第76話 もう一つだけ
父が手元から目を上げることなく、鑢をかけ続けていた。
その隣に座っていたはずのわたしの手が、いつの間にか止まっていた。
翠の月の半ば。工房の窓から差し込む朝の光は、もう氷の月の頃の細い光ではなくて、机の上を黄金色に染めるくらいに強くなっていた。机には、父が修理中の小さな鐘時計の歯車が、丁寧に並べられている。
わたしは、その隣に座って、自分の作業道具を出していた。
出していたはずだった。
(——あ)
頭の中で気付いた。
手元の鑷子が、ずっと同じ場所を撫でていた。
「リナ」
父が、目を上げないまま声をかけてきた。
「うん?」
「考えごとか」
「えっと——」
「いいぞ」
父はそれだけ言って、また鑢に戻った。
無理に何かを聞き出そうとはしなかった。けれど「気付いてはいる」という気配だけが、隣の作業台から伝わってきた。
(——ちょっと、考えてた)
口の中でそう答えたけれど、声には出さなかった。
わたしは鑷子をもう一度握り直して、目の前の小さな歯車に視線を戻した。
手が、また動き始めた。
けれど頭の中では、別のものが動き続けていた。
◇◇◇
午後、わたしは屋根裏の作業机に紙を広げていた。
机の上には、今朝から書きためた紙が、もう五枚以上重なっていた。
一枚目:ハンスさんの井戸の汲み上げ装置の構想図。ぜんまいと滑車の組み合わせ。
二枚目:村の南の水溜まりの排水機構の構想図。水位センサーの応用。
三枚目:井戸端のおばさんの編み物道具の改良案。針の引っかかりを直す仕組み。
四枚目:東の畑の石垣の排水構造の検討。
五枚目:——書きかけのまま、まだ何も書けていない紙。
五枚目には、最初の一文だけ書いてあった。
「声が届く仕組み」
それだけ。
他には何も書いていなかった。
(——お兄ちゃんの手紙に書かれていた、町の道具屋の珠盤の件も、まだ胸の奥に残っている)
(——でも、今は、目の前の構想を一つずつ進めるしかない)
(——お兄ちゃんとの距離を縮める仕組み)
(——前世なら、もっといろんな技術があった)
(——でも今は、まだ、何も思いつかない)
紙の上に、ペンを置きかけて、また持ち上げた。
今は、考えるべきことが、他にもたくさんあった。
——一枚目の井戸汲み上げ装置の方が、構想が進んでいる。
——それを先に仕上げよう。
——もう一つだけ構想しておけば、ハンスさんに次に会うとき、少し進んだ話ができる。
(——もう一つだけ)
頭の中でその言葉が立ち上がった瞬間、わたしは一度手を止めた。
(——あ)
(——前世で、何度も使った言葉だ)
背筋に、別の感覚が走った。
それは、温かいとか、嬉しいとか、そういう感覚ではなかった。
ただ、少しだけ、ひやりとした。
それでも、わたしは紙の上にペンを動かし続けた。
(——前世のあの「もう一つだけ」は、追い詰められた時の言葉だった)
(——今は、たぶん、違う)
胸の奥にだけ置いた「たぶん」が、ほんのわずかに、引っかかった。
それでも、わたしは紙の続きを書き始めた。
◇◇◇
夕方、わたしはまだ屋根裏にいた。
窓の外の光が、少しずつ低くなっていた。
机の上の紙が、もう七枚に増えていた。
階段の下から、誰かの足音が聞こえた。
重い足音じゃない。子供の、軽い足音。
でも、ノラの足音ではなかった。
「リナ、いる?」
レオの声だった。
わたしは慌ててペンを置いて、屋根裏の階段の上に顔を出した。
「レオ?」
「ああ、いるじゃん」
レオが階段の下から見上げていた。少し息を切らしていた。
「最近、お前、どこにいるの」
「えっと——」
「井戸でも見ないし、広場でも見ない。家にいるって言われたから、ノラに『ねぇねは?』って聞いたら『おうえうら』って言われた」
ノラの口で「屋上裏」が「おうえうら」になっていることに、わたしは小さく笑いそうになった。けれど、レオが少し怒っているような顔をしているのが分かって、笑わなかった。
「ごめん」
「謝らなくていいけどさ」
レオが、軽く頬を膨らませた。
「お前、最近、遊ばなくなった」
「うん」
「忙しい?」
「うん」
「なんで?」
(——どう答えればいいんだろう)
頭の中で、いくつかの答えが浮かんで、消えた。
「村の人たちに頼まれたから」とか、
「次の装置を考えているから」とか、
「お兄ちゃんに次の発明を見せたいから」とか。
どれも嘘ではない。
でも、どれも、レオに対しての答えではない気がした。
「うん。忙しい」
結局、それだけしか出てこなかった。
レオが、少し悲しそうな顔をした。
それから、急に、笑顔を作った。
「分かった。じゃあ、暇になったら、また井戸で会おうな」
「うん」
「俺、待ってるから」
