第78話 引き戻す人たち
エマが「市場に行って」と声をかけてきたのは、朝の食卓だった。
断る理由は何もなかった。
それなのに、少し躊躇した自分に気付いた。
(——どうして、今、躊躇した?)
頭の中で、その問いを置いてから、わたしは「うん」と答えた。エマが軽く微笑んだ。
それから、すぐに気付いた。
エマの微笑みが、いつもの微笑みよりほんの少しだけ安心したような色をしていたのを。
(——お母さんは、わたしが断ると思ってたんだ)
胸の奥で、小さな何かが揺れた。
◇◇◇
中央広場まで歩く道で、ハンスさんとすれ違った。
ハンスさんは、陽の月の麦畑から戻ってきたところらしく、肩に鎌をかけて、麦の穂のかけらをいくつか靴に引っかけていた。
「リナ。エマさん」
「ハンスさん、お疲れさま」
エマが挨拶した。わたしも軽く頭を下げた。
——ハンスさんが、何か言いかけるだろう、と思った。
——「あの井戸の話、進んだか?」と、聞かれるだろう、と。
頭の中で、わたしは答えを用意していた。「まだです」「もう少し時間ください」「考えています」——どれを言うか、瞬時に並べていた。
けれど、ハンスさんは、何も言わなかった。
「いい天気ですな」
それだけ言って、軽く頭を下げて、また歩いていった。
わたしは、肩の力が抜けるような感覚を覚えた。
それと同時に、もう一つ、別の感覚が立ち上がった。
(——あの人は、急いでいるわけじゃなかった)
(——わたしが勝手に急がせていたのは、わたしの方だった)
息を一つ、長く吐いた。その事実が、ゆっくり身体に馴染んでいった。
◇◇◇
帰り道、バルドゥス爺さんの家の前を通った。
爺さんは、いつものように、家の前の小さな椅子に座っていた。麦の穂を撫でる風の音を聞いていたのだろう。手元には、皮を剥かれた小さな木の枝が置いてあった。
わたしが通り過ぎようとすると、爺さんが顔を上げた。
「リナ」
「バルドゥス爺さん」
エマが「先に行ってるわね」と小さく言って、麦畑の向こうへ歩いていった。
わたしと爺さんが、家の前に二人で残った。
爺さんが、わたしの顔をじっと見た。
それから、ゆっくり首を傾げた。
「大丈夫か」
「うん」
「大丈夫って言う人間が、一番大丈夫じゃない」
爺さんはそう言って、軽く笑った。
わたしは、何も言えなくなった。
「お前さん」
「うん」
「今、頭の中に、いくつのことを抱えとる?」
(——いくつ?)
頭の中で、わたしは数えた。
ハンスさんの井戸。
南の水溜まりの排水。
編み物道具。
東の畑の石垣。
それから、お兄ちゃんへの返事。
お兄ちゃんとの距離を縮める仕組み。
お父さんとお母さんに気付かれた何か。
「えっと——」
「数えとるな」
「うん」
「三つ以上なら、多すぎる」
爺さんが、それだけ言って、手元の木の枝を一本、選んで持ち上げた。
「人の頭はな、一度に三つくらいまでしか、ちゃんと持てん。それ以上になると、どれかを下に置く。下に置いたものが、本当に下に置けているか分からなくなって、ふっと足元に転がってくる。それで、つまずく」
爺さんが、そう言って、手元の木の枝で軽く地面を撫でた。
「お前さんは、何を下に置きたいんじゃ」
(——え)
頭の中で、その問いが、ぴたりと止まった。
「分からない」
「ふむ」
「全部、置きたくない」
「分かっとる」
爺さんはそれだけ言って、わたしの方を見ないで、続けた。
「だが、置かないと、お前さんの足元が、いつか滑る」
そのまま、爺さんは木の枝を地面の上に並べ始めた。
わたしは、しばらく爺さんの手元を見ていた。
何も答えられないまま、軽く頭を下げて、麦畑の方へ歩いた。
◇◇◇
午後、わたしはグスタフ親方の工房に行った。
