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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑤「旅立ちと、抱えこみ」

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第74話 夏の村

エマが「市場に付き合って」と声をかけてきた。


雷の月の半ばを過ぎて、麦畑の畝が一段と高くなっていた。

ヨハンがいない一月あまりの間に、村はもう次の季節を動き始めていた。


朝の風には、もう冷たさはなかった。頬に当たる感じは前の月とは違って、乾いた麦の穂の匂いを含んだ風だった。畝の間の若い緑がぐっと伸びて、畑の表面が深い緑に変わりつつある。


「ノラはお父さんと留守番ね」


エマが言うと、ノラは父の足元で人形を抱きしめて、軽く頷いた。

父は工房から「ふん」と返事をして、それだけだった。


わたしとエマは、二人で家を出た。


◇◇◇


村の中央広場までは、ゆっくり歩いて十分くらいの距離だ。

道の途中で、井戸端のおばさんが「ヨハン君、町でやってる?」と声をかけてきた。エマが「ええ。元気にやってます」と笑顔で答えた。


「あの子は、町に出ても、ちゃんとやれるよ。あんたの育て方が、しっかりしてるもの」


「ありがとう」


エマがそう答えて、また歩き出した。


すれ違うひとびとが、何人か似たようなことを言ってきた。

「ヨハン君、無事に着いた?」

「あの子、訓練、厳しいって聞いたけど」

「祭礼には帰ってくるんかね」


エマは一つひとつに丁寧に答えていた。

そのたびに「うちの息子の話」が、村のあちこちで交わされていることが分かった。


(——お兄ちゃんは、もう、この村だけの人ではないんだ)


頭の中で、その事実が静かに広がった。


◇◇◇


市場の手前で、タール爺さんに会った。


爺さんは、いつものように腰を少し曲げて、水路の点検帰りらしい泥のついた靴で立っていた。


「リナ嬢ちゃん」


「タール爺さん」


「機械、まだちゃんと動いとるぞ」


爺さんはそれだけ言って、また歩き始めた。

短い言葉だったけれど、わたしの胸の奥で、何かが軽くなった。


(——あの装置が、わたしのいないところでも、動いている)


(——タール爺さんが見守っているから、動き続けている)


「リナ、知ってる?」


エマが、爺さんが行った方を見ながら言った。


「タールさん、最近、村の他の水路も見回りに行く範囲を広げたって聞いたわ」


「広げた?」


「ええ。あなたの装置のおかげで、北の水路の見回りが楽になったから、その分、他の水路も見られるようになったんだって」


「あ……」


胸の奥で、その情報が、ゆっくり広がっていった。


わたしが作った装置が、タール爺さんの仕事の範囲を広げた。

それは、わたしが直接見ていたわけではない。けれど、村の生活の中で、確かに起きていた変化だった。


◇◇◇


市場で、エマは麦の粉と、塩漬けの肉と、新しい縫い糸を買った。


買い物の途中で、エマがふと立ち止まって、わたしを見た。


「リナ」


「うん?」


「あなたは、ヨハンが出て、寂しくない?」


その問いは、唐突だった。

わたしは少しの間、何と答えるか迷った。


「寂しいけど」


「うん」


「手紙が、あるから。大丈夫」


エマが、ゆっくり頷いた。


「あなたはいつもそうやって、距離を縮める方法を、見つけるのよね」


(——え)


頭の中で、その言葉が、ぴたりと止まった。


(——距離を縮める方法を、見つける)


(——わたしが?)


「お母さん」


「うん」


「わたし、そうしてた?」


「うん」


エマが、また歩きながら答えた。


「あなたは、お父さんの工房に通って、お父さんと話す手段を作った。グスタフさんとの距離は、機械を一緒に作ることで縮めた。エルナ様とも、観察を一緒にすることで、距離を縮めた。ノラとも、絵を描かせたり、人形と話したりして、距離を縮めてる。今度は、ヨハンとの距離を、手紙で縮めようとしてる」


エマがそう言って、軽く笑った。


「あなたは、何かを作るたびに、誰かとの距離を縮めてる。それがあなたの作り方なのよね」


胸の奥で、何かがゆっくり広がった。


それは、これまで自分でも気付いていなかった、自分の癖だった。

前世のわたしが、PMとして「人と人の距離を縮めるための仕組み」を作ってきたのと、何かが似ていた。けれど今のわたしは、それをもっと自然な形で家族の中でやっていた。


(——わたしの作るものは、距離を縮めるためのものだったのか)


(——コードも、機械も、手紙も)


頭の中で、何かが繋がり始めた気がした。


◇◇◇


家に戻ると、ノラが父の工房の入り口で、人形を立たせて遊んでいた。


「ねぇね、おかえり」


「うん。ただいま」


父は工房の中で、鐘時計の小さな歯車を磨いていた。

わたしが入っていくと、父が顔を上げて、わたしを見た。


「ヨハンから、次の手紙、もう来そうか」


「うん。旅商人さんが、もうすぐ来るって」


「そうか」


父がそれだけ言って、また歯車に戻った。


そして、ふと、父が小さく付け加えた。


「俺の返事も、今度はもう少し長く書こうかと思っとる」


(——え)


