第73話 最初の手紙
旅商人が来る日は、村の南の辻から荷車の音がする。
その日の朝、エマが台所から叫んだ。
「ヨハンから手紙が来た!」
わたしは屋根裏の階段の途中で、その声を聞いた。
身体が動く前に、心臓がひとつ大きく跳ねた。
階下に降りていくと、エマが両手で薄い紙を持って立っていた。封蝋はもう剥がされていて、エマの目が紙の上を素早く走っている。
「お母さん、お兄ちゃん?」
「ええ。ヨハンよ。ちゃんと、ヨハンの字」
エマがそう言って、紙をわたしに見せてくれた。
読みかけのまま、エマ自身は震えそうな手で紙の端を握っていた。
◇◇◇
ノラもエマの脚にしがみついて見上げていた。
「おてがみ?」
「うん。お兄ちゃんからのお手紙」
「お兄ちゃん、なんて、いってるの?」
「今、お母さんが読むからね」
ノラがエマの隣にちょこんと座る。
わたしもノラの隣に座って、エマが紙を読み上げるのを待った。
エマが、紙を太陽の方に向けてもう一度確認してから、ゆっくり声を出した。
「父さん、母さん、リナ、ノラ。元気にしています」
その一文だけで、わたしの胸の奥で何かが緩んだ。
ノラがエマの膝に飛び乗って、紙の中の文字を指でなぞった。
「文字、たくさん」
「うん。お兄ちゃん、たくさん書いてくれたね」
◇◇◇
エマが続きを読んだ。
「町は思ったより大きくて、最初の日は道に迷いそうになりました。自警団の宿は石造りで、屋根が高く、藁の床は思ったより臭いです。バルツさんが言ってた通りです」
そこでエマがふっと笑った。
「飯はまずいです。麦は粉が古いし、肉はろくに塩がしてないし、スープはぬるい。母さんの作る麦のスープが恋しいです」
エマの目に、軽く水が滲んだ。けれど、彼女はそれを瞬きで散らして、また続きを読んだ。
「訓練は厳しいけれど、俺は大丈夫です。先輩たちは怖い顔をしているけれど、悪い人たちじゃない気がします」
ノラが、エマの読む声に合わせて、紙の上の文字をひとつずつ指で押さえていく。意味は分からなくても、ノラはこの儀式に参加していたかった。
「父さん。時計修理道具は、宿の同じ部屋の先輩が驚いていました。『村の鐘時計師さんからもらったのか』と聞かれて、誇らしかったです。袋の中の、人形の手の切れ端も、ちゃんと持っています。ノラ、おまもり、効いてるよ」
「ねぇね」
ノラが、わたしの方を向いて、何度か頷いた。
「ノラ、ねぇね、おまもり、ちゃんと、ついてる」
「うん。ちゃんと、ついてるね」
その四歳児の真剣な顔に、わたしはうまく言葉を返せなかった。
◇◇◇
「リナへ。お前の作るものを、町から見てる、と言った約束は今も覚えてる」
エマが、その一文を読んだとき、わたしの心臓がまた跳ねた。
「町の道具屋を歩いていたら、見覚えのある形の小さな板に、玉のついた珠盤を見た。誰が作ったかは分からないけど、リナがうちの工房で作ったあれに、よく似ていた」
(——え)
頭の奥で、その一文が、すっと冷たく置かれた。
「俺もよくは分からないけど、町には『どこから来たか分からないけど面白い形の道具』が、けっこう並んでいる。リナの珠盤がそうじゃないとは思いたい。でも、似てたから書いておく」
エマが、紙を読みながら、ふとわたしの方を見た。
わたしはまだ、その一文を頭の中で繰り返していた。
(——お兄ちゃんが、町で、見覚えのある珠盤を見た)
(——誰が作ったか分からないけど、似ていた)
胸の奥で、別の熱が立ち上がった。
それは怒りに近い熱だった。けれど、誰に向けたものなのか、自分でも分からない熱だった。
◇◇◇
エマが続きを読んだ。
「ノラに伝えてください。ちゃんと帰ります。祭礼の日に。約束です。父さんと母さんとリナにも、よろしく」
「お兄ちゃんへ」と書いて、エマが手紙を畳んだ。
「みんなで、お返事を書きましょう」
エマがそう言って立ち上がり、棚から薄い紙の束と、ペンと、小瓶の墨を取り出した。
普段は、村への請求書や、ハーラム町への注文書のために置いてある紙とペンだった。今日は、それが家族のための紙と道具になっていた。
◇◇◇
父アルベルトが工房から出てきた。
「ヨハンから、手紙が来たそうだな」
「ええ」
「読んだか」
「読みました」
エマが、手紙を父に渡した。父が紙を持って、目を細めて読み始めた。
読み終わるのに、思ったより時間がかからなかった。
「で。返事は」
「みんなで書きましょう」
「俺は、後でいい」
父はそう言って、また工房に戻った。
エマが少しだけ笑った。
「お父さん、何を書くか考えてるのよ。きっと、長い時間考えて、短い言葉を書くわ」
「うん」
わたしも、それは知っていた。
