第77話 翠の月の昼下がり
手が、途中で止まった。
震えているわけではない。動く。
だが、思ったように動かなかった。
翠の月の終わりから陽の月の入りに差し掛かる頃。屋根裏の窓から差し込む昼下がりの光が、机の上の紙を白く照らしている。机の上には、もう十枚を超える構想図が積まれていた。
わたしは、ペンを持ったまま、自分の右手を見ていた。
五本の指は、ちゃんと開いている。
手のひらの線も、いつものまま。
爪の長さも、変わらない。
ただ、ペンを動かす力が、思ったように出てこなかった。
(——なぜ)
頭の中で問いを置いてから、わたしはゆっくりペンを置いた。
手をひらいて、もう一度握り直す。
力を入れる感覚は、ある。
でも、指先までその力が届くまでにほんの少しだけ時間がかかる気がした。
(——前世で——)
頭の中で、別の記憶が立ち上がりかけて、わたしはそれを押し戻した。
(——いや、今、それを思い出さなくていい)
ペンを取り直して、もう一度紙の上に向かった。
書こうとした続きの一文が、頭の中から、ふっと消えていた。
◇◇◇
台所に水を飲みに降りていった。
ちょうど、エマが昼の麦のお粥をかき混ぜているところだった。
わたしは水差しを取って、椀に半分だけ水を注いだ。喉が少し渇いていた。けれどそれは、屋根裏で長く座っていたからというより、別の何かが乾いている感じがした。
「リナ」
エマが、わたしの方を見ないままで声をかけてきた。
「うん?」
「昨日、ちゃんと寝た?」
(——あ)
わたしは水の椀を持ったまま、答えに詰まった。
昨夜——昨夜は、何時に寝床に入ったんだったか。
ノラが先に寝息を立てていたのは覚えている。
その隣で、わたしは天井を見上げていた。
頭の中でハンスさんの井戸の図を、繰り返し組み直していた。
(——何時間、眠ったんだろう)
それが、思い出せなかった。
「寝た」
「何時に?」
「えっと——」
エマが、お粥の鍋から目を上げて、わたしを見た。
それから、何か言いかけた。
「顔色が——」
そこで、エマは口をつぐんだ。
言葉の続きを、自分で飲み込んだ。
それから、お粥の鍋に視線を戻した。
「お粥、もうすぐできるから。お父さんを呼んできてくれる?」
「うん」
わたしは水の椀を置いて、工房に向かった。
(——お母さん、何を言いかけたんだろう)
頭の中で、その問いが小さく立ち上がった。
けれど、答えは出てこなかった。
◇◇◇
父の工房の扉を、軽く叩いた。
「お父さん。お昼、できるって」
「ああ」
父は、いつもの場所に座って、鐘時計の小さなねじを磨いていた。
顔を上げない。けれど、わたしが入ってきたことに、ちゃんと気付いている気配があった。
「リナ」
「うん?」
父が、初めて顔を上げた。
わたしを、一度だけ見た。
ほんの一瞬だった。
父の目が、わたしの顔の上を、ゆっくりと滑った。
何かを確かめるような、それでも、何も言わない目だった。
それから、父はまたねじに視線を戻して、続きを磨き始めた。
「先に行ってろ」
「うん」
(——お父さんも、何かに気付いた)
頭の中で、その事実が、すっと冷たく置かれた。
エマは「顔色が」と言いかけてやめた。
父は、わたしを一瞥して、何も言わなかった。
二人とも、何かに気付いている。
でも、二人とも、それを言葉にしない。
(——わたしの方が、先に、気付くべきなのかもしれない)
背中に、別の重さがじわりと張りついた。
◇◇◇
昼食の後、わたしはまた屋根裏に戻った。
紙の上に、また向かった。
書きかけだった構想図の続きを書こうとした。
ペンを動かすと、また、力が思ったように入らなかった。
それでも、指は動いた。線は引けた。歯車の図は、ちゃんと紙の上に現れた。
頭の中では、いくつもの仕組みが、同時に動いていた。
ハンスさんの井戸の汲み上げ装置。
南の水溜まりの排水。
編み物道具の改良。
それらが、頭の中で、勝手に動き続けていた。
わたしが「止まれ」と思っても、止まらなかった。
(——これは、わたしが考えているんじゃない)
(——わたしの頭が、勝手に動いている)
その違いに、わたしは少しずつ気付き始めていた。
ペンが、勝手に動く。
手が、勝手に紙の上を滑る。
頭が、勝手に次の仕組みを組み立てる。
それと同時に、別の感覚も立ち上がっていた。
——前世。
——会社の机。
——午前三時のモニター。
——「あと一つだけ関数を書き終えれば、家に帰れる」。
——あの時の、自分の声。
その記憶が、急に鮮明になった。
頭の中の風景が、屋根裏の机から、前世のオフィスに切り替わった気がした。
キーボードの白い光。冷たくなったコーヒー。窓の外の、ビルの灯りがほとんど消えた東京の夜。
椅子から立ち上がろうとして、両足が痺れていることに気付いた、あの瞬間。
——あと一つだけ関数を書き終えれば。
(——あ)
頭の中で、自分の声が聞こえた。
それは、前世のわたしの声だった。
そして、同時に——今のわたしの声でもあった。
ペンを持つ手が、また止まった。
(——これは、まずい)
そう、ようやく、気付いた。
(——いや)
頭の中で、別の声がそれを打ち消した。
(——前世のあの時とは違う)
(——今のわたしは、九歳で、家にいる)
(——身体は、まだ平気だ)
(——もう少し書ける)
——本当に?
