第54話 母の織機
翌朝、エマがわたしを織物部屋に連れていってくれた。
家の北側、半屋外のように開けた一角。屋根はあるけれど壁は腰の高さまでしかなく、秋の風が織機の周りを通り抜けていく。床は石を敷き詰めてあって、糸の繊維が散らばっていた。
織機は一台。木で組まれた背の高い枠に、縦糸が何本も張られていた。糸の色は生成色と薄い藍。エマが昨日の夜に途中まで織っていたらしい布が、織機の下に半分ほど巻き取られていた。
「これが、わたしの織機。リナがちゃんと見るのは久しぶりかしら」
「うん。久しぶりに、ちゃんと見る」
「何が気になるの?」
エマが織機の前の小さな木の椅子に腰を下ろした。わたしも隣の椅子に座った。腰の高さがエマと同じくらいになる、小さい子供用の椅子だった。
少し迷ってから、口を開いた。
「縦糸が、上と下に分かれてるの、もう一度見たい」
「縦糸?」
エマが首を傾げた。それから、織機の中央に手を伸ばした。
◇◇◇
エマの指が織機の上端の木の棒を軽く押し下げた。
縦糸の一段目が上に持ち上がった。二段目はそのまま下に残った。
縦糸が上下に分かれた瞬間、その隙間に細い棒——横糸を通す道具がすっと通る。
エマが棒の反対側で横糸を受け取って、引っ張った。
「これで、横糸が一本通った」
小さく頷いた。
「で、次は逆になる」
エマがもう一本の木の棒を引いた。さっき上にあった縦糸が下に降りて、下にあった縦糸が上に上がる。横糸を通す。引く。
その繰り返しだった。
——縦糸が上、横糸が通る。
——縦糸が下、横糸が通る。
——上、下、上、下——
(——二進数だ)
頭の中で前世の言葉が立ち上がった。
縦糸の一段目が上にいる時を『一』、下にいる時を『〇』とすれば、横糸が通るたびに『一』か『〇』が決まる。何百本もの横糸を通せば、『一』と『〇』が長い列になる。
(——これは記憶された数の列だ)
ただし、エマの織機ではその列が『模様』として現れる。藍の縦糸が表に出る部分と、生成色の縦糸が表に出る部分。それが交互に並んで、布の上に幾何学模様を作る。
「お母さん。同じ模様を何度も織るときは、どうやって覚えてるの?」
エマが少しだけ驚いた顔をしてから、笑った。
「リナ、ちゃんと見てるのね」
エマは織機の脇の小さな箱に手を伸ばした。
中には、結び目を作りながら巻き取った紐の束が並んでいた。萌の月の終わりに、わたしが初めて織物部屋を覗いた時に見たもの。
「これがね、模様の覚え書きなの」
エマが一本を取り出して、手のひらの上で広げた。
「この結び目があるところで、わたしは縦糸の組み方を変える。結び目がないところはそのまま」
「結び目があると、変える」
「ええ」
「結び目がないと、変えない」
「そう。同じ紐を見ながら織れば、同じ模様が何度でも出来上がる」
胸の奥で、心臓がゆっくり跳ねた。
(——これだ)
(——これが、命令の列なんだ)
——結び目あり:処理を変える(一)。
——結び目なし:処理を変えない(〇)。
エマの紐の束は、それを何百回も繰り返すための『記録』だった。
エマ自身は、たぶんそれを『命令』とは思っていない。『模様の覚え書き』としか思っていない。けれど機能的には、紐は織機への命令列だった。
エマの手は、紐を読み取って、その命令通りに縦糸を動かしていた。
(——お母さんは、毎日、プログラムを実行している)
口に出すのはやめた。エマの世界で「プログラム」という言葉は存在しない。けれど、わたしの目には、それしか見えなかった。
◇◇◇
「リナ」
エマが紐を箱に戻しながら、声をかけてきた。
「何かを思いついたみたいね」
「……うん」
「教えてくれる?」
少し迷ってから、わたしは慎重に言葉を選んだ。
