った。

わたしは台所に降りていった。


手紙の封を、エマが開けた。ノラもエマの膝の上に座って、紙の文字を指でなぞる準備をしていた。


エマが、手紙を太陽の方に向けてから、読み始めた。


「父さん、母さん、リナ、ノラ。元気にしてます」


その一文だけで、ノラが「ねぇね、お兄ちゃんから」と嬉しそうに言った。

わたしも軽く頷いた。


エマが続きを読んだ。


「陽の月に入って、町の市場が賑やかになってます。麦の刈り入れ前で、商人たちが大忙し。荷馬車が次々と入ってきて、宿の前まで荷物の山ができてます」


ノラがエマの肩に頭をくっつけて、聞いていた。


「自警団の訓練は、相変わらず厳しいけど、最近は剣の振り方が、少しずつ身体に馴染んできた気がします。先輩たちも、最初に比べると、笑ってくれるようになりました」


エマが、軽く笑った。


「リナへ。この前の手紙で書いた、町の道具屋の珠盤の話、覚えているか。あれの続きなんだけど」


(——え)


頭の中で、心臓が、また小さく跳ねた。


「町の市場に、別の人が来てた。隣村のヴェルデン村から来た行商人らしい。四十くらいの背の高い女の人で、麦と布を売っていた」


(——別の人)


「その人が、誰かと話してて、リナの作った水門の話をしてた。『北の麦畑が、水の心配なく実るようになった』って」


「えっと——」


「俺、思わず、声をかけたんだ。『その水門、俺の妹が作ったやつかもしれない』って」


ノラがエマの肩から顔を上げて、わたしを見た。

わたしも、エマも、ノラも、紙の上の文字に集中していた。


「その人が、目を細めて、しばらく俺を見て、それから言った。『あなたが、あの子のお兄さん?』って」


胸の奥で、何かがゆっくり立ち上がっていた。


「俺は『うん』って答えた。その人は『そう』とだけ言って、いろんなことを聞いてきた。リナはどんな子か、いつから機械を作っているか、家族はどんな人たちか」


エマが、軽く眉を上げた。


「俺は、知ってる範囲で答えた。家族のことは、嘘も誇張もせずに、ありのままを話した。リナのことは——うまく言葉にできなかったから、『不思議な妹』とだけ言った」


「お兄ちゃん」


ノラが小さく呟いた。


エマが続きを読んだ。


「その人は、最後にこう言った。『その妹さんに、いつか会いに行きたい』って。それから、自分の名前を教えてくれた。マルゲルダ、というらしい。マルゲルダさんは『青の月のうちに、隣村から、お兄さんの妹さんの作った装置を見に行った』とも言ってた。覚えとくといいかもしれない」


(——マルゲルダ)


頭の中で、その名前が、ぴたりと置かれた。

聞き覚えのない名前だった。

けれど、なぜか、その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軽く震えた気がした。


(——わたしのことを、誰かが、村の外で話していた)


(——その人が、わたしに会いに来るかもしれない)


エマが、手紙の最後を読んだ。


「ノラに、よろしく。父さんと母さんにも、いつもありがとう。リナ、お前の作るものを町から見てる、という約束は今も覚えてる。次の手紙、待ってる。ヨハン」


エマが手紙を畳んで、わたしに差し出してくれた。

わたしは、手紙を受け取って、もう一度、ヨハンが書いた最後の方の一節を目で追った。


——マルゲルダ。


その五文字を、わたしは、しばらく見ていた。


◇◇◇


夜、わたしは屋根裏の窓から、陽の月の終わりの夕暮れを見ていた。


夕暮れが、陽の月の橙色をしていた。

村の南の麦畑が、その色を受けて、金色に光って見えた。


ノラはもう寝床で眠っていた。

階下からは、エマと父の低い話し声が、かすかに聞こえていた。

父が「明日、ハンスさんのところに、リナと一緒に行く」と言っているような気がした。


机の上には、ヨハンの手紙が広げられていた。


——マルゲルダ。


その名前を、もう一度、紙の上に指で書いてみた。

書きながら、頭の中で、いくつかのことを整理した。


(——お兄ちゃんが旅立ってから、もう四月あまりが過ぎた)


(——その間、わたしは村の中でいろんなものを作って、いろんな人と話した)


(——そして、わたしの作ったものが、わたしの知らないところで、知らない人の口に上っていた)


(——隣村の行商人が、わたしの装置を見に来ていた)


(——その人が、いつか、わたしに会いに来るかもしれない)


頭の中で、その事実が、ゆっくり広がっていった。

怖い、という感覚はなかった。

ただ、これまでとは違う種類のことが、これから始まる気がした。


(——お兄ちゃんが出ていった萌の月に、わたしは「村の外」を、遠いものとして考えていた)


