第72話 一人足りない家
朝の食卓に、ヨハンの席が空いていた。
昨日もそうだった。
なのに、今日も目が行ってしまった。
萌の月二十一日の朝。窓の外はまだ薄い藍色で、台所の蝋燭の火が、いつもより明るく見えた。エマが粥を椀に注ぐ。父アルベルトが工房の扉を開けに行く前に、一度だけ食卓を振り返る。
そして父の視線が、ヨハンの席の上で、ほんの一瞬止まった。
すぐに父は工房に向かった。扉が閉まる音だけが、いつもよりほんの少しだけ大きく聞こえた。
(——お父さん)
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
◇◇◇
朝食の後、わたしは台所でエマを手伝っていた。
椀を洗う。布で拭く。棚に戻す。
そのあいだ、エマは新しい鍋に湯を沸かしながら、何かを呟いた。
「あら」
「どうしたの、お母さん?」
「いえ、別に」
エマがそう言って、笑った。けれど、その笑顔は、いつもの笑顔より少しだけ薄かった。
「鍋に、お湯を多く沸かしすぎちゃった」
「あ……」
ヨハンの分が、まだ無意識のうちにエマの手の中にあった。
「ヨハンの好きな麦のスープ、また作っちゃったわ」
エマがそう言って、軽く笑った。それから少しだけ寂しそうに、湯気の立つ鍋を見た。
「お母さん、わたしも食べる」
「うん。リナと、ノラと、お父さんで、いただきましょう」
エマがそう言って、もう一度笑った。
(——お母さんの笑顔が、ちょっと、いつもと違う)
(——でも、お母さんは笑ってる)
その違いを、わたしは胸の奥で確かめた。
◇◇◇
午後、ノラが庭で人形と話していた。
「ねぇね、おにわで、おはなしする」
ノラがわたしの手を引っ張ってきたので、わたしは庭に出た。萌の月の昼の陽は柔らかくて、井戸の縁の石が温かそうだった。麦畑の畝の間で、若い緑が日に日に伸びていく頃合いだった。
ノラが井戸の脇に座って、人形を膝の上に置いた。
「ねぇね、おすわり」
「うん」
わたしも隣に座った。
ノラがしばらく、何も言わずに人形の髪を撫でていた。それから、ふいに顔を上げた。
「ねぇね」
「うん」
「お兄ちゃん、いないね」
ノラの声は、特に悲しそうではなかった。むしろ、何かを発見した子供のような、純粋な観察の声だった。
「うん。お仕事に行ったんだよ」
「おしごと、なに?」
「お兄ちゃんは、町に行って、人を守るお仕事を覚えるんだよ」
「ふうん」
ノラが、人形の頭を一度撫でて、それからわたしの方を向いた。
「ノラね、お兄ちゃんが、かえってくるの、まってる」
「うん」
「ノラ、まてるよ」
ノラが、わずかに胸を張ってそう言った。
小さな身体で、大きな約束を引き受けた顔だった。
胸の奥で、わたしは少し笑った。
四歳の妹が「待てる」と言うとき、その言葉の重さは、たぶん大人が想像するよりずっと真剣だった。
◇◇◇
ノラが人形と並んで眠りに落ちた後、わたしは父の工房を覗いた。
父は鐘時計の小さな歯車を、いつもの場所で並べていた。机の隅に、ヨハンが昨日まで使っていた木の椅子が置いてあった。普段は工房の隅で休憩用に使うだけの椅子なのに、今日はなぜか机の脇に引き寄せられていた。
「お父さん」
「ん」
「手伝う?」
父が、わたしを少しだけ見て、首を横に振った。
「今日はいい。お前さんは、お母さんを手伝ってきな」
「うん」
それだけで終わった。
普段なら、何かのついでに「これを触ってみい」と言ってくれる父が、今日は工房の中でじっと自分の作業に向かっていた。
椅子は、ヨハンが座っていた位置のまま動かなかった。
(——お父さんは、口に出さないけど)
(——お兄ちゃんがいなくなった工房の空気を、ちゃんと感じてる)
胸の奥で、もう一段、温かい熱が立ち上がった。
◇◇◇
夜になって、わたしは屋根裏の自分の布団に座っていた。
ノラは隣で、もう寝息を立てていた。
今夜のノラは、いつもよりわたしに近い位置で眠っていた。眠りに落ちる前に、ノラはわたしの肩に頭をくっつけて「ねぇね、ここにいて」と言ったのだ。
階下から、エマと父の小さな話し声がかすかに聞こえた。話の内容までは届かなかった。ただ、エマの声の抑揚と父の短い返事の音が、いつもより低い周波数で繰り返されていた。
