第71話 別れの朝
台所がいつもより早く動いていた。
足音の数が、いつもより一つ多かった。
今日だ、と思ったとき、もう目が覚めていた。
屋根裏の小窓の外は、まだ薄い灰色の空だった。麦畑の若い穂が朝の風に揺れている気配が、窓の隙間から伝わってくる。萌の月もそろそろ後半に入ろうかという朝だった。
(——今日、お兄ちゃんが家を出る)
頭の隅でその事実をもう一度確認しながら、わたしは寝床から起き上がった。
隣のノラは、まだ眠っていた。
◇◇◇
階下に降りると、台所にはエマと父アルベルトが並んで立っていた。
エマがパンを切り、父がぜんまい時計の小さな修理をしている。出立の朝にしては、いつもと変わらない朝の風景にも見えた。
ただ、ヨハンが台所の隅で、新しい上着を羽織っているのが目に入った。
濃い灰色の毛織の上着。袖の縁が丁寧に縫い直されていて、襟の内側に小さな刺繍があった。エマが昨夜遅くまで手を入れていたのだろう。
「おはよう」
わたしが声をかけると、ヨハンが軽く手を上げた。
「ああ」
「上着、似合うね」
「お母さんが、何度も寸法を直してくれた」
「うん」
エマが台所からヨハンを見て、ほんの少しだけ微笑んだ。それから何も言わずに、パンの一切れをヨハンの皿に置いた。
普段より少しだけ厚く切ったパンだった。
◇◇◇
朝食の途中で、玄関の戸が叩かれた。
「アルベルトさん。ヨハンの馬車、用意できとる」
旅の御者の声だった。父が「すぐ行く」と答えて、立ち上がる。
ヨハンが、まだパンを口に入れたまま、慌てて飲み込んだ。
「行こう」
父が短く言った。
ノラがいつの間にか階段の下に立っていて、寝起きの顔のまま、エマの脚にしがみついていた。
「ノラもいく」
「いいよ。ノラもおいで」
エマがノラを抱き上げて、コートを羽織らせた。
◇◇◇
家の外に出ると、村の入り口の方に馬車が見えた。
御者の隣に座っているのは、ヨハンの旅立ちを待っていた荷台の二人連れ——彼らも町まで同じ馬車で行くらしい。
朝露の残る土を踏みながら、家族五人で歩いた。
(——五人で歩くのは、今朝が最後だ)
頭の中でそう数えながら、わたしは隣のヨハンを見上げた。
ヨハンは前を見て歩いている。けれど、ときどき、ほんの少しだけ歩幅が大きくなる瞬間があった。早く着きたい、と早く出てしまいたい、が両方混ざった歩き方に見えた。
村の入り口の手前で、エルナがいた。
それから、グスタフ親方も来ていた。
「ヨハン」
エルナが穏やかな声で呼んだ。
「はい」
「あなたが町で過ごすあいだ、村の祭司として祈っています」
「ありがとうございます」
ヨハンが深く頭を下げた。グスタフは何も言わなかった。ただ、ヨハンの肩を一度、軽く叩いた。それだけだった。
ヨハンが、その大きな手の感触を、上着越しに確かめるように肩に手をやった。
◇◇◇
馬車の前に来ると、父アルベルトが車輪の一つに歩み寄った。
しゃがんで、軸の継ぎ目を指で撫でる。長く時計に向き合ってきた人の手つきだった。
「しっかり作られてる」
父が、誰にともなく言った。
御者が「ええ、町まで二日です。安心して任せてください」と少し笑った。
父はそれだけ確認すると、立ち上がってヨハンを見た。
何も言わなかった。
ただ、頷いた。
ヨハンも、頷き返した。
それから父は背中を向けて、馬車の反対側へ歩いていった。
肩のあたりが、いつもより少しだけ強張って見えた。
(——お父さん)
(——本当は、何か言いたいんだと思う)
(——でも、言わないことが、お父さんの言い方だ)
胸の奥で、小さく熱が立ち上がった。
◇◇◇
「お兄ちゃん」
ノラが、エマの腕の中からヨハンを呼んだ。
「ん?」
ヨハンが、ノラの方に屈み込んだ。
「お兄ちゃん、かえってくる?」
ノラの目は、寝起きで少し赤く、髪は一筋だけ寝癖が残っていた。けれど、その問いだけは、はっきりした声で出てきた。
