第70話 旅立ち前夜
あの晩、屋根裏で「家族で何ができるか」と考えてから、もう四月と二十五日が経った。
その間に、ヨハンの荷物袋は少しずつ膨らんでいった。エマが手縫いの新しい上着を仕上げ、父は工房の隅で時計修理の道具をひとつずつ選んで揃えていた。
エマが麦のスープをかき混ぜる音が、台所に響いていた。
明日、お兄ちゃんがいなくなる。
その言葉は頭の中にあるのに、まだ本当のことだとは思えなかった。
萌の月十八日。雪解けはとっくに終わって、麦畑の畝が黒々と並んでいる。朝の風はまだ少しだけ冷たいけれど、夕方の光は前より長く家の中に残るようになった。窓の外は薄い藍色に染まりかけていて、家の中の蝋燭の火がそのぶん柔らかく見える。
わたしは台所の隅で、エマの隣に立っていた。本当は手伝うつもりだったのに、麦の粒を量る皿を持ったまま、しばらく動けなくなっていた。
「リナ」
エマの声が、いつもより柔らかかった。
「あと、椀を五つ並べてくれる」
(——五つ)
(——明日からは、四つだ)
頭の中でそう数え直してから、わたしは椀を取りに棚へ行った。
◇◇◇
工房から父アルベルトが出てきた。手に、小さな布袋を持っている。
「ヨハン」
「ん?」
ヨハンが屋根裏の階段の上から顔を覗かせた。十四歳の少年の顔は、ここ数日でほんの少し大人びて見える。背丈は前から父に追いつき始めていて、今は父より頭半分低いくらい。
「降りてこい」
ヨハンが降りてきて、父の前に立つ。父が布袋をヨハンに差し出した。
「これを、持っていけ」
ヨハンが布袋を受け取って、中を覗いた。
わたしも横から覗き込む。
小さな鑷子が一本。
ねじ回しが二本。
油の小瓶。
予備の小さな歯車が三つ。
細い革の切れ端。
時計修理道具一式だった。
「お父さん、これは」
「壊れたものを直す癖をつけろ」
父はそれだけ言って、また工房の方に歩きかけた。
「お父さん」
ヨハンが呼び止めた。父が立ち止まる。
「俺、時計は直せねぇよ」
「時計だけの話じゃない」
父は背中越しに答えた。
「靴でも鞘でも、壊れたら直せ。道具も、ほかのものもだ。分からんなら、聞け」
それだけ言って、父は工房に戻った。扉が閉まる音が、木の家の中に静かに広がった。
ヨハンが布袋を握りしめたまま、少しの間動かなかった。
(——お父さんは、ああいう人だ)
(——大事なことを、一回しか言わない)
わたしは隣で、その背中を見ていた。
◇◇◇
「リナ。ヨハン。降りてきて」
エマが台所から呼んだ。
食卓に並んだのは、麦のスープと、焼いたパンと、塩漬けの肉の小皿。普段の夕飯と同じ献立だった。
でも、ヨハンの椀のスープは、いつもより少し量が多かった。
父も降りてきて、食卓の上座に座る。ノラがエマの膝の上で、片手にパンを握っていた。
「ねぇね」
ノラがわたしを見て、何か言いたそうにする。
「うん?」
「ノラもね、おにぃちゃんに、これあげる」
ノラが、もう片方の手に握っていた木の切れ端を、テーブルの上に置いた。エマがそれを見て少し笑う。木の切れ端は、ノラがいつも持ち歩いている小さな人形の手——昨日折れてしまったのを、ノラが大事に取っておいたものだった。
「ノラ、お兄ちゃんに、おまもり」
「お、おう」
ヨハンが照れた顔で、その小さな木切れを受け取った。布袋の中に、ヨハンが慎重に入れる。鑷子とねじ回し、油の小瓶と人形の手の切れ端が同じ袋に並んだ。
「ありがとな、ノラ」
「うん」
ノラが満足そうに、エマの膝の上で身体を反らせた。
◇◇◇
夕飯の途中、ヨハンが急に笑い出した。
「どうしたの」
エマが聞く。
「いや。バルツさんが言ってたんだ。町の飯はまずいって」
「あら、本当に?」
「うん。藁が臭いし、麦は粉が古いし、肉なんてろくに塩もしてねぇって」
「まあ、嫌ねえ」
エマがそう言って、自分の椀のスープをヨハンの椀に少しだけ足した。
「うちの麦は、ちゃんと粉を挽きたてで使ってるから。よく覚えておきなさい」
「うん」
ヨハンが大きく頷いて、スープを口に運んだ。
その横で、父は黙ってパンを噛んでいた。何も言わないけれど、ヨハンが笑うとほんの少し、父の口の端も動いた気がした。
