第75話 期待という重さ
タール爺さんが、水路の見回りに付き合えと言った。
声をかけてきたのは昨日のことで、今日はもう朝から靴を履いていた。
青の月の後半。麦畑の畝はもう深い緑に染まり、穂が日々高さを増している。陽射しは強く、朝の風にも乾いた麦の匂いが混じる。北の水路には、わたしの作った装置が静かに動いていた。風の音に、ぜんまいが小さく回る音だけが、規則正しく聞こえてくる。
タール爺さんは装置の前で立ち止まって、しばらく装置を見ていた。それから、わたしの方を向いた。
「ちゃんと、動いとる」
「うん」
「お前さんが作ったもんが、わしの代わりに毎朝同じことを繰り返しとる」
爺さんはそう言って、軽く頷いた。
褒めているのか、感心しているのか、それとも別の何かを言いたいのか、わたしには分からなかった。
ただ爺さんの目は装置を見ているようで、その向こうのもっと遠いものを見ているような気がした。
◇◇◇
水路の下流の方から、足音が聞こえてきた。
麦畑の脇道を、ハンスさんが歩いてきていた。
ハンスさんは村の北東の麦畑を持っている人で、四十くらいの背の高い男の人。会話で挨拶を交わしたことはあるけれど、こんなふうに自分から近づいてきたのは初めてだった。
「リナ」
「ハンスさん。おはようございます」
「ちょっと、いいか」
「はい」
ハンスさんがわたしの隣に立って、装置を見下ろした。それから、しばらく装置の動きを眺めてから、ゆっくり口を開いた。
「うちの井戸な。水汲みが、毎朝、女房の腰に堪える」
「……はい」
「これ、井戸の汲み上げにも、できんかね」
ハンスさんは、装置を指差した。手の指は厚くて、麦の刈り入れで何度も豆ができた跡がある指だった。
「うちの井戸、深い。十年で女房の腰がだいぶ曲がっとる。お前さんの作る機械なら、女房の代わりに、水を汲み上げてくれるんじゃないかと思ってな」
(——井戸の汲み上げ)
頭の中で、ハンスさんの言葉を整理した。
(——水門の開閉とは、構造が違う)
(——でも、機械でできるかと聞かれたら、たぶんできる)
(——ぜんまいで巻き上げる仕組みと、釣瓶の代わりに歯車で動く滑車を組み合わせれば——)
頭の中で勝手に設計が始まっていた。
それを止めるのに、少し時間がかかった。
「……ハンスさん」
「ん」
「考えてみます。でも、すぐには、ちょっと」
「いや、無理にとは言わん。ただ、もしお前さんが手の空いた時にでも考えてくれたら、と思ってな」
ハンスさんはそう言って、軽く頭を下げた。それから麦畑の方へ歩いていった。
タール爺さんが、わたしの隣で軽く息を吐いた。
「ハンスは、いい人じゃ。お前さんを急かしたりはせん」
「うん」
「ただな。ああいう声が、これから増えるじゃろう」
爺さんはそれだけ言って、また水路の上流の方へ歩き始めた。
(——これから増える)
その言葉が、胸の奥に小さく落ちた。
◇◇◇
午後、エマと一緒に村の中央広場まで歩いた。市場で麦の粉と、夏に着る薄い布地を買うためだった。
道の途中で、井戸端のおばさんが声をかけてきた。
「リナちゃん。あなた、最近、また何か作ってるんでしょ?」
「えっと、いえ。今は」
「あら、そうなの? もう次の発明、考えてるって聞いたわよ」
「えっと——」
エマが横から「ちょっとずつね」と笑顔で答えてくれた。
それでも、おばさんはわたしの方を見て続けた。
「うちの孫の、編み物の道具ね。古くなって、針が引っかかるの。あなたなら、何とかしてくれるって思ってさ」
「……はい」
「あ、無理に言ってるんじゃないのよ。ただ、もしねえ。手が空いた時にでも、ね」
エマが「はい、お預かりします」と丁寧に答えて、わたしの手を引いた。
歩き始めると、すぐに別の女性が「あなたのとこの子、頼みたいことがあるんだけど」と話しかけてきた。エマが「ええ、後でお話聞きますね」と答えてくれた。
中央広場まで歩く十分の間に、似たような声が四つ五つ、わたしの耳に入っていた。
(——みんな、わたしのことを覚えていてくれる)
(——わたしのことを、何かができる子だと思ってくれる)
胸の奥で、温かい熱が一度だけ立ち上がった。
それから、別の感覚も立ち上がった。
(——でも、わたしはどれをどう断ればいいのか分からない)
◇◇◇
帰り道、バルドゥス爺さんの家の前を通った。
爺さんは、いつものように家の前の小さな椅子に座って、麦の穂を撫でる風の音を聞いていた。
わたしとエマが通り過ぎようとすると、爺さんが顔を上げた。
「リナ」
「バルドゥス爺さん」
「重いものを持ちすぎると、手が動かなくなるぞ」
爺さんはそれだけ言って、また麦の穂の方を見た。
わたしは、何のことか聞き返そうかと思って、口を開きかけた。けれど、エマがそっとわたしの手を引いた。
