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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ③村を変える小さな発明

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第54話 母の織機

翌朝、エマがわたしを織物部屋に連れていってくれた。


家の北側、半屋外のように開けた一角。屋根はあるけれど壁は腰の高さまでしかなく、秋の風が織機の周りを通り抜けていく。床は石を敷き詰めてあって、糸の繊維が散らばっていた。


織機は一台。木で組まれた背の高い枠に、縦糸が何本も張られていた。糸の色は生成色と薄い藍。エマが昨日の夜に途中まで織っていたらしい布が、織機の下に半分ほど巻き取られていた。


「これが、わたしの織機。リナがちゃんと見るのは久しぶりかしら」


「うん。久しぶりに、ちゃんと見る」


「何が気になるの?」


エマが織機の前の小さな木の椅子に腰を下ろした。わたしも隣の椅子に座った。腰の高さがエマと同じくらいになる、小さい子供用の椅子だった。


少し迷ってから、口を開いた。


「縦糸が、上と下に分かれてるの、もう一度見たい」


「縦糸?」


エマが首を傾げた。それから、織機の中央に手を伸ばした。


◇◇◇


エマの指が織機の上端の木の棒を軽く押し下げた。


縦糸の一段目が上に持ち上がった。二段目はそのまま下に残った。

縦糸が上下に分かれた瞬間、その隙間に細い棒——横糸を通す道具がすっと通る。


エマが棒の反対側で横糸を受け取って、引っ張った。


「これで、横糸が一本通った」


小さく頷いた。


「で、次は逆になる」


エマがもう一本の木の棒を引いた。さっき上にあった縦糸が下に降りて、下にあった縦糸が上に上がる。横糸を通す。引く。


その繰り返しだった。


——縦糸が上、横糸が通る。

——縦糸が下、横糸が通る。

——上、下、上、下——


(——二進数だ)


頭の中で前世の言葉が立ち上がった。


縦糸の一段目が上にいる時を『一』、下にいる時を『〇』とすれば、横糸が通るたびに『一』か『〇』が決まる。何百本もの横糸を通せば、『一』と『〇』が長い列になる。


(——これは記憶された数の列だ)


ただし、エマの織機ではその列が『模様』として現れる。藍の縦糸が表に出る部分と、生成色の縦糸が表に出る部分。それが交互に並んで、布の上に幾何学模様を作る。


「お母さん。同じ模様を何度も織るときは、どうやって覚えてるの?」


エマが少しだけ驚いた顔をしてから、笑った。


「リナ、ちゃんと見てるのね」


エマは織機の脇の小さな箱に手を伸ばした。


中には、結び目を作りながら巻き取った紐の束が並んでいた。萌の月の終わりに、わたしが初めて織物部屋を覗いた時に見たもの。


「これがね、模様の覚え書きなの」


エマが一本を取り出して、手のひらの上で広げた。


「この結び目があるところで、わたしは縦糸の組み方を変える。結び目がないところはそのまま」


「結び目があると、変える」


「ええ」


「結び目がないと、変えない」


「そう。同じ紐を見ながら織れば、同じ模様が何度でも出来上がる」


胸の奥で、心臓がゆっくり跳ねた。


(——これだ)


(——これが、命令の列なんだ)


——結び目あり:処理を変える(一)。

——結び目なし:処理を変えない(〇)。


エマの紐の束は、それを何百回も繰り返すための『記録』だった。


エマ自身は、たぶんそれを『命令』とは思っていない。『模様の覚え書き』としか思っていない。けれど機能的には、紐は織機への命令列だった。


エマの手は、紐を読み取って、その命令通りに縦糸を動かしていた。


(——お母さんは、毎日、プログラムを実行している)