家族みんなで、いつもより少しだけ賑やかに話そうとしていた。誰かが「明日」と言わないように、誰もが少しずつ努力していた。
(——お兄ちゃんも、お父さんも、お母さんも)
(——みんな、明日のことを話さないでいる)
わたしも、その輪の中に入っていた。
◇◇◇
夕飯の後、ヨハンが「ちょっと外に出てくる」と言った。
わたしは何も言わずに後をついていった。
家の裏に出ると、夜気のなかに湿った土の匂いが混じっていた。空にはまだ西の端に薄い赤が残っていて、月は二つとも雲の向こうに隠れている。庭の井戸の縁の石が、薄い夜露で濡れていた。
「夜は、まだ少し冷えるな」
ヨハンが、軽く息を吐いた。
「お兄ちゃん、寒くない?」
「ん?」
「上着、それでいいの?」
ヨハンが自分の上着を見て、少し笑った。
「お母さんが、新しいの作ってくれた。明日の朝、それを着る。今夜はこのままでいい」
「うん」
二人で井戸の脇に並んで立つ。井戸の縄が、風で少しだけ揺れていた。
わたしは何か格好いいことを言うつもりだった。お兄ちゃんが旅に出る前に、妹として、言うべき言葉があるはずだった。
なのに、口から出たのは、それじゃなかった。
「お兄ちゃん」
「ん」
「ちゃんと、帰ってきてね」
(——あ)
(——わたし、こんなこと言うつもりじゃなかったのに)
ヨハンが、少しの間黙ってから、隣で軽く頷いた。
「ああ」
「うん」
「リナ」
「うん?」
「お前が何かを作り続ける限り、俺は心配しない」
ヨハンが、井戸の向こうの暗がりを見ながら言った。
「家のことは、俺がいなくても、お前さんがいる。お父さんとお母さんとノラを、見ていてくれ。何かが壊れたら、お父さんに聞け。お父さんが分からなかったら、グスタフさんでもいい」
「うん」
「俺は、お前の作るものを、町から見てる」
その言葉が、胸の奥でゆっくり広がった。
熱いとか温かいとかいう感じではなくて、もっと静かな、何かが置かれるような感覚だった。
「お兄ちゃん」
「ん」
「お兄ちゃんは、手紙、書ける?」
「書ける。学校で習ったからな。でも——」
ヨハンが、白い息と一緒に少しだけ笑った。
「届くまで時間がかかるな」
「うん」
「旅商人が運んでくれるって聞いた。でも、各村を巡回する便だから、手紙が届くまでに十日くらいかかるそうだ」
(——十日)
(——お兄ちゃんが何かを書いて、わたしの手に届くまでに十日)
頭の隅で、その数字が小さく光った気がした。でも今は、それを言葉にしなかった。
二人で、井戸の縁に並んで立ったまま、しばらく黙っていた。萌の月の夜風が一度だけ強く吹いて、井戸の縄が大きく揺れた。
「戻ろう」
ヨハンが言った。
「うん」
家の中の蝋燭の灯りが、窓越しに細く漏れていた。中ではノラがまだ起きているらしく、エマの声がかすかに聞こえた。
◇◇◇
夜が深くなって、わたしは屋根裏の自分の布団に潜り込んだ。
隣ではノラが、いつもの場所で小さく寝息を立てていた。今夜は早めに寝かしつけたエマの腕の中で、ノラはもう完全に夢の中に入っているようだった。
天井を見上げる。屋根裏の梁が、闇の中に黒い線として走っている。子供のころから——いや、わたしがこの体に来てから——毎晩見てきた梁だ。
(——明日の朝)
(——お兄ちゃんがいない朝が、始まる)
頭の中で、夕食の場面が何度か繰り返された。
ノラが人形の手をテーブルに置いた瞬間。
ヨハンがバルツさんの言葉を繰り返して笑った瞬間。
父が「壊れたら、直せ」と言って背中越しに歩き去った瞬間。
井戸の脇でヨハンが「俺は心配しない」と言った瞬間。
どれも、悲しい場面ではなかった。
なのに、胸の奥のどこかに小さな重みが残っていた。
(——お兄ちゃんがいなくなるのが、怖い)
(——じゃなくて)
(——お兄ちゃんがいなくなったあとの家が、変わってしまうのが怖い、のかもしれない)
ノラの寝息が、規則正しく繰り返されていた。
屋根の向こうで、萌の月の夜風が一度だけ屋根を撫でていった。
——明日の朝になっても、今夜の感じは消えないかもしれない。
その予感を抱えたまま、わたしはゆっくり目を閉じた。