わたしは思わず父を見た。父は歯車に視線を落としたまま、続けた。


「『達者でいろ』だけじゃ、足りん気がしてな」


それだけ言って、父は黙った。


わたしは、何も言わずに、父の隣で歯車の山を見ていた。

父が次の手紙で、何を書くつもりなのかは、分からなかった。けれど父が「もう少し長く書く」と言ったこと自体が、何かの変化だった。


◇◇◇


夕飯の後、わたしは屋根裏で寝床に座っていた。


ノラは隣で、もう眠りに落ちていた。最近、ノラは眠りに落ちる前に必ずわたしの肩に頭をつけてくる。「ねぇね、ここにいて」と言って、それから安心したように目を閉じる。


今夜は、ノラの寝息を聞きながら、わたしは天井を見上げていた。


(——タール爺さんが、見回りの範囲を広げた)


(——お母さんが、わたしの作り方を「距離を縮める方法」と言った)


(——お父さんが、次の手紙を「もう少し長く書く」と言った)


家族と村が、ヨハンがいない時間の中で、少しずつ形を変え始めていた。


(——手紙のやり取りが、家族の日常に組み込まれた)


(——ヨハンは町にいるけど、わたしたちの中にも、ちゃんといる)


胸の奥で、温かい感覚が静かに広がった。


それから、頭の隅で、別の問いが立ち上がった。


(——もし、もっと速く繋がる手段があったら、どうなるだろう)


(——手紙が往復二十日かかる代わりに、もっと短い時間で届く方法が、もしあったら)


頭の中で、漠然とした輪郭が、また少しだけはっきりした。

狼煙のような視覚的な信号、それを符号化して文字に変える仕組み、複数の中継点で繋いでいく系——前世の遠い記憶が、ふっと顔を覗かせた。


(——いつか、作るかもしれない)


(——でも、今は、返事を書くだけでいい)


そう自分に言い聞かせて、目を閉じようとした。


——あ。


頭の中で、突然、別の自覚が立ち上がった。


(——わたし、また、一人で考えてる)


その自覚は、小さなものだった。けれど、はっきりした輪郭を持っていた。


頭の中で、今夜だけでも、いくつもの構想を一人で考え始めていた。狼煙のこと、符号化のこと、中継点のこと。それを誰にも話さないで、屋根裏で一人、組み立てようとしていた。


(——お兄ちゃんがいた頃は、こういう時に、お兄ちゃんが声をかけてくれていた)


(——『リナ、何考えてるんだ』って、わざと簡単な口調で)


(——あの声が、わたしを引き戻してくれていた)


その声は、今、屋根裏にない。


胸の奥で、温かさとは別の、ほんの少し冷たい感覚が立ち上がった。

怖い感じではなかった。ただ、何かが足りないことに気付いた、その感覚に近かった。


(——一人で考えるだけ、にならないように)


(——明日、お母さんに話そう。お父さんでもいい。誰かに話そう)


そう決めて、わたしはゆっくり目を閉じた。


ノラの寝息が、規則正しく繰り返されている。

屋根の向こうで、青の月の夜の風が家を一度だけ優しく撫でていった。


家の階下から、エマと父の低い話し声が、かすかに聞こえてきた。

わたしの作るものが、何のためにあるのかが、今夜はいつもより鮮明に見えていた。


そして、わたしが何のために考え続けるべきなのかも、少しだけ輪郭がはっきりした気がした。


■あとがき・解説


第74話は、ヨハン出立から一月あまりが過ぎ、村が次の季節に進み始めた頃の回でした。エマと一緒の市場の道で、村人たちが「ヨハン君、町でやってる?」と次々と声をかけてくる。タール爺さんが見回りの範囲を広げたと聞かされる。エマが「あなたは、何かを作るたびに、誰かとの距離を縮めてる」とリナの作り方を言葉にしてくれる。父が「俺の返事も、今度はもう少し長く書こうかと思っとる」と零す。その夜、リナが屋根裏で「また、一人で考えてる」と自覚する。今回はそのサブアーク 1-C / B5 締めくくりについて、少し長めに書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「うちの息子の話」——村のあちこちで交わされる、不在の証明


市場までの道で、村人たちが次々とエマに声をかけてくる場面。「ヨハン君、無事に着いた?」「あの子、訓練、厳しいって聞いたけど」。


前世の言葉でいうと、これは「不在の人を、共同体が共同で抱える」現象でした。ヨハンの身体はこの村にはありません。けれど村のあちこちで、ヨハンの名前が日々口に上っています。井戸端のおばさんが、麦畑の脇を通る男の人が、それぞれの場所でヨハンを話題にする。


リナが「お兄ちゃんは、もう、この村だけの人ではないんだ」と気付いた瞬間。それは少しの寂しさを含むと同時に、別の安心も含んでいました。ヨハンが町にいる時間を、家族だけが抱えているのではない。村全体が、一緒に抱えてくれている。エマが一つひとつの問いに丁寧に答えていたのは、その共同の抱え方を承認する作業でもありました。