(——今、陽の月の終わりに、村の外がもう少し近くなった気がする)


胸の奥で、別の熱が静かに立ち上がった。

それは前世の「あと一つだけ」の熱とは、違う種類の熱だった。

何かを完成させなくてはいけない、という強迫からではなくて、何かが向こうから近づいてくる、という静かな期待からの熱だった。


(——あの熱が消えたわけではない。でも、今は、手を伸ばせば誰かがいる)


(——今度は、一人じゃない)


(——お母さんとお父さんが見ていてくれる)


(——バルドゥス爺さんとグスタフ親方が、隣にいてくれる)


(——お兄ちゃんが、町から見てくれている)


(——ノラとレオが、いつも待っていてくれる)


頭の中で、その人たちの顔が、一人ずつ並んだ。

それからわたしは、机の上の手紙を一度、両手で持ち上げた。


——マルゲルダ。


その名前は、まだ、顔を持っていなかった。

けれどわたしは、その名前にちゃんと向き合う準備が少しずつできていた。


陽の月の終わりの夕暮れが、机の上を、ゆっくりと橙色に染めていた。

村の北の水路では、今日も、わたしの作った機械が動いているはずだった。


ヨハンの手紙に書かれていた名前を、もう一度読んだ。


——マルゲルダ。


次は、そっちの話だ。


■あとがき・解説


第79話は、リナがエマに「昨日の夜、ちゃんと寝た」と自分から告げ、父に「ハンスさんの井戸の話、断ろうと思ってる」と申し出て、ヨハンの手紙から「マルゲルダ」という名前を初めて受け取った回でした。サブアーク 1-C の閉じ目であり、次のサブアーク 1-D への接続が静かに置かれる話です。今回はその「区切りと予兆」について、少し長めに書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「あなたが屋根裏で寝息を立てる時間が、ちゃんと早くなってたわ」——母の、もう一つの観察網


朝の台所で、エマが何気なく告げた一言。


前世の言葉でいうと、これは「言葉に出ない観察の、長期計測」でした。エマは、リナが自分から「ちゃんと寝た」と告げる前から、ここ三日ほど、リナの寝息の時間が早くなっていたことを確かめていました。


母の観察網の細かさは、これまでにも何度か描かれてきましたが、今回はその精度が最も鮮明に出ました。エマはリナの顔色を見る。手の指の赤みを見る。屋根裏から聞こえる寝息の時間を測る。そのどれもが、エマの中では一つの連続した観察の網を作っていた。


リナが「お母さん、わたし、言えるようになったかもしれない」と告げたとき、エマは「うん。あなた、言えるようになったのね」とそのまま受け止めてくれます。そこには「やっと言えたのね」も「もっと早く言えばよかったのに」もありません。リナが自分のタイミングで自分から言えた、という事実だけを、ちゃんと祝ってくれる返し方でした。


胸の奥で揺れた「ちゃんと前に進んだ感じの揺れ」は、たぶんリナにとってこの数ヶ月で初めて感じた、安全な揺れでした。


■「断ってもいいんだな?」——父の、最後の確認


工房で「ハンスさんの井戸の話、断ろうと思ってる」と告げたリナに対する、父の短い問い。


前世の言葉でいうと、これは「決断の自己確認のための鏡」でした。父はリナを試したわけではありません。「ちゃんと断れるか」を確かめたわけでもありません。父の問いは、リナが本当に「断る」を選んだのかを、リナ自身の口でもう一度確かめさせるための、最短の問いでした。


「断ってもいいんだな?」と「うん。断る」の往復の中で、リナの中で決断が二度確定します。一度目は自分の中で。二度目は父の前で声に出して。二度目の確定が、決断を本物にしてくれる。父の流儀は、ここでも「最短で必要なだけ手を伸ばす」の精度で動いていました。


「分かった」とだけ告げて、また小さなねじに視線を戻した父。気をつけろよ、とも、ちゃんと謝れよ、とも、何も付け加えなかった。リナが下した決断を、そのまま受け取って、後の評価を加えない。父の信頼は、いつも追加の言葉を持たないことで一番強く伝わってきました。


胸の奥で立ち上がった温かさは、たぶん「許してもらえた温かさ」ではなく、「対等に扱ってもらえた温かさ」でした。父が娘の決断を、娘の決断として尊重してくれたことの確認。