ハンスさんの井戸の汲み上げ装置に使う部品の相談、というのが、わたしの中での今日の用事だった。けれど、グスタフの工房の扉を開けた瞬間、わたしは別のものを目にした。
工房の入り口に、注文書らしき紙が、束になって積まれていた。
「グスタフ親方」
「おう、嬢ちゃんか」
グスタフが、火床の前で、いつもの腰の重い動作で振り向いた。
「あれ、なんですか」
わたしが指差すと、グスタフが「ああ」と笑った。
「最近、注文が来すぎておるの」
「え?」
「お前さんが作ったもんが広まったから、な。『リナ嬢ちゃんと組んでる親方なら、何でも作れるんじゃないか』って、近隣の村からも声が来とる」
(——え)
頭の中で、その情報が、ゆっくり広がった。
「親方、それ——」
「全部受けるわけじゃないぞ」
グスタフが、わたしの言葉を遮るように言った。
「俺は来た注文を全部受けるわけじゃない」
「えっと」
「俺が良いと思ったもんだけ作る。それが、腕仕事の話だ」
グスタフが、火床の前に戻って、また鎚を振り始めた。
ガン、ガン、と鉄を打つ音が工房に響いた。
「お前さんも、同じだ」
「うん?」
「来た話を、全部受けるな。お前さんが『これは作りたい』と思ったもんだけ作れ。それが、お前さんの仕事だ」
(——親方、わたしのことを、知ってる)
頭の中で、その事実が、ゆっくり置かれた。
親方は、説教をする人ではなかった。指導をする人でもなかった。
ただ、自分の仕事の話をわたしの隣で言ってくれていた。
「親方」
「ん?」
「井戸の汲み上げ、まだ、お願いしてないです」
「そうだろうな」
グスタフが、少しだけ口の端を上げた。
「お前さんが『これを作りたい』と思った時に、声をかけてくれ。それまでは、俺もこっちの仕事をしとる」
「うん」
わたしは、軽く頭を下げて、工房を出た。
ガン、ガン、という鎚の音が、背中の後ろで続いていた。
◇◇◇
夜の食卓。父アルベルトが、粥を口に運びながら、わたしを見ないままで言った。
「リナ」
「うん?」
「この前、お前が眠れてないって、エマが言いに来た」
(——え)
わたしは、エマの方を見た。
エマは、自分のお粥の椀に視線を落としたまま、何も言わなかった。
父が続けた。
「お前が、自分から言いに来る前に」
父は、そこで一度、息を置いた。
「俺は、お前が言いに来るまで、待つ気はなかった」
(——あ)
胸の奥で、何かが小さく崩れた。
父が、わたしを見た。
「言えなかったのか、言う気がなかったのか」
その問いに、わたしは答えられなかった。
答えは、たぶん、両方だった。
言えなかったのと、言う気がなかったのが、混ざっていた。
そして、そのどちらも、わたし自身が、ちゃんと区別できていなかった。
「お父さん」
「うん」
「ごめんなさい」
父は、それには答えなかった。
ただ、また粥を口に運んだ。
エマが、わたしの方を見て、軽く頷いた。それは「謝らなくていい」という頷きではなくて、「言えるようになったね」という頷きだった。
◇◇◇
夜、わたしは屋根裏で、机に紙を広げていた。
頭の中で、バルドゥス爺さんの言葉を思い出した。
「お前さんは、何を下に置きたいんじゃ」
ペンを取った。
紙の上に、わたしが今頭の中で抱えていることを書き出してみた。
一、ハンスさんの井戸の汲み上げ装置。
二、南の水溜まりの排水。
三、——。
そこで、ペンが止まった。
三つ目に書こうとした何かが、急に思い出せなくなった。
(——あれ?)
頭の中で、わたしは三つ目を探した。
編み物道具の修理だっただろうか。
東の畑の石垣の排水だっただろうか。
お兄ちゃんとの距離を縮める仕組みだっただろうか。
どれも、頭の中では大きく感じていた。
けれど紙に書き出そうとした瞬間、どれもはっきりとは書けなかった。
(——あれ?)