ヨハンが、ノラの目をまっすぐ見て、答えた。
「ちゃんと帰ってくるよ」
「いつ?」
「祭礼の日には」
「さいれいって、いつ?」
「うーん、陽の月の終わりごろ」
ノラが、しばらく考えてから、頷いた。
「うん。ノラ、まってる」
ノラの手が、ヨハンの上着の袖をぎゅっと握った。ヨハンがその小さな手をそっと取って、軽く持ち上げてから、また下ろした。
「行ってくる、ノラ」
「うん」
ノラの手が、ヨハンの袖から、ゆっくり離れた。
◇◇◇
ヨハンが、最後にわたしを見た。
「リナ」
「うん」
「行ってくる」
「うん」
(——何か言わなきゃ)
(——昨夜、お兄ちゃんが言ってくれた言葉に、ちゃんと返さなきゃ)
頭の中でそう焦ったのに、口から出てきたのは、それじゃなかった。
「気をつけてね」
「ああ」
ヨハンが、ほんの少しだけ笑った。
「お前さんも、気をつけてな」
「うん」
「リナ」
「うん」
「昨夜のあれ、覚えとけ」
「うん。覚えてる」
ヨハンが、それだけ言って、馬車に乗り込んだ。
御者が手綱を握り直した。荷台に座っていた二人連れが、軽く挨拶を返してきた。
「では、参ります」
御者の声が、朝の空気に乗って広がった。
◇◇◇
馬車が、ゆっくりと動き始めた。
二頭立ての馬が、最初の一歩を踏み出す音。木の車輪が朝露の土を踏みしめる音。それから、後ろの荷物がほんの少しだけ揺れる音。
家族みんなで、馬車の後ろ姿を見ていた。
エマは、ノラを抱いたまま、何も言わなかった。
父は、両手を腰の後ろで組んで、まっすぐ前を見ていた。
エルナは、いつものように、静かに胸の前で手を合わせていた。
馬車が、村の道を進んでいく。
道の途中で、ヨハンが一度だけ、こちらを振り返った。
手を振りはしなかった。けれど、目だけは、わたしたち五人を一度ずつ確認するように見ていた。
それから、ヨハンはまた前を向いた。
馬車が、丘の麓のところで小さくなっていく。
丘を上っていく。
丘の頂に達する。
そして——
丘の向こうに、消えた。
◇◇◇
しばらく、誰も動かなかった。
朝の風が一度だけ吹いて、麦畑の若い穂を、わずかに撫でていった。
「お母さん」
ノラがエマの首にしがみつきながら、小さな声で言った。
「お兄ちゃん、ほんとに、かえってくる?」
「うん。帰ってくる」
エマが、ノラの背中を撫でながら答えた。
「ほんとに?」
「うん」
「うそじゃない?」
「うそじゃない」
ノラが、エマの肩に顔を埋めた。それから、肩がほんの少しだけ揺れた。
ノラは、エマの腕の中で、小さく泣いていた。
◇◇◇
父が、くるりと向きを変えた。
「戻ろう」
それだけ言って、村の方へ歩き始めた。エマもノラを抱いたまま、その後をついていく。エルナとグスタフが小さく会釈をして、それぞれの道へ戻っていった。
わたしだけが、丘の端を見続けていた。
馬車は、もう見えなかった。
丘の頂きには、薄く広がった萌の月の朝の光だけがあった。
朝露が解け始めて、麦畑の若い穂の根元に、細かな光の粒が残っていた。
(——お兄ちゃんが、行った)
(——本当に、行った)
頭の中で、その事実が、ゆっくりと形になっていった。
怖い、悲しい、寂しい、という言葉のどれも、ぴったり当てはまらなかった。
ただ、「消えた」。
それだけの言葉しか、出てこなかった。
家族の足音が、後ろから遠ざかっていく。
わたしは、まだ、そこに立っていた。
■あとがき・解説
第71話は、ヨハンが朝の馬車で町に旅立つ別れの朝の回でした。新しい上着、御者の声、車輪を撫でる父の手つき、ノラの「お兄ちゃん、かえってくる?」、それからヨハンが最後にこちらを振り返って四人を一度ずつ見た瞬間。馬車が丘の向こうに消えてから、ノラがエマの肩で小さく泣き、リナだけが丘の端を見続けていました。今回はその「別れの形」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「言わないことが、言い方になる」——父アルベルトの別れの作法