■「マルゲルダ」——村の外から、こちらを向いていた名前


ヨハンの手紙の中で初めて出てきた、隣村の行商人の名前。


前世の言葉でいうと、これは「観察の方向の反転」でした。これまで、リナの作るものは「家から外へ」「村から外へ」と広がっていく方向で描かれてきました。けれどヨハンの手紙の中のマルゲルダさんは、その逆向きから動いていた。隣村ヴェルデン村から、青の月のうちに、わざわざリナの装置を見に来ていた。


「あなたが、あの子のお兄さん?」とヨハンに問いかけ、リナのことを「いろんなこと」を聞き、最後に「その妹さんに、いつか会いに行きたい」と告げた人。リナがまだ顔も知らない誰かが、村の外で、リナの輪郭を自分の中で組み立てていた。


リナの胸の奥で「軽く震えた」感覚は、たぶん怖さではありませんでした。「わたしのことを、誰かが、村の外で話していた」「その人が、わたしに会いに来るかもしれない」——これまで物語の中で、誰かが村の外からリナを目指して動いてくる、という方向は描かれてこなかった。マルゲルダさんは、そのいちばん最初の「逆向きの矢印」でした。


ヨハンが「不思議な妹」とだけ告げたという描写。十四歳の少年が、自分なりに妹をいちばん簡素な日本語で守った、その表現の選び方の中に、兄の優しさが含まれています。


■「あの熱が消えたわけではない。でも、今は、手を伸ばせば誰かがいる」——前世の熱との、新しい距離


夕暮れの屋根裏で、机の上のヨハンの手紙を両手で持ち上げながら、リナが整理した感覚。


前世の言葉でいうと、これは「過去の癖との、共存の形」でした。前世の「あと一つだけ」の熱が、完全に消えたわけではない、とリナは認めます。第76話で立ち上がったあの強迫の声は、これからもまた立ち上がってくる可能性がある。けれど今は、立ち上がってきた時に手を伸ばせば、誰かがいてくれる。


母エマがいる。父アルベルトがいる。バルドゥス爺さんと、グスタフ親方が、隣にいる。ヨハンが、町から見ている。ノラとレオが、いつも待っていてくれる。前世のオフィスの中で「あと一つだけ」と呟いていた時には、隣に誰もいなかった。今は、隣に人がいる。


その人たちの顔が一人ずつ並んだ場面。リナは前世のリナを否定しません。前世の熱を「悪いもの」として切り捨てもしません。ただ、その熱の隣に、もう一つの選択肢が増えた、という事実を確認している。「今度は、一人じゃない」が、強迫の解毒剤として、ようやくリナの中で機能し始めた瞬間でもありました。


■「次は、そっちの話だ」——区切りの、次の方向


机の上のヨハンの手紙を、もう一度読み返した最後の一行。


前世の言葉でいうと、これは「物語の視点の更新」でした。サブアーク 1-C は、ヨハンの旅立ちから始まり、家族の不在の受け取り方、村の中での期待の集中、リナの中の強迫の発火、そして引き戻されるところまでを描いてきました。閉じ目の場所に置かれたのは、もう一度家族の物語ではなく、村の外から差し込んできた新しい矢印でした。


マルゲルダ。まだ顔のない名前。けれど、その名前にちゃんと向き合う準備が少しずつできていたリナ。陽の月の終わりの夕暮れが机の上を橙色に染めて、村の北の水路では今日もリナの作った機械が動いているはずだった。これまで積み上げてきたものが、これからも自分の足で立ち続けていく地盤の上で、リナは次の方向を見始めています。


なお、第71話の朝にヨハンがノラに約束した「祭礼の日には」「陽の月の終わりごろ」帰ってくる、という言葉の期日は、ちょうどこの第79話の頃にあたります。サブアーク 1-D の本格的な開幕は、その帰省を挟んだ先の話として描かれていきます。リナの胸の中にマルゲルダの名前が落ちたこの夕暮れの少し先に、丘の向こうから戻ってくる兄の影が、もう一度家族の食卓に置かれる予定でいます。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


第70話から第79話までの十話は、技術描写をほぼ全休にして、家族と村と、リナ自身の内側を真正面から描いてきました。サブアーク 1-B(兄の旅立ちまで)と 1-C(兄の不在と期待の重さ)を、急がずに厚みを持って通り切ることを優先したので、機械の組み立てよりも、台所と工房と屋根裏の空気が前面に出る話が続きました。それでも、村の北の水路では装置が動き続け、市場の道では村人がヨハンの名前を交わし、屋根裏の机の上には書きためた構想図が静かに積まれていきました。


これから、次のサブアーク 1-D で、マルゲルダさんとの出会いと、村の外から差し込んでくる視線の話が始まります。リナは九歳になり、家族に「言える」ようになり、断ることを覚え始めた九歳児として、その視線を受け止めていきます。次の話もお楽しみに。


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