(——本当に、三つもあったんだろうか)
紙に書き出してみると、「はっきり書けるもの」は、二つしかなかった。
残りの一つは——たぶん、頭の中で、勝手に大きくなっていただけだった。
(——頭の中で大きくなっていただけ)
その事実に気付いた瞬間、胸の奥で、何かが軽くなった気がした。
紙の上に書き出した二つの構想を、もう一度見た。
井戸の汲み上げ。
南の水溜まりの排水。
(——これだけで、いい)
(——他のものは、頭の中で大きくなっていただけだった)
蝋燭の火が、机の上で揺れた。
ノラの寝息が、隣で規則正しく繰り返されていた。
紙の上に書き出した二つの行を、わたしはしばらく見つめていた。
三つ目の空白は、思ったよりも、清々しい空白だった。
■あとがき・解説
第78話は、エマがもう一度「市場に行って」と誘い、すれ違うハンスさんが何も催促しないことに気付き、バルドゥス爺さんが「人の頭は一度に三つくらいまでしか持てん」と告げ、グスタフ親方が「俺は来た注文を全部受けるわけじゃない」と鎚を振り、父が「俺は、お前が言いに来るまで、待つ気はなかった」と告げてくれた回でした。四者がそれぞれの場所からリナを引き戻してくれる構造の話です。今回はその「引き戻す人たちの、別々の作法」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「躊躇した自分への、気付き」——きっかけはいつも、自分の中の小さなずれ
エマが「市場に行って」と声をかけたとき、リナが少し躊躇した瞬間。
前世の言葉でいうと、これは「いつもならしない応答に、自分で気付く」瞬間でした。普段のリナなら、母の用事に断る理由はありません。それなのに今朝は、ほんの少しだけ躊躇した。そして、躊躇した自分に気付いた。
この自己観察は、第77話のフラッシュバックの後で、リナの中に少しずつ立ち上がってきた新しい力でした。前世のリナはたぶん、こういう小さな違和感に気付かないまま、ずっと走り続けた人でした。今のリナは、その違和感に気付ける場所まで戻ってきている。
エマの微笑みが「いつもの微笑みよりほんの少しだけ安心したような色をしていた」とリナが感じ取った瞬間。エマもまた、リナが断るかもしれないと予測していた。母の予測の中に、自分の状態の鏡が映っている。その鏡を覗き込めた、というのが、リナの中の大きな前進でした。
■「あの人は、急いでいるわけじゃなかった」——勝手に急がせていたのは自分の方
中央広場までの道で、ハンスさんとすれ違って、井戸の話が出なかった場面。
前世の言葉でいうと、これは「期待の主体の取り違え」の修正でした。リナはこれまで「ハンスさんに次に会うときには、井戸の話を進めておかなくては」と思い続けていました。第76話で頭の中で「もう一つだけ構想しておけば」と考えた瞬間、その主語は「ハンスさんが期待しているから」のかたちを取っていた。
けれど実際にすれ違ったハンスさんは、何も催促しませんでした。「いい天気ですな」とだけ言って、軽く頭を下げて去っていった。ハンスさんは、自分が頼んだことを、自分のペースで待ってくれていた人でした。リナを急かしてはいなかった。
「あの人は、急いでいるわけじゃなかった」「わたしが勝手に急がせていたのは、わたしの方だった」——この気付きは、リナにとって決定的な瞬間でした。期待の重さは、外から押し付けられたものではなく、自分が勝手に「押し付けられている」と受け取って、自分の中で重く育ててしまっていた。長く息を吐けた一瞬は、その重さを少しだけ降ろせた一瞬でした。
■「三つ以上なら、多すぎる」——バルドゥス爺さんの、容量の言葉
家の前の椅子で麦の穂を撫でる風を聞いていた爺さんが、リナに渡してくれた一節。
前世の言葉でいうと、これは「ワーキングメモリの限界」の素朴な表現でした。爺さんが「人の頭は一度に三つくらいまでしか、ちゃんと持てん」と告げたとき、それは脳科学的な助言ではなく、長く生きてきた人の経験則でした。それ以上を抱えると、どれかが下に置かれて、いつか足元に転がって、つまずく。