(——お母さんとお父さんも、今夜は、ヨハンの話をしているのかもしれない)
(——あるいは、何も話さないでただ並んでいるのかもしれない)
頭の中で、いつかの夕方の食卓を思い出した。
ヨハンがバルツさんの真似をして笑っていた夜。
ノラが人形の手の切れ端をテーブルに置いた夜。
父が「壊れたものを直す癖をつけろ」と背中越しに言った夜。
どれも、まだ三日と経っていない出来事だ。
なのに、もう遠い昔の景色のように思えた。
(——お兄ちゃんがいた頃、わたしは何をしていたんだろう)
頭の中で、ふいに、その問いが立ち上がった。
——机の上で機械を組み立てていた。
——歯車を一つひとつ並べて、合わせて、回していた。
——プレヴェルティスを唱える祭司様の隣で、観察していた。
——自動灌漑装置の動きを、村人と一緒に見守っていた。
どれも一人でしていたわけではない。隣に父がいた。エマがいた。グスタフがいた。エルナがいた。タール爺さんがいた。
そして——お兄ちゃんがいた。
(——お兄ちゃんは、何かを直接手伝ってはいなかった)
(——でも、いつも、家の中のどこかにいた)
(——わたしが工房で何かを作っているとき、ヨハンは台所で何かを食べていたり、外で薪を割っていたりした)
(——それが、当たり前だった)
(——その「当たり前」が、今夜は、ない)
◇◇◇
午前中、ノラが工房の入り口で立ち止まったことを思い出した。
ノラはわたしが工房に入ろうとしたとき、扉の前で立ち止まって、机の上の道具を指差したのだ。
「ねぇね、これなあに?」
「これは、お父さんが時計を直すための、小さなねじ回しだよ」
「ふうん」
ノラが、じっと机の上の道具を見ていた。それから「ノラもね、いつか、いじる」と小さな声で言った。
そのときは、軽い気持ちで「うん、いつかね」と答えただけだった。
でも今、屋根裏で寝床に座って考えると、その言葉の重さが少しだけ違って見えた。
(——ノラが、お父さんの道具を見て「いじる」と言った)
(——四歳の子が、自分から、そう言った)
頭の隅で、何かの種が小さく芽吹いた気がした。けれど、まだ言葉になる前の、ぼんやりとした感覚だった。
◇◇◇
ノラの寝息が、規則正しく繰り返されている。
階下のエマと父の話し声は、もう聞こえなくなっていた。
天井の梁を見上げる。
(——お兄ちゃんは、今頃、町の宿で寝てるのかな)
(——藁の臭い宿で、知らない天井を見上げているのかな)
(——わたしと同じように、隣に妹がいない部屋で、何を考えているのかな)
胸の奥で、また別の熱が立ち上がった。
頭の中で、ふと「手紙でもいいから、お兄ちゃんの声が聞こえたら」と思った。
手紙は声じゃない。けれど、お兄ちゃんが書いた文字を見るだけでも、たぶん少し違う。
(——でも、手紙が届くのは十日後)
十日。
その数字が、また頭の隅で小さく光った。
(——もっと速く繋がる方法は、ないんだろうか)
(——今は思いつかない。でも、いつか——)
そこまで考えて、わたしは目を閉じた。
頭の中で漠然とした輪郭がはっきりした形になる前に、夜が深くなっていった。
ノラが寝言で「ねぇね……」と呟いた。
わたしは目を開けないまま、ノラの背中に手を添えた。
——お兄ちゃんがいた頃、わたしは何をしていたんだろう。
机の上で機械を組み立てながら、隣に誰かがいることを、当たり前だと思っていた。
■あとがき・解説
第72話は、ヨハンが家を出てからの最初の半月を、家族それぞれの「不在の受け取り方」で描いた回でした。エマが鍋に湯を多く沸かしすぎてしまうこと。父が工房の机の脇にヨハンの椅子を引き寄せたまま動かさないこと。ノラが「ノラ、まてるよ」と胸を張ったこと。そして屋根裏でリナが「お兄ちゃんがいた頃、わたしは何をしていたんだろう」と気付いたこと。今回はその「不在の可視化」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「鍋の中の、ヨハンの分」——身体が覚えている習慣
エマが朝の鍋に湯を多めに沸かしてしまって、ふっと笑った場面。
前世の言葉でいうと、これは「身体に刻まれた手順」でした。何年も毎朝同じ人数分の湯を沸かしてきた手は、頭で「今日からは四人分」と切り替えても、すぐには新しい手順に追従しない。手のひらの記憶の方が、家族の人数より先に動いてしまう。
