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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑤「旅立ちと、抱えこみ」

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第76話 もう一つだけ

父が手元から目を上げることなく、鑢をかけ続けていた。


その隣に座っていたはずのわたしの手が、いつの間にか止まっていた。


翠の月の半ば。工房の窓から差し込む朝の光は、もう氷の月の頃の細い光ではなくて、机の上を黄金色に染めるくらいに強くなっていた。机には、父が修理中の小さな鐘時計の歯車が、丁寧に並べられている。


わたしは、その隣に座って、自分の作業道具を出していた。

出していたはずだった。


(——あ)


頭の中で気付いた。

手元の鑷子が、ずっと同じ場所を撫でていた。


「リナ」


父が、目を上げないまま声をかけてきた。


「うん?」


「考えごとか」


「えっと——」


「いいぞ」


父はそれだけ言って、また鑢に戻った。

無理に何かを聞き出そうとはしなかった。けれど「気付いてはいる」という気配だけが、隣の作業台から伝わってきた。


(——ちょっと、考えてた)


口の中でそう答えたけれど、声には出さなかった。

わたしは鑷子をもう一度握り直して、目の前の小さな歯車に視線を戻した。

手が、また動き始めた。


けれど頭の中では、別のものが動き続けていた。


◇◇◇


午後、わたしは屋根裏の作業机に紙を広げていた。


机の上には、今朝から書きためた紙が、もう五枚以上重なっていた。


一枚目:ハンスさんの井戸の汲み上げ装置の構想図。ぜんまいと滑車の組み合わせ。

二枚目:村の南の水溜まりの排水機構の構想図。水位センサーの応用。

三枚目:井戸端のおばさんの編み物道具の改良案。針の引っかかりを直す仕組み。

四枚目:東の畑の石垣の排水構造の検討。

五枚目:——書きかけのまま、まだ何も書けていない紙。


五枚目には、最初の一文だけ書いてあった。


「声が届く仕組み」


それだけ。

他には何も書いていなかった。


(——お兄ちゃんの手紙に書かれていた、町の道具屋の珠盤の件も、まだ胸の奥に残っている)


(——でも、今は、目の前の構想を一つずつ進めるしかない)


(——お兄ちゃんとの距離を縮める仕組み)


(——前世なら、もっといろんな技術があった)


(——でも今は、まだ、何も思いつかない)


紙の上に、ペンを置きかけて、また持ち上げた。

今は、考えるべきことが、他にもたくさんあった。


——一枚目の井戸汲み上げ装置の方が、構想が進んでいる。

——それを先に仕上げよう。

——もう一つだけ構想しておけば、ハンスさんに次に会うとき、少し進んだ話ができる。


(——もう一つだけ)


頭の中でその言葉が立ち上がった瞬間、わたしは一度手を止めた。


(——あ)


(——前世で、何度も使った言葉だ)


背筋に、別の感覚が走った。

それは、温かいとか、嬉しいとか、そういう感覚ではなかった。

ただ、少しだけ、ひやりとした。


それでも、わたしは紙の上にペンを動かし続けた。


(——前世のあの「もう一つだけ」は、追い詰められた時の言葉だった)


(——今は、たぶん、違う)


胸の奥にだけ置いた「たぶん」が、ほんのわずかに、引っかかった。

それでも、わたしは紙の続きを書き始めた。


◇◇◇


夕方、わたしはまだ屋根裏にいた。


窓の外の光が、少しずつ低くなっていた。

机の上の紙が、もう七枚に増えていた。


階段の下から、誰かの足音が聞こえた。

重い足音じゃない。子供の、軽い足音。

でも、ノラの足音ではなかった。


「リナ、いる?」


レオの声だった。


わたしは慌ててペンを置いて、屋根裏の階段の上に顔を出した。


「レオ?」


「ああ、いるじゃん」


レオが階段の下から見上げていた。少し息を切らしていた。


「最近、お前、どこにいるの」


「えっと——」


「井戸でも見ないし、広場でも見ない。家にいるって言われたから、ノラに『ねぇねは?』って聞いたら『おうえうら』って言われた」


ノラの口で「屋上裏」が「おうえうら」になっていることに、わたしは小さく笑いそうになった。けれど、レオが少し怒っているような顔をしているのが分かって、笑わなかった。


「ごめん」


「謝らなくていいけどさ」


レオが、軽く頬を膨らませた。


「お前、最近、遊ばなくなった」


「うん」


「忙しい?」


「うん」


「なんで?」


(——どう答えればいいんだろう)