レオがそれだけ言って、階段の下から離れていった。
玄関の戸が閉まる音がした。
わたしは、階段の上に立ったまま、しばらく動けなかった。
(——レオ、待ってる、って言った)
(——『待つ』ばかりだ、わたしのまわりは)
(——ノラも、レオも、お兄ちゃんも、わたしを待っている)
肩のあたりに、また別の重さが乗った。
◇◇◇
机に戻って、わたしは続きの紙を書き始めた。
頭の中で、ハンスさんの井戸の深さを計算した。
編み物道具の針の動きを分解した。
東の畑の石垣の排水構造を頭の中で組み立てた。
書きながら、頭の中で前世の記憶が、ふっと顔を覗かせた。
——深夜の会社。
——パソコンのファンの音だけが響く部屋。
——机に積み重なったマグカップ。
——窓の外の、ビルの灯りがほぼ消えた東京の夜景。
——自分の身体が、椅子に縛りつけられているように重かったあの感覚。
(——前世のわたしもそうやって紙の上で——いや、画面の上で、たくさんの線を引いていた)
(——あれは、楽しかったんだろうか)
(——それとも、ただ、止められなくて続けていただけだったんだろうか)
頭の中で、その問いが立ち上がった。
答えは、出てこなかった。
ただ、ペンを動かす自分の右手が、前世のキーボードを叩いていた手となぜか似た感じがした。
◇◇◇
階段の下から、ノラの足音が聞こえてきた。
「ねぇね」
「うん?」
「ねぇね、ごはんだよ」
ノラが、屋根裏の階段の途中まで上ってきて、わたしの方を見ていた。
わたしは、ペンを止めて、窓の外を見た。
窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。
(——え)
(——いつの間に?)
胸の奥で、何かが小さく崩れた。
机の上の蝋燭が、いつの間にか点いていた。誰が点けたのか、わたしは覚えていなかった。たぶん、エマが食事の準備の途中で屋根裏に上がってきて、わたしの隣に置いていったのだろう。
それにも、気付いていなかった。
「ねぇね」
ノラが、もう一度呼んだ。
「うん。今、行く」
わたしは紙をまとめて、机の脇に置いた。
椅子から立ち上がろうとして、足がしびれていることに気付いた。
(——どれくらい、座っていたんだろう)
頭の中で、夕方からの時間を計算しようとしたけれど、うまく出てこなかった。
ノラの寝息を聞きながら屋根裏で天井を見上げていた、あの夜のことを思い出した。
あの夜、わたしは「お兄ちゃんがいない後の家が変わってしまうのが怖い」と思っていた。
今夜は、それと違う重さが、胸の奥にあった。
(——わたしの中の何かが、変わり始めている)
階段を下りるとき、ノラが先に台所へ走っていった。
(——また、時間を忘れた)
頭の中で、ぽつりとそう呟いた。
(——前世でも、そうだった)
■あとがき・解説
第76話は、父の隣の作業台で手が止まり、屋根裏で構想図が五枚から七枚に増え、レオが「お前、最近、遊ばなくなった」と階段の下から見上げ、頭の中に「もう一つだけ」という前世の声が立ち上がった回でした。サブアーク 1-C 後半(B6)の本格的な発火点です。今回はその「前世の言葉が、もう一度立ち上がる」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「考えごとか」——父の、いちばん短い気付き
父アルベルトが手元の鑢を止めずに、リナに向けた一言。
前世の言葉でいうと、これは「気付いていることを、最小限の言葉で伝える」工夫でした。父はリナの手元の鑷子が同じ場所を撫で続けていたことを、目を上げずに察知していました。けれど父はそれを「どうした」とも「何があった」とも問わない。ただ「考えごとか」「いいぞ」の二行で済ませる。
父の流儀は、ここでも一貫しています。気付いてはいる、と伝える。けれど詮索はしない。リナの方から言いに来るのを待つ、と暗黙のうちに告げる。父のこの距離の取り方は、これまで何度もリナを救ってきました。けれど今回は——たぶん、その距離だけでは届かない場所に、リナが少しずつ移動し始めていました。
リナが「ちょっと、考えてた」と口の中だけで答えて、声には出さなかった。あの瞬間、父からの最短の問いに対しても、リナはもう「最短で答え返す」ことができなくなっていました。応答の遅れは、リナの中の何かが詰まり始めていた合図でもありました。
■「五枚目には、最初の一文だけ書いてあった」——書き出せない構想の場所
屋根裏の机に積まれた、構想図の七枚。
前世の言葉でいうと、これは「思考の出力先の不均衡」でした。井戸の汲み上げ、南の水溜まりの排水、編み物道具の改良、石垣の排水——村人から頼まれた具体的な仕事は、紙の上にちゃんと形になっていきます。けれど五枚目に書きたかった「声が届く仕組み」だけは、最初の一文以外、書けないままでした。
