第56話 読み取る針
翌朝、わたしは織物部屋から布をそっと持って、父の工房に向かった。
布は薄かったけれど、藍色の目が並んだ一行を指でなぞると、生成色の目とは違う凹凸を感じた。エマの織機がこの目を作るために何度も縦糸を上下させたことが、その凹凸に残っていた。
工房の扉を押し開けると、父がもう作業台に向かっていた。
「お父さん、おはよう」
「ああ」
机の隅に布を広げた。藍色の目と生成色の目が、朝の光の中で並んでいた。
「お父さん。これを機械に読ませる装置を、今日から作りたい」
父はドライバーを置いて、机のこちら側を見た。
「布を、機械に、読ませる」
「そう」
父は布を覗き込んだ。指先で藍色の目を一つ、軽く撫でた。それから、生成色の目を撫でた。
「目の高さが、ちょっと違うな」
「そう。藍は縦糸が表に出てる目。生成色は縦糸が裏に隠れてる目」
「指で触っただけでも分かる」
「だから機械にも、たぶん分かる」
父がしばらく黙った。布を見つめたまま、何かを考えていた。
それから、ゆっくり首を回して、工房の壁の方を見た。
◇◇◇
「リナ」
「うん」
「お前さん、どうやって機械に読ませるつもりだ」
「針が、要ると思う」
「針」
「そう。針を布の上で走らせて、藍色の目で凹凸が引っかかったら、機械の歯車を動かす」
「凹凸を、歯車に変える」
黙って頷いた。
父が立ち上がって、壁際の引き出しに向かった。引き出しの中から、細い金属の針を二、三本取り出した。普段は時計の細かい修理に使う、極細の針だった。
「これを使ってみるか」
「ありがとう、お父さん」
父はそれだけ言って、椅子に戻った。
机の上に、針と布と歯車を並べた。
頭の中で、装置の構造を組み立て始めた。
——針を布の上に置く。
——布を少しずつ手前に引く。
——針が藍色の目に当たったら、わずかに持ち上がる。
——針が生成色の目に当たったら、そのまま。
——針の上下を、軸につないだ歯車に伝える。
——歯車が回ったら『一』、回らなければ『〇』。
(——前世なら、これは『パンチカードリーダー』)
(——機械が、紙の上の穴を読み取るのと、同じ原理)
(——ここでは穴じゃなくて、糸の組み方の凹凸を読み取る)
机の上で、針を一本、布の上に置いてみた。藍色の目に針の先を当てると、わずかに針が浮いた。生成色の目に当てると、針はそのまま落ちる。
「動く」
声に出さずに呟いた。
◇◇◇
午前中いっぱい使って、針の動きを歯車に変換する仕組みを試作した。
針の上端を細い軸の一端に固定して、軸の中央を支点にする。針が浮くと、軸が傾く。軸の反対側に小さな歯車を取り付けると、軸の傾きが歯車の回転に変わる。
最初の試作では、針の動きが小さすぎて、歯車が回らなかった。
「お父さん、針の動きが小さくて、歯車に届かない」
父が手を止めて、こちらの試作を覗き込んだ。
「てこの比を変えるんだ」
「てこ」
「針の側を短く、歯車の側を長くする。そうすると、針の小さな動きが、歯車の大きな動きになる」
——あ。
前世の物理の言葉が頭の中で立ち上がった。テコの原理。支点からの距離の比で、力と動きが反比例する。
軸の支点を、針側に近づけて、歯車側を長くした。
針が小さく浮いた瞬間、軸の反対側が大きく振れた。歯車に当たって、歯車を一目分だけ回した。
「動いた」
父が短く頷いた。
父はそれだけだった。けれど、わたしの手元をじっと見ていた。
◇◇◇
午後、わたしと父は布の送り装置を作っていた。
布を一行ずつ機械に送り込むための、ローラーのような仕組み。布の両端を細い軸に挟んで、手で軸を回すと布が一目分だけ手前に動く。
「お父さん。これ、機織りを逆にしてるみたい」
「逆?」
「お母さんが織機で布を作る時は、上から下へ巻き取っていく。今は、できた布を逆向きに、機械の方に送ってる」
父が、ふっと笑った。
「確かに、逆だ」
それだけだった。けれど、その笑いには、何かを面白がる響きがあった。
夕方近くまで作業した。布を送る速さを針が読み取る速さに合わせるための調整。針の高さの微調整。歯車の噛み合わせの確認。
最後に、試しに小さな布——藍色の目が三つ並んだだけの、紙の切れ端のような小さな試作布——を装置にかけてみた。
布をローラーに挟む。
針を布の上に置く。
ローラーを手で回す。
布が手前にゆっくり動き始めた。
——藍の目が、針の下に来た。針が浮いた。歯車が一目分回った。
——藍の目が、もう一つ来た。針が浮いた。歯車が一目分回った。
——藍の目が、三つ目。針が浮いた。歯車が一目分回った。
——生成色の目が来た。針はそのまま。歯車は止まったまま。
歯車が、合計三回、止まらずに回った。
「動いた」
声が思わず漏れた。
父が机のこちら側に椅子を回してきた。装置をじっと眺めた。
「リナ」
「はい」
「これは、布を機械に読ませる装置だな」
胸の奥で、何かが温かく広がった。
(——お父さんが、今、それを言葉にした)
父は職人で、こういうことを軽々しく口にする人じゃない。けれど、わたしの作ったこの仕組みを、ちゃんと一言で言語化してくれた。
「うん。布を、機械に読ませる装置」
父が眉をかすかに上げた。
父はそれだけ言って、装置をもう一度、丁寧に眺めた。
◇◇◇
三日目。
エマが昼前に工房の戸口に来た。手に椀を持っていた。
「アルベルト、リナ、お昼よ」
「ああ」
「ありがとう、お母さん」
エマは机の脇に椀を置きながら、装置を覗き込んだ。針と歯車と、その下に置かれた小さな試作布。エマの織物部屋から持ってきた、藍色の目が三つ並んだ布。