■「タール爺さんが、見回りの範囲を広げた」——見えないところで動き続ける装置


エマからリナに伝えられた、タール爺さんの仕事の変化。


前世の言葉でいうと、これは「自動化が生んだ余力」の典型でした。リナの自動灌漑装置が、タール爺さんの北の水路の朝の見回りを引き受けてくれた。そのおかげで爺さんは、他の水路の見回りに時間を割けるようになった。新しい仕組みが一つ動き始めると、その仕組みが直接見ている場所だけでなく、その周りの人の動きまで少しずつ変わっていく。


リナはあの装置を作っただけで、その後の運用には直接関わっていません。けれど装置は、リナのいないところで動き続けていました。タール爺さんが見守ってくれているから。村人が朝にちゃんと水を引いてくれているから。リナの設計が、リナの手を離れて、村の生活の中で自分の足で立っていた。


「あの装置が、わたしのいないところでも、動いている」——リナがそう受け止めた瞬間、自分の作るものへの責任の感覚が、もう一段だけ深い場所に降りていきました。作って終わりではない。作った後も、誰かが見守り続けてくれている。その見守りに、自分の設計が応え続けなければいけない。


■「あなたは、距離を縮める方法を、見つける」——エマがリナに渡した、自分の作り方の名前


市場の道での、エマの突然の観察。


前世の言葉でいうと、これは「無自覚な癖の言語化」でした。リナはこれまで、自分が機械を作っているとき、その目的をいつも「困りごとの解決」として理解してきました。家計を計算する。水時計で時間を測る。麦を効率的に育てる。それは確かに正しい認識でした。


けれどエマは別の角度から、リナの作り方を整理してくれました。「お父さんの工房に通って、お父さんと話す手段を作った」「グスタフさんとの距離は、機械を一緒に作ることで縮めた」「ノラとも、絵を描かせたり、人形と話したりして、距離を縮めてる」「今度は、ヨハンとの距離を、手紙で縮めようとしてる」。


リナの作るものは、機能のためだけにあるのではなく、いつも「誰かとの距離」を縮めるためにあった。前世のリナが PM として「人と人の距離を縮める仕組み」を作ってきた癖が、転生先の家族と村の中で、もっと素朴な形で続いていた。エマはその癖に、当のリナよりも先に名前を与えてくれた人でした。


胸の奥でリナの中の何かが繋がり始めた感覚。それは前世と今のリナが、初めて「同じ動機」で動いていると確認した瞬間でもありました。


■「もう少し長く書こうかと思っとる」——父が初めて選んだ、別の長さ


父アルベルトが工房で歯車を磨きながら、ぽつりと付け加えた一言。


前世の言葉でいうと、これは「沈黙の流儀の更新」でした。父は前回の手紙で「達者でいろ」の五文字だけを書きました。あの五文字は、父の沈黙の作法を正確に表していた。けれど、その流儀を、父は自分で更新しようとしている。「『達者でいろ』だけじゃ、足りん気がしてな」。


何が足りないのかは、父も明確には言っていません。たぶん父自身にも、まだ完全には整理できていない。ただ「足りない気がする」という違和感だけが、父の中で確かに立ち上がっている。職人として時計の小さなねじを磨くのと同じ手つきで、父は自分の沈黙の中の小さなずれを撫でているのかもしれません。


「もう少し長く書く」と決めた父が、次の手紙で何を書くかは、まだ分かりません。けれど父が自分から流儀の更新を決めたという事実だけで、家族の中で何かが静かに動き始めていました。


■「——あ。わたし、また、一人で考えてる」——次のサブアークへの最初の予兆


屋根裏でリナが気付いた、自分の頭の使い方の癖。


前世の言葉でいうと、これは「思考の所在の問い直し」でした。狼煙のような視覚信号、それを符号化する仕組み、複数の中継点で繋ぐ系——リナの頭の中では、また新しい構想が勝手に立ち上がり始めていました。それを誰にも話さないで、屋根裏で一人で組み立てようとしている自分に、リナは突然気付きます。


「お兄ちゃんがいた頃は、こういう時に、お兄ちゃんが声をかけてくれていた」「『リナ、何考えてるんだ』って、わざと簡単な口調で」「あの声が、わたしを引き戻してくれていた」。


引き戻してくれる声が、今、屋根裏にはない。リナは小さく冷たい感覚に触れて、「明日、お母さんに話そう。お父さんでもいい。誰かに話そう」と自分に言い聞かせて目を閉じます。


この自覚は、リナにとっては大きな成長の一歩でした。けれど同時に、危うい兆候でもあります。「一人で考えるだけにならないように」と頭で決めても、頭の中で勝手に動き続ける構想は、簡単には止まりません。次のサブアーク 1-C 後半(B6)が、その危うさを正面から扱うことになります。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


兄が遠くに行き、村が次の季節に進み、リナの作ったものが村の生活の中で自分の足で立ち始めた。家族と村が、ヨハンのいない時間の中で、少しずつ新しい形に馴染んでいく。サブアーク 1-C / B5 の閉じ目に置かれた景色は、これまでに比べてずっと穏やかで、ずっと広い場所まで届いていました。次の話もお楽しみに。


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