——前世のあの時も、そう思っていたよね?
頭の中で別の声が別の声を打ち消そうとして、それでも消えなかった。
ペンを置いた。
手のひらを、もう一度開いて、閉じた。
力は、入る。
入るけれど、何か別のものが、確実に変わり始めていた。
◇◇◇
夕方、屋根裏の階段の下から、エマの足音が聞こえた。
「リナ。降りてきて」
エマの声は、いつもより少し低かった。
「うん。今、行く」
立ち上がろうとして、足が痺れていることに気付いた。
前世のあの瞬間と、よく似ていた。
階段を、ゆっくり降りた。
ふらつくほどではなかった。けれど、いつものペースより、少しだけ慎重だった。
台所には、エマが食事の準備を整えていた。
父はまだ工房にいるらしく、エマの向かいの椅子は空いていた。
ノラはもう、屋根裏で寝ているのが分かった。エマが先に寝かしつけてくれたのだろう。
「お粥、温めてあるからね」
「うん」
わたしは食卓に座った。
エマがお粥の椀をわたしの前に置いて、自分も向かいの椅子に座った。
ノラも父も、今、ここにはいない。
台所には、エマとわたしと、湯気を立てるお粥だけがあった。
エマは何も言わなかった。
わたしも何も言わなかった。
二人で、しばらく、ただ座っていた。
エマが、一度だけ、わたしの手元を見た。
ペンを持ちすぎて少し赤くなった、わたしの右手の指を。
それから、自分のお粥の椀に視線を戻した。
何も言わなかった。
ただ、見た。
それだけだった。
■あとがき・解説
第77話は、ペンを持つ手が思ったように動かなくなり、エマが「顔色が——」と言いかけてやめ、父がリナを一瞥して何も言わず、屋根裏で前世のオフィスの記憶が突然鮮明に蘇った回でした。サブアーク 1-C 後半(B6)の身体の異変の段。前世と今のリナのコントラストが、いちばん鋭く出る話です。今回はその「身体の合図」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「思ったように動かない手」——壊れる前の、最初の予兆
ペンを動かす力が、指先まで届くのに少し時間がかかる感覚。
前世の言葉でいうと、これは「微細な機能低下」の自己観察でした。手は震えてはいません。指は開きます。爪の長さも変わらない。けれど、力を入れる感覚と、指先がそれに応える感覚の間に、ほんの少しだけ遅れがある。
この種の異変は、外から見ても、たぶん家族には気付きません。本人にしか分からない程度の小さな違和感です。けれど本人にとっては、自分の身体が「いつもと違う」ことを最初に知らせてくれる、いちばん早い合図でもありました。
リナがその違和感を「なぜ」と問い、けれど結局ペンを取り直してまた紙に向かった瞬間。健康な判断と病的な判断の境目は、たぶんここにありました。違和感に気付いて手を止める、までは健康。違和感に気付いた上でなお続ける、になった瞬間に、何かが少し変わり始める。リナはまだ完全に「続ける」を選びきってはいませんでしたが、その境目の上に確実に立っていました。
■「顔色が——」——エマが、口に出さなかった一行
台所でエマが言いかけて、自分で飲み込んだ言葉。
前世の言葉でいうと、これは「観察したけれど、まだ介入の準備ができていない」状態でした。エマはリナの顔色の変化を、ちゃんと見ていました。けれどそれを「あなた、疲れてるんじゃない?」と問いに変えることを、エマは選びませんでした。
エマがそこで言葉を飲み込んだ理由は、たぶん複数あります。リナがどう答えるかを予測していたかもしれない(「大丈夫」と返すだろう、と)。リナの方が自分から言いに来るのを、もう少し待ちたかったのかもしれない。あるいは、自分の中でまだ事態の輪郭がはっきりしていなくて、口に出すことで自分の不安を確定させたくなかったのかもしれない。
母としての観察は、いつも観察だけでは終わりません。観察の次に、いつどう介入するかを選ばなくてはいけない。エマは今、その「いつ」と「どう」を測り始めているところでした。お粥の鍋に視線を戻した瞬間、エマの中で、たぶん何かが静かに整理され始めていました。