◇◇◇
エマがまず書いた。
ペンを動かすあいだ、エマは口の中で何かを呟いていた。「畑」「雷の月」「お父さんは元気」「ノラの言葉が増えた」「リナの装置はちゃんと動いている」——そういう言葉が、紙の上に並んでいった。
エマの返事は、ヨハンの手紙とほぼ同じ長さだった。
次にノラが、エマの隣で紙の余白に何かを描いた。
「ノラ、お兄ちゃんに、おてがみ」
「うん。何を描いたの?」
「ノラと、ねぇねと、お兄ちゃんと、おかあさんと、おとうさん」
ノラが描いたのは、五本の縦線だった。背の高い線、それより少し低い線、もう少し低い線、もっと低い線、いちばん低い線。五人の家族が、紙の余白に並んでいた。
その線の横に、もう一本、ノラが線を引いた。
「ねぇね、これは?」
「お人形の、手」
紙の中で、人形の手の切れ端まで一緒に立っていた。
◇◇◇
わたしの番が来た。
エマがペンと紙をわたしの前に置いてくれた。
わたしは、何を書くか、長いあいだ決められなかった。
書くべきことは、たくさんあった。お父さんが元気なこと。お母さんが少し疲れているけど笑っていること。ノラが「ノラ、まてるよ」と言って胸を張ったこと。父が工房の机にお兄ちゃんの椅子を引き寄せて、それからずっと動かしていないこと。
そして——町の道具屋で、見覚えのある珠盤を見たという話。
(——その話を、書くべきだろうか)
(——書いたら、お兄ちゃんが心配するかもしれない)
(——でも、書かなかったら、わたしがそれを抱えたままになる)
わたしはペンを取って、書き始めた。
「お兄ちゃんへ。こっちは元気です。お父さんは口数が少ないままで、お母さんは粥を少し多めに作るのが癖になっています。ノラは、お兄ちゃんが帰ってくる日を、ちゃんと指折り数えて待っています」
そこで、わたしは少し息を吸った。
「お兄ちゃんが見たという珠盤の話、わたしも気になります。今は、どうしたらいいか分からない。でも、そのうち、何かを考えます。お兄ちゃんが見てくれると言ってくれたから、わたしは、また何かを作ります」
そこまで書いて、わたしはペンを置いた。
書きたいことの半分も書けていない気がしたけれど、書きすぎてもいけない気がした。
エマが横でわたしの返事を覗き込んで、軽く頷いた。
◇◇◇
父アルベルトが工房から戻ってきたのは、エマがすべての紙をまとめ始めた頃だった。
父は紙を一枚取って、何の前置きもなしにペンを動かし始めた。
ペンが紙の上を動いたのは、本当に短い時間だった。
「達者でいろ」
それだけ書いて、父はペンを置いた。
エマが、その五文字を見て、しばらく微笑んでいた。
「お父さんは、お父さんよね」
父は何も答えずに、また工房に戻った。
◇◇◇
エマが、五人分の手紙を一つの包みにまとめた。
それを持って、わたしたちは家の外に出た。
旅商人は、村の南の辻で荷車を整えていた。
エマが包みを差し出すと、旅商人は丁寧に受け取って、自分の革の袋の中にしまった。
「ありがとうございます」
「ヨハン君に、ちゃんと届けますよ」
「次は、いつ来ますか」
「十日後くらいですね。各村を巡って戻ってくるまでが、わたしの仕事の周期です」
旅商人がそう言って、荷車に乗り込んだ。
往復で二十日。十日ごとに来てくれる巡回の周期。
その数字が、頭の隅でまた小さく光った。
(——もっと速く繋がる仕組みが、あればいいのに)
頭の中で、その輪郭がまた少しだけはっきりした。けれど、それを言葉にするのは、今ではない気がした。今は、ただ、この紙の包みが旅商人の袋に入った事実だけで十分だった。
◇◇◇
旅商人の荷車が、村の南の道を進んでいく。
わたしは、その後ろ姿を、しばらく見ていた。
(——手紙が着くのに十日)
(——返事が着くのに十日)
(——それでも、声よりずっと遠くまで届く)
頭の中で、その時間をゆっくり噛みしめた。
速くはない。けれど、確かに、届く。
(——お兄ちゃんは、まだここにいる)
(——あの紙の中に、いる)
胸の奥で、別の熱が静かに広がった。
それは怖い熱ではなくて、温かい熱だった。
■あとがき・解説
第73話は、旅商人がヨハンの最初の手紙を運んできて、家族で囲んで読み、それぞれの返事を書く回でした。エマが鍋の前で「ヨハンから手紙が来た」と叫ぶ。ノラが紙の上の文字を指でなぞる。父アルベルトが「達者でいろ」の五文字だけを書く。リナが町の道具屋で見覚えのある珠盤を見たという一節に胸の奥で熱を立ち上げる。今回はその「最初の手紙の温度」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「往復二十日」——遅さの中にしかない温度