なぜ書けないのか。それは、声が届く仕組みが「誰のための仕組みか」が、まだリナの中で曖昧だったからでした。井戸の汲み上げはハンスさんの奥さんのため。編み物道具は井戸端のおばさんの孫のため。受益者がはっきりしている構想は、紙の上に降りてきやすい。けれど「声が届く仕組み」は、まだリナとヨハンの間の私的な願いの場所にとどまっていて、設計の言葉に翻訳されていませんでした。
それでも、紙の一枚目を取って書きためる行為は、止まりませんでした。書ける構想の方が次々と紙の上に並んでいき、書けない構想は五枚目に一文だけ残されたまま。やがて、書ける構想の数だけが増えていく。リナの頭の中で「もっとできるはずだ」という錯覚が、書ける枚数を見るたびに強化されていきました。
■「もう一つだけ」——前世から響いてきた、いちばん危ない言葉
ハンスさんに次に会うとき少し進んだ話ができるように「もう一つだけ構想しておけば」と頭の中で立ち上がった瞬間。
前世の言葉でいうと、これは「自己強化される過剰労働の合図」でした。「もう一つだけ」は、前世のリナが何度も使った言葉だったと、本文の中ではっきり書かれています。深夜のオフィスで「あと一つだけ関数を書き終えれば、家に帰れる」と自分に言い聞かせた声。けれど「あと一つ」は、たいてい「あと二つ」になり「あと三つ」になり、最後には朝になる。
「もう一つだけ」が危険なのは、その言葉が「今やめてもいい場所」を見えなくしてしまうからでした。区切りを自分で先送りし続ける言葉。やめる権利を、未来の自分に丸投げし続ける言葉。前世のリナはたぶん、その言葉に何度も騙されて、最後には倒れてしまった人でした。
今回、その言葉が、九歳のリナの頭の中に「ふっと」立ち上がります。本人は「前世のあの時とは違う」「今は、たぶん、違う」と打ち消そうとする。けれど「たぶん」が消えない。前世の癖が、転生先の身体の中でも、同じ言葉のかたちで再起動し始めていました。
背筋に走った「ひやり」とした感覚は、たぶんリナの身体の方が、頭よりも先に危険を察知していた合図でした。
■「『待つ』ばかりだ、わたしのまわりは」——肩に乗ったもう一つの重さ
レオが階段の下から見上げて、「俺、待ってるから」と笑顔を作って帰っていった場面。
前世の言葉でいうと、これは「期待の総量を、自分の責任として勘定し始める」初期症状でした。ノラが「待ってる」と言ってくれた。ヨハンが「町から見てる」と言ってくれた。レオが「井戸で待ってるから」と言ってくれた。それぞれは、リナへの優しい好意でした。
けれどリナは、それを「待ってもらっている」という負債のかたちで受け取り始めていました。「ノラも、レオも、お兄ちゃんも、わたしを待っている」「肩のあたりに、また別の重さが乗った」。優しさが期待になり、期待が責任になり、責任が「自分が動かなければ全員を裏切る」という強迫に変わっていく。その連鎖の最初のひと節が、レオの足音と一緒に階段を下りていった後に、リナの肩に置かれました。
レオは何も悪いことを言っていません。むしろ、最後に笑顔を作って「井戸で会おうな」と帰ってくれた、優しい子供でした。リナが受け取り方を歪めているだけで、レオの言葉そのものは、いつも通りの友達の言葉でした。受け手の状態によって、同じ言葉が違う重さに変わる。その変質が、リナの中で確実に進んでいました。
■「窓の外がいつの間にか暗くなっていた」——時間を忘れた身体の合図
ノラに呼ばれて屋根裏を出ようとしたとき、机の上に蝋燭がいつの間にか点いていて、足が痺れていたことに気付いた場面。
前世の言葉でいうと、これは「集中の質が変わった」合図でした。健康な集中は、集中の終わりに自分で「あ、もう夕方か」と気付けるものです。けれど病的な集中は、外から声をかけられるまで時間の経過に気付けません。机の上の蝋燭が、エマによって静かに置かれていたことにも気付かないほど、リナの意識は外界から切り離されていました。
「前世でも、そうだった」——リナがぽつりと呟いた最後の一行。九歳のリナの中で、前世の自分のいちばん危なかった頃の身体感覚が、確実に再現され始めていることを、本人もうっすらと感じている。けれどまだ、それを誰にも話せていない。
蝋燭を置いてくれたのが誰かを覚えていないリナと、その隣でノラがちゃんと寝息を立てていた事実。家族はリナの中の変化に、リナ本人よりも先に気付き始めていました。次の話で、その気付きが少しずつ表面に現れ始めます。次の話もお楽しみに。