「行きましょう、リナ」
「うん」
(——重いものを持ちすぎると、手が動かなくなる)
その言葉が、胸の奥でゆっくり広がった。
バルドゥス爺さんはたぶん、市場での声の数を見ていない場所からでも知っていた。
◇◇◇
夜の食卓。父アルベルトが粥を口に運びながら、わたしを一度だけ見た。
「話が来てるんだろう」
「うん」
「いくつだ」
「えっと——」
エマが横から答えた。「今日だけで、四件くらい」
父が頷いて、また粥を口に運んだ。それから、短く言った。
「全部は受けるな」
「うん」
「断っていい」
「うん」
父はそれだけ言って、また粥に戻った。
わたしは「うん」と頷いたけれど、頭の中では別のことを考えていた。
(——どれを受けて、どれを断るんだろう)
(——どう断れば、相手を傷つけないんだろう)
(——そもそも、わたしは断り方を知らないかもしれない)
父の言葉は短くて、たぶん全部を含んでいた。けれどその「全部」が何なのか、わたしにはまだ整理できていなかった。
◇◇◇
夕飯の後、わたしは屋根裏の作業机に紙を広げていた。
ヨハンへの返事を書こうとしたのだ。前の手紙が届いて、十日が経った。次の旅商人が来る前に、書き終えておきたかった。
ノラはもう寝床で眠っていた。窓の外は薄暗くて、屋根裏の蝋燭が机の上を黄色く照らしている。
紙の上に、ペンを置いた。
(——お兄ちゃんへ)
最初の六文字を書いて、ペンが止まった。
頭の中で、昼間の声が、いくつも並んでいた。
ハンスさんの井戸の話。
井戸端のおばさんの編み物道具の話。
中央広場で会った別の女性の頼み事。
父の「全部は受けるな」。
バルドゥス爺さんの「重いものを持ちすぎると手が動かなくなる」。
それから、頭の隅で、別の声も立ち上がった。
(——井戸の汲み上げ装置は、技術的にはできる)
(——編み物道具の修理も、たぶん、難しくない)
(——どれもこれも、わたしならできそうだ)
(——できそうだから、引き受けてしまいたい)
頭の中で、勝手に設計が始まっていた。
ハンスさんの井戸の深さを考えながら、滑車の設定を計算していた。編み物の針の構造を頭の中で分解して、引っかかる場所を特定しようとしていた。
ペンは、まだ、最初の六文字以上に進んでいなかった。
(——もう半刻、経ってる)
(——ヨハンへの手紙を、書こうとしていたのに)
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
それは、嬉しさだった。
村の人たちが、わたしを覚えていてくれること。
わたしを「何かができる子」と思ってくれること。
頼ってくれること。
——それは、たしかに、嬉しいことだった。
でも、それと同時に、別の感覚があった。
(——なぜか、少し、苦しい)
蝋燭の火が、ふっと一度だけ揺れた。
机の上には、書きかけの「お兄ちゃんへ」の六文字だけがあった。
頭の中の声は、まだ並んでいた。
リナ、またなんか作るんでしょ。
うちにも何かできんかね。
リナちゃん、あなたなら何とかしてくれるって思って。
——こんなに嬉しいのに、なぜか少し、苦しかった。
■あとがき・解説
第75話は、タール爺さんに付き添って水路の見回りに出た朝、ハンスさんに井戸の汲み上げ装置を頼まれ、市場までの道で次々と「あなたなら何とかしてくれる」と声をかけられ、夜の食卓で父が「全部は受けるな」と短く告げ、屋根裏で「お兄ちゃんへ」の六文字以上を書けないまま蝋燭の火を見ていた回でした。サブアーク 1-C 後半の B6「期待の重さ」が始まる最初の話です。今回はその「断り方を知らない」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「これから増える」——タール爺さんの、短い予告
水路の脇でハンスさんが井戸の汲み上げを頼んできた後、タール爺さんが「ああいう声が、これから増えるじゃろう」と零した一言。
前世の言葉でいうと、これは「成功体験の二次的な影響」の予告でした。自動灌漑装置がうまく動いた、という事実は、村の中で確実に広まっていました。装置を見たことのある人だけでなく、噂で聞いた人にまで「リナなら何かを作ってくれる」という期待が伝播していく。
タール爺さんは長くこの村を見てきた人です。新しい技術を持ち込んだ人が、その後どんな波に呑まれるかを、たぶん何度か見てきている。「これから増える」という短い一言の中に、警告と心配と、それでも「お前さんならどうするかを見ている」という観察が、同時に含まれていました。
爺さんはそれ以上のことを言いません。説教もしないし、断り方を教えもしない。ただ、波が来ることだけを告げて、自分はまた上流の方へ歩いていく。長く生きてきた人の節度が、その短さの中にちゃんと収まっていました。
