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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑤「旅立ちと、抱えこみ」

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70/211

第70話 旅立ち前夜

あの晩、屋根裏で「家族で何ができるか」と考えてから、もう四月と二十五日が経った。


その間に、ヨハンの荷物袋は少しずつ膨らんでいった。エマが手縫いの新しい上着を仕上げ、父は工房の隅で時計修理の道具をひとつずつ選んで揃えていた。


エマが麦のスープをかき混ぜる音が、台所に響いていた。


明日、お兄ちゃんがいなくなる。

その言葉は頭の中にあるのに、まだ本当のことだとは思えなかった。


萌の月十八日。雪解けはとっくに終わって、麦畑の畝が黒々と並んでいる。朝の風はまだ少しだけ冷たいけれど、夕方の光は前より長く家の中に残るようになった。窓の外は薄い藍色に染まりかけていて、家の中の蝋燭の火がそのぶん柔らかく見える。


わたしは台所の隅で、エマの隣に立っていた。本当は手伝うつもりだったのに、麦の粒を量る皿を持ったまま、しばらく動けなくなっていた。


「リナ」


エマの声が、いつもより柔らかかった。


「あと、椀を五つ並べてくれる」


(——五つ)


(——明日からは、四つだ)


頭の中でそう数え直してから、わたしは椀を取りに棚へ行った。


◇◇◇


工房から父アルベルトが出てきた。手に、小さな布袋を持っている。


「ヨハン」


「ん?」


ヨハンが屋根裏の階段の上から顔を覗かせた。十四歳の少年の顔は、ここ数日でほんの少し大人びて見える。背丈は前から父に追いつき始めていて、今は父より頭半分低いくらい。


「降りてこい」


ヨハンが降りてきて、父の前に立つ。父が布袋をヨハンに差し出した。


「これを、持っていけ」


ヨハンが布袋を受け取って、中を覗いた。

わたしも横から覗き込む。


小さな鑷子が一本。

ねじ回しが二本。

油の小瓶。

予備の小さな歯車が三つ。

細い革の切れ端。


時計修理道具一式だった。


「お父さん、これは」


「壊れたものを直す癖をつけろ」


父はそれだけ言って、また工房の方に歩きかけた。


「お父さん」


ヨハンが呼び止めた。父が立ち止まる。


「俺、時計は直せねぇよ」


「時計だけの話じゃない」


父は背中越しに答えた。


「靴でも鞘でも、壊れたら直せ。道具も、ほかのものもだ。分からんなら、聞け」


それだけ言って、父は工房に戻った。扉が閉まる音が、木の家の中に静かに広がった。


ヨハンが布袋を握りしめたまま、少しの間動かなかった。


(——お父さんは、ああいう人だ)


(——大事なことを、一回しか言わない)


わたしは隣で、その背中を見ていた。


◇◇◇


「リナ。ヨハン。降りてきて」


エマが台所から呼んだ。


食卓に並んだのは、麦のスープと、焼いたパンと、塩漬けの肉の小皿。普段の夕飯と同じ献立だった。

でも、ヨハンの椀のスープは、いつもより少し量が多かった。


父も降りてきて、食卓の上座に座る。ノラがエマの膝の上で、片手にパンを握っていた。


「ねぇね」


ノラがわたしを見て、何か言いたそうにする。


「うん?」


「ノラもね、おにぃちゃんに、これあげる」


ノラが、もう片方の手に握っていた木の切れ端を、テーブルの上に置いた。エマがそれを見て少し笑う。木の切れ端は、ノラがいつも持ち歩いている小さな人形の手——昨日折れてしまったのを、ノラが大事に取っておいたものだった。


「ノラ、お兄ちゃんに、おまもり」


「お、おう」


ヨハンが照れた顔で、その小さな木切れを受け取った。布袋の中に、ヨハンが慎重に入れる。鑷子とねじ回し、油の小瓶と人形の手の切れ端が同じ袋に並んだ。


「ありがとな、ノラ」


「うん」


ノラが満足そうに、エマの膝の上で身体を反らせた。


◇◇◇


夕飯の途中、ヨハンが急に笑い出した。


「どうしたの」


エマが聞く。


「いや。バルツさんが言ってたんだ。町の飯はまずいって」


「あら、本当に?」


「うん。藁が臭いし、麦は粉が古いし、肉なんてろくに塩もしてねぇって」


「まあ、嫌ねえ」


エマがそう言って、自分の椀のスープをヨハンの椀に少しだけ足した。


「うちの麦は、ちゃんと粉を挽きたてで使ってるから。よく覚えておきなさい」


「うん」


ヨハンが大きく頷いて、スープを口に運んだ。

その横で、父は黙ってパンを噛んでいた。何も言わないけれど、ヨハンが笑うとほんの少し、父の口の端も動いた気がした。


家族みんなで、いつもより少しだけ賑やかに話そうとしていた。誰かが「明日」と言わないように、誰もが少しずつ努力していた。


(——お兄ちゃんも、お父さんも、お母さんも)