■あとがき・解説
第70話は、ヨハンが町に旅立つ前夜の家族の食卓と、井戸の脇でのリナと兄の短い対話を描いた回でした。父が時計修理道具を手渡し、ノラが折れた人形の手をお守りに差し出し、ヨハンが「お前が何かを作り続ける限り、俺は心配しない」と静かに告げる。今回はその「言わないでいる夜」について、少し書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「沈黙の約束」——家族が同じ事実を抱えながら、口に出さない時間
夕飯の途中で誰も「明日」と言わなかった場面。
前世の言葉でいうと、これは「共有された事実を、あえて言葉にしない合意」のようなものでした。家族の全員が同じ出来事を知っている。明日の朝にヨハンが家を出る、というその一行を、誰もが頭の片隅で確かに抱えている。それなのに食卓では、いつも通りの献立といつも通りの会話だけが続く。
その沈黙は冷たいものではありません。むしろ温かい合意の形でした。明日のことを口にすれば、誰かが泣いてしまうかもしれない。だから今夜は触れずに置く。エマがヨハンの椀にスープを少し多めに注ぐとき、その椀の中に「明日」のすべてが入っていました。
ヨハンが「町の飯はまずい」とバルツの言葉を真似て笑い、エマが自分のスープを少し分けて「うちの麦は、ちゃんと粉を挽きたてで使ってるから。よく覚えておきなさい」と返す。あの短い会話の中に、明日の朝までに伝えておきたいすべてが、別の言葉に置き換えられて入っていました。
■「壊れたものを直す癖をつけろ」——父が一回しか言わない大事なこと
父アルベルトがヨハンに時計修理道具を渡したときの一言。
前世の言葉でいうと、これは「持ち運べる職業観」の手渡しでした。父はヨハンに時計師になれと言ったのではありません。靴でも鞘でも、壊れたら自分で直す。それが分からなければ聞く。その姿勢を持ち歩け、と告げただけでした。
父は背中越しに「時計だけの話じゃない」と言って、扉の向こうに戻っていきます。多くの言葉を残さない代わりに、道具袋の中に、自分の手のひらの厚みを込めた。鑷子一本、ねじ回し二本、油の小瓶、予備の歯車三つ、革の切れ端。それぞれが家の中の小さな仕事に使われてきた道具でした。父の半生が、布袋の中に圧縮されてヨハンの手元に渡っていく。
ヨハンが布袋を握りしめたまま動かなかった短い時間。あの数秒の間に、十四歳の少年が父から受け取ったものは、たぶん時計修理道具の重さだけではありませんでした。
■「人形の手」——四歳児が見送り方を見つけた瞬間
ノラがテーブルの上に置いた、昨日折れた人形の手の切れ端。
前世の言葉でいうと、これは「贈り物の本質」のいちばん素朴な形でした。値段の高いものではない。新しく作ったものでもない。けれど自分にとっていちばん大事なものを、相手に持っていってもらう。ノラはたぶん「お守り」という言葉の意味を、四歳の頭で正確には分かっていません。それでも、人形の手の切れ端をヨハンに持っていってもらうことが、自分にできる見送り方だと知っていました。
ヨハンが「お、おう」と照れた顔で、その小さな木切れを布袋に入れた瞬間。鑷子とねじ回しと油の小瓶と人形の手の切れ端が、同じ袋の中に並ぶ。父からの実用の道具と、妹からの祈りの道具が、ヨハンの旅の中で並んで運ばれていく。家族の見送り方の重ね描きが、あの袋の中に静かに収まっていました。
井戸の脇でヨハンが「俺は、お前の作るものを、町から見てる」と告げた一行。リナがその言葉を「熱いとか温かいとかいう感じではなくて、もっと静かな、何かが置かれるような感覚」として受け取ったのは、たぶん兄から手渡された約束の重みが、まだ完全には溶けていなかったからでした。
屋根裏で天井を見上げながら「お兄ちゃんがいなくなった後の家が、変わってしまうのが怖い」と気付くリナ。怖いものの正体が、「お兄ちゃんがいないこと」そのものではなく「これからの家のかたち」だと知る九歳の夜。明日の朝になっても、今夜の感じは消えないかもしれない——その予感を抱えたまま、リナはゆっくり目を閉じます。次の話もお楽しみに。