エマがその「沸かしすぎ」を「ヨハンの好きな麦のスープ、また作っちゃったわ」と笑いに変えた瞬間、彼女は自分の身体の記憶を否定しないやり方を選びました。失敗として扱うのでも、悲しみとして扱うのでもなく、思い出として一度だけ笑う。母としての生活力の中に、不在を受け止める柔らかい器が、すでにもう一つ用意されていたのだと思います。
リナがその笑顔を「いつもの笑顔より少しだけ薄い」と気付いた瞬間。エマが自分の中で何かを耐えていることを、リナはすでに観察し始めていました。けれどリナはそれを口にしなかった。お母さんが笑っているのなら、その笑顔をそのまま受け取ろう、と決めた瞬間でもありました。
■「椅子を引き寄せたまま、動かさない」——父の悼み方
父アルベルトの工房の机の脇に、ヨハンが普段使っていた木の椅子が引き寄せられたまま動かない場面。
前世の言葉でいうと、これは「形を残すことで、関係を続ける」工夫でした。父はヨハンの名前を口にしません。「ヨハンがいないな」とも「ヨハンは元気か」とも言いません。代わりに、ヨハンが座っていた椅子の位置を、無意識のうちに自分の机の隣に引き寄せている。
その椅子は、たぶん父が時計の修理をする最中に、ふと振り向けば隣に誰かがいる、という錯覚を許してくれる装置でした。職人の沈黙の中で、形が言葉の代わりをする。「ヨハンに今日この歯車の話をしたい」という気持ちを、椅子の位置だけで保留しておく。
リナが「お父さんは、口に出さないけど、お兄ちゃんがいなくなった工房の空気を、ちゃんと感じてる」と気付いた瞬間、九歳の娘は父の感情の輪郭を、はじめて自分の言葉で輪郭づけました。父の悲しみは、いつもの場所に置いてある椅子の位置で、ちゃんと表現されていたのです。
■「ノラ、まてるよ」——四歳児の選んだ役割
ノラが井戸の脇で「ノラ、まてるよ」と胸を張った場面。
前世の言葉でいうと、これは「自分にできることの宣言」でした。四歳の子供が「待つ」という行為を、自分から積極的に引き受けると決めた瞬間。第71話の朝、馬車が消えた後にエマの肩で泣いていたあの子が、半月のうちに「待つこと」を自分の仕事にしようとしている。
四歳児にとって「待つ」は、たぶん大人が想像する以上に重い動作です。時間の輪郭がまだはっきりしていない年齢で、いつ終わるか分からない距離を引き受ける。それでもノラは胸を張った。たぶん、家族の中で自分にもできる役割が何かあるはずだと、四歳の頭が直感していたからでした。
リナが「四歳の妹が『待てる』と言うとき、その言葉の重さは、たぶん大人が想像するよりずっと真剣だった」と受け止めた瞬間、ノラの宣言はリナの胸の中で正式に受領されました。家族の中で、一番小さな人が、一番大きな仕事を引き受けてくれていたのです。
■「机の上で機械を組み立てながら、隣に誰かがいることを当たり前だと思っていた」——リナの夜の気付き
屋根裏でリナが気付いた、自分のこれまでの作業時間の景色。
前世の言葉でいうと、これは「環境の前提条件の言語化」でした。リナはこれまで、自分の発明をすべて「自分が考えて、自分が組み立てた」と思ってきました。けれど振り返ってみると、自分が手を動かしている横では、いつも誰かが家の中の別の作業をしていた。父が時計を磨いていた。エマが粥をかき混ぜていた。ヨハンが薪を割っていた。ノラが人形と話していた。
直接手伝ってもらっていたわけではない。けれど、自分が一人で考えていたわけでもなかった。家の中の空気の中に、家族の生活音がいつもあった。その「いつもある音」が、リナの集中を支えていた。
ヨハンがいなくなって、家の中の音が一つ減りました。リナは初めて、自分の集中が「家族の生活音の中に置かれた集中」だったと気付き始めます。「もっと速く繋がる方法は、ないんだろうか」と頭の隅で思いついた問いは、リナが「兄の不在を埋めたい」と願う気持ちの、最初の発火点でもありました。
ノラが寝言で「ねぇね……」と呟いて、リナがノラの背中に手を添える。机の上で機械を組み立てながら隣に誰かがいることを当たり前だと思っていた、というリナの自覚。次の話もお楽しみに。