(——みんな、明日のことを話さないでいる)


わたしも、その輪の中に入っていた。


◇◇◇


夕飯の後、ヨハンが「ちょっと外に出てくる」と言った。

わたしは何も言わずに後をついていった。


家の裏に出ると、夜気のなかに湿った土の匂いが混じっていた。空にはまだ西の端に薄い赤が残っていて、月は二つとも雲の向こうに隠れている。庭の井戸の縁の石が、薄い夜露で濡れていた。


「夜は、まだ少し冷えるな」


ヨハンが、軽く息を吐いた。


「お兄ちゃん、寒くない?」


「ん?」


「上着、それでいいの?」


ヨハンが自分の上着を見て、少し笑った。


「お母さんが、新しいの作ってくれた。明日の朝、それを着る。今夜はこのままでいい」


「うん」


二人で井戸の脇に並んで立つ。井戸の縄が、風で少しだけ揺れていた。

わたしは何か格好いいことを言うつもりだった。お兄ちゃんが旅に出る前に、妹として、言うべき言葉があるはずだった。


なのに、口から出たのは、それじゃなかった。


「お兄ちゃん」


「ん」


「ちゃんと、帰ってきてね」


(——あ)


(——わたし、こんなこと言うつもりじゃなかったのに)


ヨハンが、少しの間黙ってから、隣で軽く頷いた。


「ああ」


「うん」


「リナ」


「うん?」


「お前が何かを作り続ける限り、俺は心配しない」


ヨハンが、井戸の向こうの暗がりを見ながら言った。


「家のことは、俺がいなくても、お前さんがいる。お父さんとお母さんとノラを、見ていてくれ。何かが壊れたら、お父さんに聞け。お父さんが分からなかったら、グスタフさんでもいい」


「うん」


「俺は、お前の作るものを、町から見てる」


その言葉が、胸の奥でゆっくり広がった。

熱いとか温かいとかいう感じではなくて、もっと静かな、何かが置かれるような感覚だった。


「お兄ちゃん」


「ん」


「お兄ちゃんは、手紙、書ける?」


「書ける。学校で習ったからな。でも——」


ヨハンが、白い息と一緒に少しだけ笑った。


「届くまで時間がかかるな」


「うん」


「旅商人が運んでくれるって聞いた。でも、各村を巡回する便だから、手紙が届くまでに十日くらいかかるそうだ」


(——十日)


(——お兄ちゃんが何かを書いて、わたしの手に届くまでに十日)


頭の隅で、その数字が小さく光った気がした。でも今は、それを言葉にしなかった。


二人で、井戸の縁に並んで立ったまま、しばらく黙っていた。萌の月の夜風が一度だけ強く吹いて、井戸の縄が大きく揺れた。


「戻ろう」


ヨハンが言った。


「うん」


家の中の蝋燭の灯りが、窓越しに細く漏れていた。中ではノラがまだ起きているらしく、エマの声がかすかに聞こえた。


◇◇◇


夜が深くなって、わたしは屋根裏の自分の布団に潜り込んだ。


隣ではノラが、いつもの場所で小さく寝息を立てていた。今夜は早めに寝かしつけたエマの腕の中で、ノラはもう完全に夢の中に入っているようだった。


天井を見上げる。屋根裏の梁が、闇の中に黒い線として走っている。子供のころから——いや、わたしがこの体に来てから——毎晩見てきた梁だ。


(——明日の朝)


(——お兄ちゃんがいない朝が、始まる)


頭の中で、夕食の場面が何度か繰り返された。

ノラが人形の手をテーブルに置いた瞬間。

ヨハンがバルツさんの言葉を繰り返して笑った瞬間。

父が「壊れたら、直せ」と言って背中越しに歩き去った瞬間。

井戸の脇でヨハンが「俺は心配しない」と言った瞬間。


どれも、悲しい場面ではなかった。

なのに、胸の奥のどこかに小さな重みが残っていた。


(——お兄ちゃんがいなくなるのが、怖い)


(——じゃなくて)


(——お兄ちゃんがいなくなったあとの家が、変わってしまうのが怖い、のかもしれない)