爺さんの比喩のうまさは、「下に置く」という具体的な動作を選んだところにあります。捨てるのではなく、忘れるのでもなく、下に置く。下に置いたものは、いつでも拾い直せる。けれど下に置けば、今は持たなくて済む。「下に置く」という選択肢があることを、爺さんは九歳のリナにちゃんと示してくれました。
「お前さんは、何を下に置きたいんじゃ」「分からない」「うん」「全部、置きたくない」「分かっとる」——この短い往復の中で、リナは初めて「全部を抱え続けたい」という自分の願望を、口に出すことを許されました。爺さんは説教をしません。許可も与えない。ただ、足元が滑る前に、と短く告げて、地面の上に木の枝を並べ始めた。
■「俺は来た注文を全部受けるわけじゃない」——グスタフ親方の、職人の作法
工房の入り口に積まれた注文書の束を前に、グスタフが鎚を振りながら告げた一言。
前世の言葉でいうと、これは「職業倫理の中での選択権」でした。グスタフは「お前を心配している」とも「お前は受けすぎだ」とも言いません。代わりに、自分自身の話をします。「俺は来た注文を全部受けるわけじゃない」「俺が良いと思ったもんだけ作る」「それが、腕仕事の話だ」。
そして、その自分の作法を、リナに重ねて渡してくれます。「お前さんも、同じだ」「来た話を、全部受けるな」「お前さんが『これは作りたい』と思ったもんだけ作れ」「それが、お前さんの仕事だ」。
グスタフのうまさは、「断ること」を「悪いこと」ではなく「腕仕事の作法」として位置づけ直してくれた点にあります。断るのは利己ではなく、職業を保つために必要な選択。来た話の中から「作りたいもの」を選ぶことは、職人としての責任そのもの。リナはたぶん、「断る」を「相手を傷つけること」だと思い込んでいた。グスタフはその思い込みの外に、別の意味づけを置いてくれました。
ガン、ガンと続く鎚の音は、グスタフが自分の流儀の中で、いま現在進行形で「断る」を実践し続けている証拠でもありました。
■「お前が言いに来るまで、待つ気はなかった」——父アルベルトの、距離の更新
夜の食卓で、父が粥を口に運びながら、エマの方を見ないままで告げた一言。
前世の言葉でいうと、これは「介入の流儀の更新」でした。父はこれまで、リナの方から言いに来るのを待つ、という距離を貫いてきました。「家の中で守られとる限り、俺は何も問わん」が父の長年の作法でした。
けれど今回、父はその作法を自分から変えました。エマが先に父のところに「リナが眠れてない」と伝えに来てくれた。父はそれを受けて「お前が、自分から言いに来る前に」「俺は、お前が言いに来るまで、待つ気はなかった」と告げる。
父が父の作法を更新したのは、たぶん父にとってもいちばん難しい選択でした。長く守り続けてきた距離を、自分から短くする。「言えなかったのか、言う気がなかったのか」と問いかけたのは、責めるためではなく、リナ自身がその区別をつけられるように、と差し出してくれた問いでした。
エマが最後に頷いた頷きが「謝らなくていい」ではなく「言えるようになったね」だった点に、夫婦二人の連携の深さが見えます。母が観察を渡し、父が言葉を渡し、二人で一つの介入を組み立ててくれた。
■「三つ目の、清々しい空白」——紙に書き出した瞬間の発見
屋根裏でリナが、自分が抱えていることを紙に書き出してみた場面。
前世の言葉でいうと、これは「外化による思考の整理」でした。頭の中では大きく感じていた三つの構想が、紙の上に書き出そうとした瞬間に、「はっきり書ける」のは二つしかなかった。残りの一つは、たぶん頭の中で勝手に大きく育っていただけ。
この発見は、リナの中での負荷の重さを、いったん事実として測り直す作業でした。「重い」と感じていた重さの一部は、本当の重さではなく、「重いはずだ」と頭が勝手に拡張していた幻の重さでした。紙の上に並んだ二行を見つめて、三つ目の空白が「清々しい空白」に変わった瞬間。
バルドゥス爺さんが「下に置きたいものは何だ」と問うた問いの答えが、実は最初から「三つ目」だった。下に置こうとしなくても、紙の上に書き出すだけで、消えてくれるものがあった。次の話で、リナはこの整理を踏まえて、もう一つの大きな選択を自分から下していきます。次の話もお楽しみに。