エマには「眼」のことも、コードのことも、まだ話していない。父にも兄にも話していない。だから、織機と機械を繋ぐ話だけを、エマに分かる言葉で説明する。
「お父さんの工房で、わたしが作った機械があるでしょ」
「数を足すやつね。お父さんが嬉しそうに話してくれた」
「そう。あれね、自分では動けないの。手で回さないと、止まったまま」
「そうなの」
「だから、何かに『動き方』を覚えさせて、機械に渡したいの。覚えたものを機械が読み取って、自動で動くようにしたい」
エマが目を細めた。
「動き方を、覚えさせる」
黙って頷いた。
「紙に書いて、ってこと?」
「紙だと、足りない。紙は高いし、書くのも消すのも大変。お母さんの紐の束みたいな、繰り返し使えるものがいい」
エマが、しばらく黙った。
それから、ゆっくりと織機を見上げた。
「リナ、もしかして」
声に出さずに頷いた。
「わたしの織機で、何かを織ろうとしてる?」
「織りたい」
「機械が読める、模様を?」
「そう」
エマが、もう一度黙った。今度は少し長い沈黙だった。
織機の縦糸が一度わずかに揺れて、糸が触れ合うかすかな音がした。
エマが、紐の箱に視線を戻した。
「リナ」
「うん」
「お母さんの織機は、布を織る道具よ」
黙って頷いた。
「お母さんが嫁いできた時から、ずっとそうしてきた」
もう一度頷いた。
エマがゆっくり立ち上がって、織機の枠に手を置いた。指先で枠の縁を撫でるような仕草だった。
「でも」
小さく頷いた。
「織機が、布じゃない別のものを織れるかもしれない、っていうのは」
エマがわたしの顔を見た。緑の目が、少しだけ揺れていた。
「面白い、わね」
胸の奥で、何かが温かくなった。
◇◇◇
「やってみる?」
エマがそう言った。
軽い口調だった。けれど、わたしには重みのある言葉だった。
「いいの?」
「いいわよ」
「お母さんの織機、貸してくれる?」
「貸す、っていうより」
エマが、もう一度織機を見上げた。
「一緒に、織ってみる?」
息が止まりそうになった。
頭の奥で、なにか大きなものが組み変わる音がした。
これまでわたしの発明は、ほとんどが父かグスタフと一緒だった。エマは台所で粥を温めて、わたしの背中を見送るだけの場所にいた。「全部察している」温度 → 態度 で、けれど工房には来なかった。
それが、今、エマの方から「一緒に」と言ってくれた。
「うん」
声が少し震えた。
「一緒に、織りたい」
エマがふっと笑った。少しだけ若い顔だった。三十三歳のエマが、まだ娘時代の何かを思い出したような笑い方だった。
「じゃあ、明日から考えましょう」
「うん」
「リナが、どんな模様を機械に渡したいのか」
深く頷いた。
「それをお母さんが、織機で形にできるかどうか」
「うん。考えよう」
エマがわたしの頭を、軽く撫でた。冷たくて柔らかい手だった。第一話の朝、初めて目覚めた時の、あの手と同じだった。
◇◇◇
家に戻ると、ノラが居間で木の人形と話し込んでいた。
「ねぇね、お帰り」
「ただいま、ノラ」
「お母さんと、おはなししてた?」
「そう。お話ししてた」
「楽しい?」
「楽しい」
ノラはそれだけで満足した顔をして、また木の人形に向き直った。
わたしは台所の椅子に座って、エマが昼の支度を始めるのを眺めていた。
エマは普段通り粥を温めていた。鍋の蓋を開けて、木のヘラで底をゆっくり混ぜる。湯気が顔に当たって、エマの前髪を少しだけ揺らした。
普段の景色だった。
それなのに、わたしの目には、エマがほんの少しだけ違って見えていた。
(——お母さんは、明日から、わたしの工房の側に来る)
(——お母さんの織機が、機械の言葉になる)
(——お母さんはたぶん、自分が何を始めたかまだ気付いていない)