ノラの寝息が、規則正しく繰り返されていた。

屋根の向こうで、萌の月の夜風が一度だけ屋根を撫でていった。


——明日の朝になっても、今夜の感じは消えないかもしれない。


その予感を抱えたまま、わたしはゆっくり目を閉じた。


■あとがき・解説


第70話は、ヨハンが町に旅立つ前夜の家族の食卓と、井戸の脇でのリナと兄の短い対話を描いた回でした。父が時計修理道具を手渡し、ノラが折れた人形の手をお守りに差し出し、ヨハンが「お前が何かを作り続ける限り、俺は心配しない」と静かに告げる。今回はその「言わないでいる夜」について、少し書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「沈黙の約束」——家族が同じ事実を抱えながら、口に出さない時間


夕飯の途中で誰も「明日」と言わなかった場面。


前世の言葉でいうと、これは「共有された事実を、あえて言葉にしない合意」のようなものでした。家族の全員が同じ出来事を知っている。明日の朝にヨハンが家を出る、というその一行を、誰もが頭の片隅で確かに抱えている。それなのに食卓では、いつも通りの献立といつも通りの会話だけが続く。


その沈黙は冷たいものではありません。むしろ温かい合意の形でした。明日のことを口にすれば、誰かが泣いてしまうかもしれない。だから今夜は触れずに置く。エマがヨハンの椀にスープを少し多めに注ぐとき、その椀の中に「明日」のすべてが入っていました。


ヨハンが「町の飯はまずい」とバルツの言葉を真似て笑い、エマが自分のスープを少し分けて「うちの麦は、ちゃんと粉を挽きたてで使ってるから。よく覚えておきなさい」と返す。あの短い会話の中に、明日の朝までに伝えておきたいすべてが、別の言葉に置き換えられて入っていました。


■「壊れたものを直す癖をつけろ」——父が一回しか言わない大事なこと


父アルベルトがヨハンに時計修理道具を渡したときの一言。


前世の言葉でいうと、これは「持ち運べる職業観」の手渡しでした。父はヨハンに時計師になれと言ったのではありません。靴でも鞘でも、壊れたら自分で直す。それが分からなければ聞く。その姿勢を持ち歩け、と告げただけでした。


父は背中越しに「時計だけの話じゃない」と言って、扉の向こうに戻っていきます。多くの言葉を残さない代わりに、道具袋の中に、自分の手のひらの厚みを込めた。鑷子一本、ねじ回し二本、油の小瓶、予備の歯車三つ、革の切れ端。それぞれが家の中の小さな仕事に使われてきた道具でした。父の半生が、布袋の中に圧縮されてヨハンの手元に渡っていく。


ヨハンが布袋を握りしめたまま動かなかった短い時間。あの数秒の間に、十四歳の少年が父から受け取ったものは、たぶん時計修理道具の重さだけではありませんでした。


■「人形の手」——四歳児が見送り方を見つけた瞬間


ノラがテーブルの上に置いた、昨日折れた人形の手の切れ端。


前世の言葉でいうと、これは「贈り物の本質」のいちばん素朴な形でした。値段の高いものではない。新しく作ったものでもない。けれど自分にとっていちばん大事なものを、相手に持っていってもらう。ノラはたぶん「お守り」という言葉の意味を、四歳の頭で正確には分かっていません。それでも、人形の手の切れ端をヨハンに持っていってもらうことが、自分にできる見送り方だと知っていました。


ヨハンが「お、おう」と照れた顔で、その小さな木切れを布袋に入れた瞬間。鑷子とねじ回しと油の小瓶と人形の手の切れ端が、同じ袋の中に並ぶ。父からの実用の道具と、妹からの祈りの道具が、ヨハンの旅の中で並んで運ばれていく。家族の見送り方の重ね描きが、あの袋の中に静かに収まっていました。


井戸の脇でヨハンが「俺は、お前の作るものを、町から見てる」と告げた一行。リナがその言葉を「熱いとか温かいとかいう感じではなくて、もっと静かな、何かが置かれるような感覚」として受け取ったのは、たぶん兄から手渡された約束の重みが、まだ完全には溶けていなかったからでした。


屋根裏で天井を見上げながら「お兄ちゃんがいなくなった後の家が、変わってしまうのが怖い」と気付くリナ。怖いものの正体が、「お兄ちゃんがいないこと」そのものではなく「これからの家のかたち」だと知る九歳の夜。明日の朝になっても、今夜の感じは消えないかもしれない——その予感を抱えたまま、リナはゆっくり目を閉じます。次の話もお楽しみに。


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