頭の中で、いくつかの答えが浮かんで、消えた。

「村の人たちに頼まれたから」とか、

「次の装置を考えているから」とか、

「お兄ちゃんに次の発明を見せたいから」とか。


どれも嘘ではない。

でも、どれも、レオに対しての答えではない気がした。


「うん。忙しい」


結局、それだけしか出てこなかった。


レオが、少し悲しそうな顔をした。

それから、急に、笑顔を作った。


「分かった。じゃあ、暇になったら、また井戸で会おうな」


「うん」


「俺、待ってるから」


レオがそれだけ言って、階段の下から離れていった。

玄関の戸が閉まる音がした。


わたしは、階段の上に立ったまま、しばらく動けなかった。


(——レオ、待ってる、って言った)


(——『待つ』ばかりだ、わたしのまわりは)


(——ノラも、レオも、お兄ちゃんも、わたしを待っている)


肩のあたりに、また別の重さが乗った。


◇◇◇


机に戻って、わたしは続きの紙を書き始めた。


頭の中で、ハンスさんの井戸の深さを計算した。

編み物道具の針の動きを分解した。

東の畑の石垣の排水構造を頭の中で組み立てた。


書きながら、頭の中で前世の記憶が、ふっと顔を覗かせた。


——深夜の会社。

——パソコンのファンの音だけが響く部屋。

——机に積み重なったマグカップ。

——窓の外の、ビルの灯りがほぼ消えた東京の夜景。

——自分の身体が、椅子に縛りつけられているように重かったあの感覚。


(——前世のわたしもそうやって紙の上で——いや、画面の上で、たくさんの線を引いていた)


(——あれは、楽しかったんだろうか)


(——それとも、ただ、止められなくて続けていただけだったんだろうか)


頭の中で、その問いが立ち上がった。

答えは、出てこなかった。

ただ、ペンを動かす自分の右手が、前世のキーボードを叩いていた手となぜか似た感じがした。


◇◇◇


階段の下から、ノラの足音が聞こえてきた。


「ねぇね」


「うん?」


「ねぇね、ごはんだよ」


ノラが、屋根裏の階段の途中まで上ってきて、わたしの方を見ていた。


わたしは、ペンを止めて、窓の外を見た。


窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。


(——え)


(——いつの間に?)


胸の奥で、何かが小さく崩れた。


机の上の蝋燭が、いつの間にか点いていた。誰が点けたのか、わたしは覚えていなかった。たぶん、エマが食事の準備の途中で屋根裏に上がってきて、わたしの隣に置いていったのだろう。

それにも、気付いていなかった。


「ねぇね」


ノラが、もう一度呼んだ。


「うん。今、行く」


わたしは紙をまとめて、机の脇に置いた。

椅子から立ち上がろうとして、足がしびれていることに気付いた。


(——どれくらい、座っていたんだろう)


頭の中で、夕方からの時間を計算しようとしたけれど、うまく出てこなかった。


ノラの寝息を聞きながら屋根裏で天井を見上げていた、あの夜のことを思い出した。

あの夜、わたしは「お兄ちゃんがいない後の家が変わってしまうのが怖い」と思っていた。


今夜は、それと違う重さが、胸の奥にあった。


(——わたしの中の何かが、変わり始めている)


階段を下りるとき、ノラが先に台所へ走っていった。


(——また、時間を忘れた)


頭の中で、ぽつりとそう呟いた。


(——前世でも、そうだった)


■あとがき・解説


第76話は、父の隣の作業台で手が止まり、屋根裏で構想図が五枚から七枚に増え、レオが「お前、最近、遊ばなくなった」と階段の下から見上げ、頭の中に「もう一つだけ」という前世の声が立ち上がった回でした。サブアーク 1-C 後半(B6)の本格的な発火点です。今回はその「前世の言葉が、もう一度立ち上がる」について、少し書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「考えごとか」——父の、いちばん短い気付き


父アルベルトが手元の鑢を止めずに、リナに向けた一言。


前世の言葉でいうと、これは「気付いていることを、最小限の言葉で伝える」工夫でした。父はリナの手元の鑷子が同じ場所を撫で続けていたことを、目を上げずに察知していました。けれど父はそれを「どうした」とも「何があった」とも問わない。ただ「考えごとか」「いいぞ」の二行で済ませる。


父の流儀は、ここでも一貫しています。気付いてはいる、と伝える。けれど詮索はしない。リナの方から言いに来るのを待つ、と暗黙のうちに告げる。父のこの距離の取り方は、これまで何度もリナを救ってきました。けれど今回は——たぶん、その距離だけでは届かない場所に、リナが少しずつ移動し始めていました。


リナが「ちょっと、考えてた」と口の中だけで答えて、声には出さなかった。あの瞬間、父からの最短の問いに対しても、リナはもう「最短で答え返す」ことができなくなっていました。応答の遅れは、リナの中の何かが詰まり始めていた合図でもありました。


■「五枚目には、最初の一文だけ書いてあった」——書き出せない構想の場所


屋根裏の机に積まれた、構想図の七枚。


前世の言葉でいうと、これは「思考の出力先の不均衡」でした。井戸の汲み上げ、南の水溜まりの排水、編み物道具の改良、石垣の排水——村人から頼まれた具体的な仕事は、紙の上にちゃんと形になっていきます。けれど五枚目に書きたかった「声が届く仕組み」だけは、最初の一文以外、書けないままでした。