それでよかった。気付かなくても、二人で並んで一緒に手を動かせば、いつかは見えてくる。
エマがこちらを振り返って、椀を運んできた。
「リナ、粥できたわよ」
「ありがとう」
「明日が楽しみね」
エマがそう言って、わたしの目をまっすぐ見つめた。少しだけ目を細めて頷いた。
肩の力がふっと抜けて、呼吸が深くなった。
外で木戸が一度、軽く鳴った。
(——明日から、織機が、別のものを織り始める)
■あとがき・解説
第54話は、リナがエマの織物部屋を「機械の目線」でもう一度見直す回でした。縦糸が上下に分かれる動き、結び目を作りながら巻き取られた紐の束、エマが「同じ模様を何度でも織り直せる」と言ったあの覚え書き。それらが前世の言葉で見直された瞬間、織機は急に、機械の言語を生み出す装置として立ち上がってきます。今回はそのからくりについて、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「二進数と織物」——縦糸の上下が、一と〇になる
エマが踏み板を踏むたびに、縦糸が上がったり下がったりする。横糸が通る瞬間に、縦糸の一段目が上にいれば「一」、下にいれば「〇」と読み替える。たったそれだけの取り決めで、横糸が一本通るごとに「一」か「〇」が確定していきます。
前世の世界で「二進数」というのは、〇と一だけで数や情報を表す書き方のことでした。今いるコンピュータの中で動いている文字も、画像も、音楽も、いちばん下の階層まで降りていけば、〇と一の長い列に行き着きます。
エマは布の上で模様を作っているつもりだけれど、機械の目で見ると、それは縦糸の上下で書かれた長い長い〇と一の列でした。リナが息を飲んだのは、そこで初めて「織物 イコール 二進数の媒体」という形が見えたからでした。
■「命令列」——結び目あり、結び目なし
エマの紐の束。結び目があるところで縦糸の組み方を変えて、結び目がないところはそのまま。エマ自身は、それを「模様の覚え書き」としか思っていません。けれど、機能だけを取り出して見ると、紐は織機への命令の並びそのものでした。
前世のプログラマーが書くソースコードも、いちばん抽象的な姿に剥くと、「これをやれ」「次はこれをやれ」「ここで条件によって分岐しろ」という命令の並びです。命令列、と呼びます。コンピュータの内部では、命令はビット(〇と一)の並びとして書かれていて、機械はそれを読みながら一個ずつ処理していきます。
エマの紐は、結び目という形で「変える/変えない」を記録した、原始的な命令列でした。エマが何十年も毎日、自分の手で命令列を読み取って実行していた——リナがそう気付いた瞬間、母娘の距離が一気に縮まります。
■「ジャカード織機」——コンピュータの最も古い祖先
第53話でリナが頭の中に呼び出した「ジャカードの織機」。これは前世の歴史で実在した織機の名前です。十九世紀の初め、フランスのジャカールという人が、布の模様を制御するために穴の空いた厚紙のカードを織機に読ませる仕組みを完成させました。
紙のカードに、穴があるかないかで縦糸の上下を制御する。穴が「一」、穴がないところが「〇」になる。それを長く繋いで、複雑な模様を機械的に織り出すことができました。
このジャカードの織機こそが、のちのコンピュータの祖先と呼ばれる装置でした。「機械に手順を記録した媒体を読ませる」という発想が、ここから一直線に階差機関、パンチカード式の計算機、現代のコンピュータへと繋がっていきます。リナの世界では、紙ではなくて織物そのものがその媒体になりつつあります。
エマの「やってみる?」「一緒に、織ってみる?」という、軽い口調の重たい誘い。あれはリナがこれまでの工房仕事で、ずっと欲しかった言葉でもありました。次の話もお楽しみに。