口に出すのはやめた。エマの世界で「プログラム」という言葉は存在しない。けれど、わたしの目には、それしか見えなかった。


◇◇◇


「リナ」


エマが紐を箱に戻しながら、声をかけてきた。


「何かを思いついたみたいね」


「……うん」


「教えてくれる?」


少し迷ってから、わたしは慎重に言葉を選んだ。


エマには「眼」のことも、コードのことも、まだ話していない。父にも兄にも話していない。だから、織機と機械を繋ぐ話だけを、エマに分かる言葉で説明する。


「お父さんの工房で、わたしが作った機械があるでしょ」


「数を足すやつね。お父さんが嬉しそうに話してくれた」


「そう。あれね、自分では動けないの。手で回さないと、止まったまま」


「そうなの」


「だから、何かに『動き方』を覚えさせて、機械に渡したいの。覚えたものを機械が読み取って、自動で動くようにしたい」


エマが目を細めた。


「動き方を、覚えさせる」


黙って頷いた。


「紙に書いて、ってこと?」


「紙だと、足りない。紙は高いし、書くのも消すのも大変。お母さんの紐の束みたいな、繰り返し使えるものがいい」


エマが、しばらく黙った。


それから、ゆっくりと織機を見上げた。


「リナ、もしかして」


声に出さずに頷いた。


「わたしの織機で、何かを織ろうとしてる?」


「織りたい」


「機械が読める、模様を?」


「そう」


エマが、もう一度黙った。今度は少し長い沈黙だった。


織機の縦糸が一度わずかに揺れて、糸が触れ合うかすかな音がした。


エマが、紐の箱に視線を戻した。


「リナ」


「うん」


「お母さんの織機は、布を織る道具よ」


黙って頷いた。


「お母さんが嫁いできた時から、ずっとそうしてきた」


もう一度頷いた。


エマがゆっくり立ち上がって、織機の枠に手を置いた。指先で枠の縁を撫でるような仕草だった。


「でも」


小さく頷いた。


「織機が、布じゃない別のものを織れるかもしれない、っていうのは」


エマがわたしの顔を見た。緑の目が、少しだけ揺れていた。


「面白い、わね」


胸の奥で、何かが温かくなった。


◇◇◇


「やってみる?」


エマがそう言った。


軽い口調だった。けれど、わたしには重みのある言葉だった。


「いいの?」


「いいわよ」


「お母さんの織機、貸してくれる?」


「貸す、っていうより」


エマが、もう一度織機を見上げた。


「一緒に、織ってみる?」


息が止まりそうになった。


頭の奥で、なにか大きなものが組み変わる音がした。


これまでわたしの発明は、ほとんどが父かグスタフと一緒だった。エマは台所で粥を温めて、わたしの背中を見送るだけの場所にいた。「全部察している」温度 → 態度 で、けれど工房には来なかった。


それが、今、エマの方から「一緒に」と言ってくれた。


「うん」


声が少し震えた。


「一緒に、織りたい」


エマがふっと笑った。少しだけ若い顔だった。三十三歳のエマが、まだ娘時代の何かを思い出したような笑い方だった。


「じゃあ、明日から考えましょう」


「うん」


「リナが、どんな模様を機械に渡したいのか」


深く頷いた。


「それをお母さんが、織機で形にできるかどうか」


「うん。考えよう」


エマがわたしの頭を、軽く撫でた。冷たくて柔らかい手だった。第一話の朝、初めて目覚めた時の、あの手と同じだった。


◇◇◇


家に戻ると、ノラが居間で木の人形と話し込んでいた。


「ねぇね、お帰り」


「ただいま、ノラ」


「お母さんと、おはなししてた?」


「そう。お話ししてた」


「楽しい?」


「楽しい」


ノラはそれだけで満足した顔をして、また木の人形に向き直った。


わたしは台所の椅子に座って、エマが昼の支度を始めるのを眺めていた。


エマは普段通り粥を温めていた。鍋の蓋を開けて、木のヘラで底をゆっくり混ぜる。湯気が顔に当たって、エマの前髪を少しだけ揺らした。


普段の景色だった。


それなのに、わたしの目には、エマがほんの少しだけ違って見えていた。


(——お母さんは、明日から、わたしの工房の側に来る)