旅商人が「往復で二十日」と告げた、手紙の周期の長さ。
前世の言葉でいうと、これは「通信の帯域と遅延」の話でした。前世のリナはたぶん、電子メールや短信のように一秒で届く通信に慣れていた人でした。けれどこの世界では、家族と兄の間の通信は、十日ごとに巡回する旅商人の革袋に依存しています。手紙が届くまで十日、返事が届くまでさらに十日。
ふつう、遅さは不便さです。けれどこの場面の遅さは、それだけではありませんでした。エマが紙を太陽の方に向けて文字を確かめる動作。ノラがエマの膝に乗って文字を指でなぞる動作。父が長い時間考えてから短い言葉を書く動作。家族みんなで一枚の紙を囲む時間そのものが、遅さの中にだけ生まれる温度を含んでいました。
リナが手紙を旅商人の革袋に渡した後、「手紙が着くのに十日、返事が着くのに十日、それでも、声よりずっと遠くまで届く」と受け止めた瞬間。遅さは不便さである前に、別の確かさでした。声ではなく、文字で、繰り返し読み返せる形で、ヨハンの存在が家の中に残り続ける。
■「達者でいろ」——五文字に圧縮された父の手紙
父アルベルトが長い時間考えてから書いた、五文字だけの返事。
前世の言葉でいうと、これは「最大圧縮率の通信」でした。父は工房に何度か戻って、その間ずっと「何を書くか」を考えていました。エマが「お父さん、何を書くか考えてるのよ。きっと、長い時間考えて、短い言葉を書くわ」と前置きしてくれたとおり、父が選んだのは五文字でした。
「達者でいろ」。健康でいろ、無事でいろ、ちゃんと生きていろ。短い慣用句のようでいて、父が長い時間をかけて選んだ五文字には、もっと多くのことが含まれていました。「俺は心配している」とも「俺は信じている」とも書かない代わりに、ヨハンの身体がそこにあり続けることを、いちばん簡素な日本語で願う。
父の沈黙はこれまで何度も描かれてきましたが、今回はその沈黙が「文字」というかたちで初めて家族の前に置かれた瞬間でもありました。エマが「お父さんは、お父さんよね」と微笑んだのは、夫の沈黙の流儀が紙の上にきちんと現れたことへの、長年連れ添った人だけが分かる頷きだったのだと思います。
■「町の道具屋の、見覚えのある珠盤」——遠くから差し込んだ、別の影
ヨハンの手紙の中の一節——町の道具屋に、リナの作った計算珠盤に似た形のものが並んでいた、という報告。
前世の言葉でいうと、これは「知らない場所での技術の伝播」でした。リナはこれまで、自分の作るものは家と村と、せいぜいハーラム町まででしか流通していないと思っていました。けれどヨハンの手紙は、もう一段遠い場所で、誰かがリナの設計に似たものを並べていた、と告げてきます。
「誰が作ったか分からないけれど、似ていた」。その曖昧さが、リナにとっては痛い曖昧さでした。同じ仕組みを誰かが独立に発明した可能性。村から外に出た情報が、どこかで模倣された可能性。あるいはハーラム町で売ったものが、別の手を経て遠くまで運ばれていた可能性。どれであっても、リナの作ったものが、リナの知らないところで動き始めていることだけは確かでした。
リナが胸の奥に立ち上げた「怒りに近い熱」は、たぶん怒りそのものではありません。自分の作ったものに対する責任の輪郭が、自分の目の届かない場所まで広がりかけている、という気付きの熱でした。九歳の少女が、この熱の正体を整理するには、まだ時間がかかります。
■「お兄ちゃんは、まだここにいる」——紙の中に住む人
旅商人の荷車が南の道を進んでいくのを見送りながら、リナが受け取った静かな温度。
前世の言葉でいうと、これは「メディアの中に保存された存在」でした。ヨハンの身体はもうこの家にはいません。けれどヨハンの書いた文字は、エマの手の中に保管されている。ノラがいつでも指でなぞれる。父が工房で何度でも読み返せる。リナの返事の隣に、ヨハンの手紙が並んで置かれている。
「お兄ちゃんは、まだここにいる」「あの紙の中に、いる」——リナがそう受け止めた瞬間、紙という物体は、ただの通信媒体ではなく、家族のもう一つの居場所になりました。前世の人類が文字を発明した本当の理由が、たぶんこの一行の中にあります。離れた人と一緒にい続けるための仕組み。
旅商人の革袋に紙の包みが入った事実だけで、今夜は十分だった——リナがそう自分に言い聞かせて、頭の中の漠然とした構想(もっと速く繋がる仕組み)を、いったん棚の上に戻した場面。家族のための仕組みは、すでに「手紙」というかたちで動き始めていました。リナがそれを認めたところから、次の話が始まります。次の話もお楽しみに。