■「父の、一瞥」——同じ気付きが、別の場所でも進行している
工房で父アルベルトが、ねじから目を上げてリナを一度だけ見た場面。
前世の言葉でいうと、これは「家族内での観察の重複」でした。エマと父は、それぞれ別の場所で、別の角度から、同じリナを見ています。エマは台所での顔色を見た。父は工房に呼びに来た娘の足取りや声の張りを見た。二人とも、それぞれの観察を通して、リナの中で何かが起きていることを察知している。
ただし、二人ともそれを口にしない。「先に行ってろ」だけを告げて、また小さなねじに視線を戻す。父の沈黙の流儀は、これまでずっとリナの異質さを守ってきたものでした。けれど今回、その沈黙が、リナにとって別の重さを持ち始めます。
「お父さんも、何かに気付いた」「わたしの方が、先に、気付くべきなのかもしれない」——リナは家族の沈黙の中に「自分から動かなければ」というプレッシャーを読み取り始めました。けれど本当は、家族の沈黙はプレッシャーではなく、観察の合意の場でした。エマと父は二人とも、リナが自分で気付いて自分から動き出すのを待ってくれていた。リナがそれを「自分から動かなければ」と受け取ったところに、すでに歪みが始まっていました。
■「あと一つだけ関数を書き終えれば、家に帰れる」——前世のオフィスから、横断してきた声
屋根裏で構想図を書き続けている最中に、突然鮮明に蘇った前世の景色。
前世の言葉でいうと、これは「条件反射的なフラッシュバック」でした。深夜の会社、午前三時のモニター、冷たくなったコーヒー、ビルの灯りがほぼ消えた東京の夜。前世のリナがいちばん身体を壊しかけていた頃の風景が、屋根裏の蝋燭の光の中に重なって見えてくる。
このフラッシュバックは、リナの頭が呼び寄せたものではありません。リナの身体が「同じ姿勢」「同じ集中の質」「同じ時間の忘れ方」を再現し始めたことに、身体の方が反応して、対応する記憶を呼び出した、というのが近い気がします。前世の身体感覚と、今の身体感覚が、同じ刺激の上で重なる。
「あと一つだけ関数を書き終えれば」——前世の声と、今の声が、同じ言葉で並ぶ。「これは、まずい」と気付いた瞬間に、別の声が「いや、前世のあの時とは違う」「今のわたしは、九歳で、家にいる」「身体は、まだ平気だ」「もう少し書ける」と打ち消しに来る。打ち消しの声の方が、たぶん前世の時にも、いちばん危険な声でした。
「本当に?」「前世のあの時も、そう思っていたよね?」——もう一つの声が、消えないまま残った場面。リナの中で、前世の経験が今のリナを引き戻そうとしている。けれど、その経験を今のリナが本当に活用できるかどうかは、まだ分かりません。
■「ただ、見た。それだけだった」——エマが選んだ、最も静かな介入
夕方の台所で、エマがリナの手元の指を一度だけ見て、何も言わなかった場面。
前世の言葉でいうと、これは「言葉を使わない介入」の選択でした。「疲れてるんじゃない?」と問えば、リナは「大丈夫」と返してしまう。「もう寝なさい」と命じれば、リナは反発か罪悪感のどちらかで応えてしまう。エマは、そのどちらも選びませんでした。
ただ向かいの椅子に座って、湯気の立つお粥を挟んで、何も言わずに一度だけリナの手を見た。ペンを持ちすぎて赤くなった指。その指の色は、リナの中で起きていることのいちばん素直な証拠でした。エマはその証拠を見つめて、ただ自分のお粥の椀に視線を戻した。
この沈黙は、父の沈黙とは少し違う種類の沈黙でした。父の沈黙が「干渉しない」の沈黙だとすれば、エマの沈黙は「気付いたことを、相手にも気付いてもらうために、あえて言葉にしない」沈黙でした。母としての介入の中で、いちばん難しい形の介入。
リナが台所を出る前に、その視線の意味を、たぶんまだ完全には理解していません。けれど胸の奥のどこかで、自分の手の赤みを母に見られた、という事実だけは残ります。その事実が、次の話でようやく言葉になり始めます。次の話もお楽しみに。