(——お母さんの織機が、機械の言葉になる)


(——お母さんはたぶん、自分が何を始めたかまだ気付いていない)


それでよかった。気付かなくても、二人で並んで一緒に手を動かせば、いつかは見えてくる。


エマがこちらを振り返って、椀を運んできた。


「リナ、粥できたわよ」


「ありがとう」


「明日が楽しみね」


エマがそう言って、わたしの目をまっすぐ見つめた。少しだけ目を細めて頷いた。


肩の力がふっと抜けて、呼吸が深くなった。


外で木戸が一度、軽く鳴った。


(——明日から、織機が、別のものを織り始める)


■あとがき・解説


第54話は、リナがエマの織物部屋を「機械の目線」でもう一度見直す回でした。縦糸が上下に分かれる動き、結び目を作りながら巻き取られた紐の束、エマが「同じ模様を何度でも織り直せる」と言ったあの覚え書き。それらが前世の言葉で見直された瞬間、織機は急に、機械の言語を生み出す装置として立ち上がってきます。今回はそのからくりについて、ゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「二進数と織物」——縦糸の上下が、一と〇になる


エマが踏み板を踏むたびに、縦糸が上がったり下がったりする。横糸が通る瞬間に、縦糸の一段目が上にいれば「一」、下にいれば「〇」と読み替える。たったそれだけの取り決めで、横糸が一本通るごとに「一」か「〇」が確定していきます。


前世の世界で「二進数」というのは、〇と一だけで数や情報を表す書き方のことでした。今いるコンピュータの中で動いている文字も、画像も、音楽も、いちばん下の階層まで降りていけば、〇と一の長い列に行き着きます。


エマは布の上で模様を作っているつもりだけれど、機械の目で見ると、それは縦糸の上下で書かれた長い長い〇と一の列でした。リナが息を飲んだのは、そこで初めて「織物 イコール 二進数の媒体」という形が見えたからでした。


■「命令列」——結び目あり、結び目なし


エマの紐の束。結び目があるところで縦糸の組み方を変えて、結び目がないところはそのまま。エマ自身は、それを「模様の覚え書き」としか思っていません。けれど、機能だけを取り出して見ると、紐は織機への命令の並びそのものでした。


前世のプログラマーが書くソースコードも、いちばん抽象的な姿に剥くと、「これをやれ」「次はこれをやれ」「ここで条件によって分岐しろ」という命令の並びです。命令列、と呼びます。コンピュータの内部では、命令はビット(〇と一)の並びとして書かれていて、機械はそれを読みながら一個ずつ処理していきます。


エマの紐は、結び目という形で「変える/変えない」を記録した、原始的な命令列でした。エマが何十年も毎日、自分の手で命令列を読み取って実行していた——リナがそう気付いた瞬間、母娘の距離が一気に縮まります。


■「ジャカード織機」——コンピュータの最も古い祖先


第53話でリナが頭の中に呼び出した「ジャカードの織機」。これは前世の歴史で実在した織機の名前です。十九世紀の初め、フランスのジャカールという人が、布の模様を制御するために穴の空いた厚紙のカードを織機に読ませる仕組みを完成させました。


紙のカードに、穴があるかないかで縦糸の上下を制御する。穴が「一」、穴がないところが「〇」になる。それを長く繋いで、複雑な模様を機械的に織り出すことができました。


このジャカードの織機こそが、のちのコンピュータの祖先と呼ばれる装置でした。「機械に手順を記録した媒体を読ませる」という発想が、ここから一直線に階差機関、パンチカード式の計算機、現代のコンピュータへと繋がっていきます。リナの世界では、紙ではなくて織物そのものがその媒体になりつつあります。


エマの「やってみる?」「一緒に、織ってみる?」という、軽い口調の重たい誘い。あれはリナがこれまでの工房仕事で、ずっと欲しかった言葉でもありました。次の話もお楽しみに。


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