父が馬車の車輪の継ぎ目を指で撫でて、御者に「しっかり作られてる」と告げてから、ヨハンに頷きだけを返した場面。
前世の言葉でいうと、これは「行動による言葉の代替」でした。父は最後まで「気をつけろ」とも「達者でな」とも言わなかった。代わりに、車輪の軸の継ぎ目を確かめる手つきで「お前を運ぶ道具が、ちゃんと作られているかどうかを俺が見届けた」と伝えた。
職人の確かめ方は、口の中の言葉ではなく、指先の感触の中にあります。父はヨハンへの気持ちを、車輪の中に一度通してから渡しました。リナが「お父さんは、本当は、何か言いたいんだと思う。でも、言わないことが、お父さんの言い方だ」と気付いた瞬間、父の沈黙が初めて積極的な意味を帯び始めた。沈黙そのものが、父からヨハンへの一行の手紙のようなものでした。
■「ちゃんと帰ってくる?」——四歳児が選ぶ、いちばん難しい問い
ノラの「お兄ちゃん、かえってくる?」「いつ?」「さいれいって、いつ?」という連鎖の問い。
前世の言葉でいうと、これは「約束の具体化」でした。四歳児にとって「祭礼の日」という抽象は、まだ時間の中の位置を持っていません。だからノラは「いつ?」を二度繰り返した。その繰り返しに対して、ヨハンは「陽の月の終わりごろ」と、彼女が分かるかもしれない目印を一つ置きました。
ノラがしばらく考えてから「うん。ノラ、まってる」と頷いた瞬間、その小さな身体は、自分の手の届かない時間を相手にする練習を始めていました。ヨハンの上着の袖を握って、ゆっくり離す手の動き。四歳の手が、自分から「離す」ことを選んだ最初の経験だったかもしれません。
馬車が動き出した後、ノラがエマの肩で「ほんとに?」「うそじゃない?」と何度も確かめ直したのは、約束の重さを四歳の頭で受け止め直す作業でした。そして、その確かめの最後に、肩がほんの少しだけ揺れて、小さく泣いた。約束を信じる準備ができたから、ようやく泣けたのだと思います。
■「振り返って、四人を一度ずつ確認する」——ヨハンの別れの作法
ヨハンが馬車の上から一度だけこちらを振り返って、手を振らずに、目だけで四人を一度ずつ確かめた場面。
前世の言葉でいうと、これは「記憶のための最後の観測」でした。十四歳の少年が、これから知らない町で過ごす日々のために、家族の最後の姿を一人ずつ自分の中に焼き付けていく。手を振るのではなく、ただ見る。それは、振り返って手を振ってしまうと自分の方が崩れるかもしれない、と知っていた人の選んだ別れ方でした。
ヨハンは前の夜に井戸の脇でリナに「俺は心配しない」と告げました。心配しないと宣言した人間が、別れの朝に手を振って涙ぐむわけにはいかない。だから目だけで確認して、また前を向く。その短い動作が、ヨハンなりの「ちゃんと帰る」の最初の証明でした。
■「消えた」——リナが見つけた、しかし足りない言葉
馬車が丘の向こうに消えた後、リナが「怖い、悲しい、寂しい、という言葉のどれも、ぴったり当てはまらなかった」と気付いた場面。
前世の言葉でいうと、これは「感情に言葉が追いつかない瞬間」でした。日常で使い慣れた感情の名前のどれもが、目の前の出来事に合わない。「消えた」だけが、かろうじて出てきた言葉でした。
その「足りなさ」は、これからリナが村の外の世界と向き合っていく中で、繰り返し感じることになるはずです。前世のプログラマーとしての語彙では掬えない感情、九歳の少女として未熟な語彙でも掬えない感情。そのあわいの場所に、まだ名前のついていない感情が生まれている。
家族の足音が後ろから遠ざかる中で、リナだけが丘の端に残っていた。あの一場面は、これから始まる物語の余白の取り方を、静かに予告してくれている気がします。次の話もお楽しみに。




