第55話 布で数を覚える
翌朝、わたしは織物部屋の小さな椅子に座っていた。
エマは織機の前で、糸の束を整理していた。生成色と藍色の縦糸が、整然と束ねられた状態で床に並べられている。エマの手は迷いなく動いていた。何十年もこの作業を繰り返してきた指先の動きだった。
「リナ。何から始めようか」
「お母さん、ちょっとだけ、絵を描いていい?」
「絵?」
「説明したいの。機械が読める布が、どんな構造になるか」
エマが「ええ」と頷いて、床の隅から古い木の板を取ってくれた。父が修理用に使っていたメモ板だった。
わたしは炭の細い棒を握って、板の上に格子を描いた。
縦に細い線を二十本。横に細い線を二十本。
小さな枠が、四百個できた。
「これがね、布の上の小さな目、一つ一つだと思って」
「ええ」
「ここに、糸が表に出てれば『一』。出てなければ『〇』」
エマが板を覗き込んだ。
「『一』と『〇』って?」
「えっと——」
少し迷ってから、説明した。
「『ある』『ない』、みたいなもの。お父さんの機械の中で、歯車が回ってる時は『ある』、止まってる時は『ない』って数えてるの」
「機械が、ある・ない、を数える」
「そう」
エマが少し首を傾げた。それから、織機の方を見た。
「縦糸が上にいれば『ある』、下にいれば『ない』、ということ?」
——あ。
頭の奥で、エマが一瞬で本質を掴んだことに気付いた。
「そう。そう、それ」
「だったら、わたしの織機でも、できるかもしれないわ」
エマが急に手を動かし始めた。糸の束から細い縦糸を一本取って、織機の上端に張った。
「普段の織物だと、縦糸は上下二段に分けるだけ。だけど、リナが欲しいのは『一目ごとに、上か下かを変える』ってことよね」
「うん。一目ごとに、独立して」
「だったら、縦糸を、もっと細く分けないと」
エマが織機の上の木の棒を見上げた。普段の織物では、縦糸を二段に分けるための『綜絖』と呼ばれる棒が二本ある。それを操作することで縦糸の上下が決まる仕組みだった。
「普段の二段では、足りないの」
「そう。一本ずつ、上か下かを決めたい」
エマがしばらく黙ってから、答えた。
「そういう織り方も、できなくはないわ」
「本当に?」
「縦糸を一本ずつ独立した綜絖に通せば、一本ずつ操作できる。ただし手数が増えるし、時間もかかる」
「お母さん、それでいい。時間がかかっても、わたしも横で見てる」
エマが、ふっと笑った。
「リナがそんな顔をするなら、やってみる」
◇◇◇
その日の午後から、エマは織機の組み直しを始めた。
縦糸を細く分けるための綜絖を、エマが自分で作っていた。木の細い棒に細い穴を開けて、そこに縦糸を一本ずつ通す。普段の織物では使わない作業だった。
わたしは横で炭の棒を握って、別の木の板に試作の設計を書いていた。
最初は小さく始めることにした。
縦に二十目、横に十目。合計二百個の小さな枠が並ぶ布。
その上に『1 + 1 = 10』という二進数の式を表現することを目標にした。
入力の左側に『一』『一』の二目、間に動作の合図、出力の右側に『一』『〇』の二目。
枠の数は四目分しか使わない。残りは『〇』で埋める。それでも、布全体としては「一つの式を覚えた状態」になる。
「お母さん、設計、こんなふうにしたい」
エマが手を止めて、板を覗き込んだ。
「黒い目と、白い目」
「そう。黒い目が『ある』、白い目が『ない』」
「リナが書いた通りに、わたしが縦糸を上下させる」
「お願い」
エマがしばらく板を見つめてから、頷いた。
「やってみましょう」
◇◇◇
二日目。
エマが綜絖を二十本完成させた。一本につき一本の縦糸が通っている。エマの指は普段の倍以上の動きを要求されていた。けれど、文句は一切言わなかった。
「リナ、ちょっと見て」
エマがわたしを呼んで、織機の前に立たせた。
「一段目を、こうやって動かす」
エマの足が、織機の下の木の踏み板を踏んだ。普段の織物では二本の踏み板だが、エマはそれを二十本に増やしていた。それぞれが一本の縦糸の上下を司る。
エマが一本の踏み板を踏むと、対応する一本の縦糸だけが下に下がった。
「すごい」
「これで、リナの設計通りに、一目ずつ動かせる」
「お母さん、ほんとうにすごい」
エマが少し照れたように笑った。
「織機は、わたしの一番慣れた道具だから」
その日の午後、わたしたちは最初の数行を織り始めた。
エマは横で、わたしが指示した通りに踏み板を踏む。横糸を一本通す。
わたしは隣で、二十本の縦糸の状態を確認する。設計の板と見比べる。
最初の横糸が通った瞬間、エマが息を飲んだ。
「リナ」
「うん」
「これ、わたしが見たことのない織り方」
黙って頷いた。
「目が、こうやって独立してるのね」
エマの指が、織り上がった一行の上をなぞった。藍の縦糸が表に出ている目と、生成色の縦糸が裏に隠れている目が、一目ずつ独立して並んでいた。
普段のエマの織物は、複数の縦糸が組になって模様を作る。けれど今エマの目の前にあるのは、一目ずつばらばらに『ある』か『ない』かを示す不思議な布だった。
「これ、わたしの織物だけど、わたしの織物じゃない」
エマがそう呟いた。
胸の奥で、何かが温かくなった。
◇◇◇
三日目。
布が、ようやく完成した。
縦に二十目、横に十目。合計二百個の枠。そのうち、四目だけが藍色で、残りは生成色だった。
エマが布を織機から外して、机の上に広げた。
「これが、リナの言ってた『機械が読める布』ね」