なぜ書けないのか。それは、声が届く仕組みが「誰のための仕組みか」が、まだリナの中で曖昧だったからでした。井戸の汲み上げはハンスさんの奥さんのため。編み物道具は井戸端のおばさんの孫のため。受益者がはっきりしている構想は、紙の上に降りてきやすい。けれど「声が届く仕組み」は、まだリナとヨハンの間の私的な願いの場所にとどまっていて、設計の言葉に翻訳されていませんでした。


それでも、紙の一枚目を取って書きためる行為は、止まりませんでした。書ける構想の方が次々と紙の上に並んでいき、書けない構想は五枚目に一文だけ残されたまま。やがて、書ける構想の数だけが増えていく。リナの頭の中で「もっとできるはずだ」という錯覚が、書ける枚数を見るたびに強化されていきました。


■「もう一つだけ」——前世から響いてきた、いちばん危ない言葉


ハンスさんに次に会うとき少し進んだ話ができるように「もう一つだけ構想しておけば」と頭の中で立ち上がった瞬間。


前世の言葉でいうと、これは「自己強化される過剰労働の合図」でした。「もう一つだけ」は、前世のリナが何度も使った言葉だったと、本文の中ではっきり書かれています。深夜のオフィスで「あと一つだけ関数を書き終えれば、家に帰れる」と自分に言い聞かせた声。けれど「あと一つ」は、たいてい「あと二つ」になり「あと三つ」になり、最後には朝になる。


「もう一つだけ」が危険なのは、その言葉が「今やめてもいい場所」を見えなくしてしまうからでした。区切りを自分で先送りし続ける言葉。やめる権利を、未来の自分に丸投げし続ける言葉。前世のリナはたぶん、その言葉に何度も騙されて、最後には倒れてしまった人でした。


今回、その言葉が、九歳のリナの頭の中に「ふっと」立ち上がります。本人は「前世のあの時とは違う」「今は、たぶん、違う」と打ち消そうとする。けれど「たぶん」が消えない。前世の癖が、転生先の身体の中でも、同じ言葉のかたちで再起動し始めていました。


背筋に走った「ひやり」とした感覚は、たぶんリナの身体の方が、頭よりも先に危険を察知していた合図でした。


■「『待つ』ばかりだ、わたしのまわりは」——肩に乗ったもう一つの重さ


レオが階段の下から見上げて、「俺、待ってるから」と笑顔を作って帰っていった場面。


前世の言葉でいうと、これは「期待の総量を、自分の責任として勘定し始める」初期症状でした。ノラが「待ってる」と言ってくれた。ヨハンが「町から見てる」と言ってくれた。レオが「井戸で待ってるから」と言ってくれた。それぞれは、リナへの優しい好意でした。


けれどリナは、それを「待ってもらっている」という負債のかたちで受け取り始めていました。「ノラも、レオも、お兄ちゃんも、わたしを待っている」「肩のあたりに、また別の重さが乗った」。優しさが期待になり、期待が責任になり、責任が「自分が動かなければ全員を裏切る」という強迫に変わっていく。その連鎖の最初のひと節が、レオの足音と一緒に階段を下りていった後に、リナの肩に置かれました。


レオは何も悪いことを言っていません。むしろ、最後に笑顔を作って「井戸で会おうな」と帰ってくれた、優しい子供でした。リナが受け取り方を歪めているだけで、レオの言葉そのものは、いつも通りの友達の言葉でした。受け手の状態によって、同じ言葉が違う重さに変わる。その変質が、リナの中で確実に進んでいました。


■「窓の外がいつの間にか暗くなっていた」——時間を忘れた身体の合図


ノラに呼ばれて屋根裏を出ようとしたとき、机の上に蝋燭がいつの間にか点いていて、足が痺れていたことに気付いた場面。


前世の言葉でいうと、これは「集中の質が変わった」合図でした。健康な集中は、集中の終わりに自分で「あ、もう夕方か」と気付けるものです。けれど病的な集中は、外から声をかけられるまで時間の経過に気付けません。机の上の蝋燭が、エマによって静かに置かれていたことにも気付かないほど、リナの意識は外界から切り離されていました。


「前世でも、そうだった」——リナがぽつりと呟いた最後の一行。九歳のリナの中で、前世の自分のいちばん危なかった頃の身体感覚が、確実に再現され始めていることを、本人もうっすらと感じている。けれどまだ、それを誰にも話せていない。


蝋燭を置いてくれたのが誰かを覚えていないリナと、その隣でノラがちゃんと寝息を立てていた事実。家族はリナの中の変化に、リナ本人よりも先に気付き始めていました。次の話で、その気付きが少しずつ表面に現れ始めます。次の話もお楽しみに。


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