■「みんな、わたしのことを覚えていてくれる」——温かさの中で立ち上がった、別の感覚
中央広場までの道で、次々と頼みごとの声が降ってきた場面。
前世の言葉でいうと、これは「期待の集中による負荷」の最初の自覚でした。一つひとつの声は、悪意がないどころか、むしろ温かい好意で出来ていました。井戸端のおばさんが孫の編み物道具を心配する声。別の女性が手間を取らせるのを申し訳なさそうにする声。どれも、リナのことを覚えていてくれて、リナを頼ってくれている声でした。
「みんな、わたしのことを覚えていてくれる」——胸の奥で立ち上がった温かい熱は、本物の温かさでした。けれどその直後に、別の感覚も立ち上がります。「でも、わたしはどれをどう断ればいいのか分からない」。
期待は、それ自体が悪いものではありません。問題は、期待を受け取った側に「全部に応えなければならない」と感じる癖がある時に起きます。九歳のリナは、まだ「断ること」を一度も練習していない子供でした。前世のリナは社会人として断り方を知っていたはずですが、その記憶は、村の井戸端のおばさんへの返事には、たぶんうまく転用できない。
■「重いものを持ちすぎると、手が動かなくなる」——バルドゥス爺さんの、もう一つの予告
バルドゥス爺さんが家の前から、麦の穂の方を見たまま投げてくれた一言。
前世の言葉でいうと、これは「比喩による警告」でした。タール爺さんは「声が増える」と現象を予告してくれました。バルドゥス爺さんはもう一歩踏み込んで、「重いものを持ちすぎると、手が動かなくなる」と、リナの身体の中で起きるかもしれないことを比喩で告げました。
バルドゥス爺さんは、市場の声の数を見ていない場所からそれを言いました。たぶん爺さんは、過去にも同じような波に呑まれた誰かを見てきている。重さの問題は「自分が運べると思った量」と「実際に運べる量」の差から起きる、ということを、爺さんは長い時間をかけて学んできたのでしょう。
リナは爺さんの言葉の意味を、その場では完全には咀嚼できませんでした。エマがそっと手を引いてくれたので、聞き返すこともできなかった。けれど「重いものを持ちすぎると、手が動かなくなる」の一行は、リナの胸の奥に種のように残ります。後の話で、この種が芽吹くことになります。
■「全部は受けるな」——父アルベルトの、最短の助言
夜の食卓で、父が粥を運ぶ手を止めずに告げた一言。
前世の言葉でいうと、これは「最短経路での親の介入」でした。父は議論を始めたりはしません。なぜ受けてはいけないのか、どれを断るべきか、断り方はどうするべきか——そういう詳細は、何も言いません。ただ「全部は受けるな」と「断っていい」の二行だけを置く。
父の短さは、これまでも繰り返し描かれてきました。今回の短さは、その流儀の中での精度の高さで光っています。リナが今いちばん必要としているのは「全部受けてはいけない」という許可と、「断ることは悪いことではない」という確認の二つでした。父はそれを、最短で渡してくれた。
ただ、父の助言は「許可」だったけれど「方法」ではありませんでした。リナの頭の中で「どれを受けて、どれを断るんだろう」「どう断れば、相手を傷つけないんだろう」「そもそも、わたしは断り方を知らないかもしれない」という別の問いが残ります。父の助言だけでは届かない場所が、まだリナの中には残っていました。
■「こんなに嬉しいのに、なぜか少し、苦しかった」——蝋燭の火と、六文字の前で止まったペン
ヨハンへの返事を書こうとして、最初の六文字以上に進めなかった夜。
前世の言葉でいうと、これは「優先順位の衝突」の初期症状でした。書きたかったのは、ヨハンへの手紙でした。けれど頭の中ではハンスさんの井戸の滑車の設定や、編み物道具の針の動きが、勝手に動き始めていた。意識の表面ではヨハンに向き合おうとして、意識の奥では別の構想が止まらない。
ペンが「お兄ちゃんへ」の六文字以上に進まない理由は、書くことが思い浮かばないからではありません。書くべきこと(兄への手紙)よりも、書きたくなってしまうこと(村人の頼みごとへの設計)の方が、頭の中で強く立ち上がっていたからでした。
「こんなに嬉しいのに、なぜか少し、苦しかった」。一文の中で「嬉しい」と「苦しい」が並んだとき、リナはまだその矛盾を整理できていません。けれど、感じている矛盾そのものは、ちゃんと本物でした。
蝋燭の火が一度だけ揺れて、机の上には書きかけの六文字だけが残っている。後ろの方には「リナ、またなんか作るんでしょ」「あなたなら何とかしてくれるって思って」という昼間の声が、まだ並んでいる。サブアーク 1-C 後半(B6)の問題が、ここから本格的に動き始めます。次の話もお楽しみに。