「そう」
「藍が『ある』で、生成色が『ない』」
小さく頷いた。
エマが布を眺めて、しばらく黙った。
「リナ」
「うん」
「この布は、何を覚えてるの?」
少し迷ってから、答えた。
「『一に一を足したら、十になる』」
エマが、首を傾げた。
「『一に一を足したら、二』じゃないの?」
「お父さんの機械の中では、二は『十』って書くの」
「変わってるのね」
「うん。変わってる。でも、それで動く」
エマが小さく笑った。
「リナの言うことは、半分くらいしか分からないけど」
黙って頷いた。
「半分は、分かる」
胸の奥で、また熱が広がった。
◇◇◇
午後、わたしは布を持って、父の工房に行った。
机の上の数表生成機の隣に、織り上がった布を置いた。布の藍色の目が、夕方の光を受けて、わずかに紫がかって見えた。
(——布はできた)
(——でも、これを機械が読み取る方法は、まだない)
頭の中で、次の問題が立ち上がっていた。
布を機械に渡して、藍色の目で『一』を、生成色で『〇』を歯車に伝える仕組み。
それは、織機とは別の道具が要る。
(——針)
(——布の上を針が走って、糸の組み方を読み取る)
(——そして、その読み取りを歯車に変換する)
父がドライバーを置いて、机のこちら側に椅子を回してきた。机の上の布をじっと見つめた。
「リナ」
「うん」
「これは、何だ」
「お母さんが織ってくれた、機械の言葉」
父が短く息を吐いた。
「機械の、言葉」
「うん。お父さんの機械に、覚えさせたい計算が、ここに織られてる」
「読めるのか、機械は」
「まだ読めない」
父が短く息を吐いた。
父はもう一度、布をじっと見つめた。それから、視線を上げてわたしを見た。
「読み取る道具を、作るんだな」
「やります」
「明日からか」
深く頷いた。
父がふっと、笑うように口角を上げた。
「ふん。やってみい」
それだけ言って、自分の作業に戻った。
布は机の上で、夕方の風にわずかに揺れていた。
(——明日)
(——布を、機械に話しかけさせる道具を、作る)
胸の中だけで、そう呟いた。
工房の窓の外で、麦の刈り入れが終わった畑が夕陽に赤く染まっていた。
■あとがき・解説
第55話は、リナとエマが三日間かけて、機械が読むための布を実際に織り上げる回でした。エマが「縦糸を一本ずつ独立した綜絖に通す」という、普段は使わない織り方に踏み込み、二十本の踏み板を自分で増設して、リナの設計通りに藍の目と生成色の目を一目ずつ並べていきます。今回はその試作工程について、ゆるく解説していきます。
■この話で出てきた言葉
■「プロトタイピング」——小さく、安く、まず作ってみる
縦に二十目、横に十目。合計二百個の枠の中で、四目だけが藍色で、残りは生成色。本当はもっと大きな布で長い計算式を表現したい。けれどリナは、まず一番小さな構成で「1 + 1 = 10」だけを表現する布から始めることを選びました。
前世の言葉でいうと、これが「プロトタイピング」です。本番のものを最初から作るのではなく、いちばん小さい・いちばん安い・いちばん早く作れる試作物をまず一つ用意して、原理が成り立つかどうかを確かめる。原理さえ通れば、あとはそれを大きくしていけばいい。原理がダメだったら、大きく作る前に気付ける。
プログラマーの世界でも、新しい仕組みを作る時はだいたいこの順番です。小さく作って、動かして、確かめて、それから本番に育てる。エマと二人で初めて触る織り方を、いきなり大きな布で挑むより、二百個の枠で済むサイズで一度試してから本式に入る方が、後で迷子になりにくい。
■「カスタム素材」——既存の道具を、本来と違う使い方で
エマが綜絖を増やす作業。普段の織物では二本で済む踏み板を、エマは自分で二十本に増設しました。元々の織機の構造を壊さないまま、本来の用途とは少し違う仕事ができるように改造する。
前世の世界でも、新しい仕組みを作る時に「既存の道具を、本来と違う使い方で組み直す」という工夫がよく登場します。汎用の部品を組み合わせて、目的に合わせた専用の道具に仕立て直す。エマの増設した二十本の踏み板は、布を織るための織機を「機械の言葉を書くための装置」に組み直したものでした。
「織機は、わたしの一番慣れた道具だから」というエマの一言。一番慣れた道具を、本来とは違う角度で使い直す勇気は、何十年その道具と付き合ってきた人にしかない強さでした。
■「ハードウェア記述」——形のあるもので、命令を書く
藍の目と生成色の目が一目ずつ独立して並ぶ布。エマが「これ、わたしの織物だけど、わたしの織物じゃない」と呟いたあの瞬間。
前世のプログラマーが書く命令は、たいていは画面の上の文字でした。けれどコンピュータの内部では、その命令はやがて電気信号の並びに変換され、最終的には半導体の上の小さな穴や凹凸として「形のあるもの」に固定されます。命令を、紙やシリコンの上に、形として刻む。これが「ハードウェア記述」と呼ばれる仕事の出発点です。
エマが織り上げた布は、まさにそれでした。藍色の目という凹凸として、計算式の命令が布の上に固定されている。「布が、機械の言葉を持ち運ぶ媒体になる」——リナと、機械と、エマの織機の三者が、布という素材の上で初めて出会った場所でした。
エマが「リナの言うことは、半分くらいしか分からないけど、半分は分かる」と笑った場面。あの「半分は分かる」が、共作の現場でいちばん大事な姿勢かもしれません。次の話もお楽しみに。