「リナ、これが、わたしの織った布を読む装置?」
「そう」
エマが、しばらく装置を見つめた。
「動いてみせて」
小さく頷いた。
ローラーを手で回した。布が手前に動く。針が藍色の目で浮き、生成色の目でそのまま。歯車が三回、止まらずに回った。
エマが、息を飲んだ。
「リナの機械が、わたしの布の上で動いてる」
「うん」
「わたしの織った藍色の目で、針が浮く」
黙って頷いた。
エマがしばらく黙ってから、目を細めて頷いた。
「面白いわね」
「うん」
「お母さん、織物がこんなふうに使われるなんて、思ったこともなかった」
エマの声には、本当に新鮮な驚きがあった。
胸の奥で、また熱が広がった。
(——お母さんが、わたしの作ったものに、本当に驚いてくれた)
(——お父さんと、お母さんと、わたしと、機械が、全部繋がった)
頭の中で、何かがコトリと音を立てた。
◇◇◇
エマが台所に戻った後、わたしは父の隣で粥を食べていた。
机の上に装置と布、それに本物の数表生成機が並んでいた。装置と数表生成機の間には、まだ何の繋がりもない。それぞれが独立して動く、別々の機械だった。
(——これを、繋げる)
(——布の上の藍色の目を、機械の入力に流す)
(——機械が、布に書かれた計算を、自動で実行する)
頭の中で、明日からやることが見えてきた。
父がドライバーを置いて、椀を取り上げた。
「リナ」
「はい」
「明日は、何をするんだ」
「装置と、数表生成機を、繋ぐ」
「ふん」
父はそれだけ言って、粥を一口、口に入れた。
「お父さん」
父が顎を上げた。
「お母さんも、布を織り続けてくれるって」
「そうか」
「明日も、別の布を織ってくれる」
父はゆっくり噛みながら、答えた。
「あいつは、面白いことが好きだからな」
それだけだった。
それだけだったけれど、わたしの胸の奥には、その短い一言の重みがじわじわ広がった。
(——お父さんは、お母さんが工房の側に来たことを、ちゃんと受け止めている)
(——たぶん、嬉しいと思ってる)
(——口に出さないだけで)
工房の窓の外で、麦の刈り入れの跡を穣の月の半ばの秋風が吹いていた。
(——明日、布が、機械に話しかける)
■あとがき・解説
第56話は、エマが織り上げた布を「機械が読み取る」ための装置を、リナと父アルベルトが一日で組み上げる回でした。針が布の凹凸を拾って、てこの仕組みで歯車に変換する。父の極細の修理針が、布と機械の最初の翻訳機として机の上に立ち上がります。今回はその仕組みについて、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「入力装置」——機械の外と中を、繋ぐ口
リナが今回作ったのは、前世の言葉でいうと「入力装置」にあたるものでした。
機械の外にあるもの——布に織られた藍と生成色の目——を、機械の中の言葉、つまり歯車の回転数に変換する装置。前世のコンピュータでいうと、キーボードもマウスもマイクもカメラもみんな入力装置の仲間で、人や世界の動きを電気信号に直して機械の中に流し込む役割を持っています。
ここまでリナと父が作ってきた機械式計算機は、人がハンドルを回して入力していました。人の手が入力装置を兼ねていた、と言えます。今回、針と布の組み合わせがその役を引き継いだことで、機械は初めて「人の手以外のものから入力を受け取れる」道具になりました。
■「テコの原理」——小さな動きを、大きな動きに換える
最初の試作で針の動きが小さすぎて、歯車を回しきれなかった場面。父が短く言った「てこの比を変えるんだ。針の側を短く、歯車の側を長くする」。
テコというのは、棒の途中に支点を置いて、片側に力を入れると反対側がその比に応じた動きをする仕組みのことです。学校で習う物理の中でも一番古くから知られている考え方の一つで、紀元前から「世界を動かすのに足る長い棒があれば、地球も動かせる」と例え話で使われてきました。
針が浮く量はほんのわずかでも、支点から針までを短くして、支点から歯車までを長くすれば、針の小さな動きが歯車の側で大きな動きに増幅されます。原理は単純ですが、装置を組み上げる時にこの比をどこに置くかで、動くか動かないかが決まる。父の一言で、ふたりの机の上の装置がそこから動き始めました。
■「信号変換」——形の違う「ある・ない」を、繋ぎ替える
藍の目と生成色の目の凹凸を、歯車の回る・回らないに置き換える。これは前世の言葉でいうと「信号変換」と呼ばれる仕事です。
世の中の出来事は、いろいろな形の「ある・ない」「強い・弱い」で表されます。光の明るさ、音の大きさ、押されているか押されていないか、温度の高さ。それぞれは違う物理量だけれど、機械の中で扱うためには共通の形に揃える必要がある。マイクが空気の振動を電気の波に直すのも、カメラが光の強さを数値に直すのも、みんな信号変換の仲間です。
リナの装置は、布の上の凹凸を歯車の回転に変換する、ごく素朴な信号変換器でした。けれど、これが一つあるだけで、機械の入力の世界がぐっと広がります。「指で触れば分かるなら、機械にも、たぶん分かる」というリナの一言は、信号変換器を作る人がいちばん最初に立つ場所の言葉でした。
エマが工房まで様子を見に来て、自分の織った布が機械の中で動いている様を目にする場面。「織物がこんなふうに使われるなんて、思ったこともなかった」という驚きが、エマの中に新しい何かをそっと置いていきました。次の話もお楽しみに。




