第34話 古老の家
朝。
母エマがわたしの手を引いて、家を出た。
「リナ。エルナ様がリナを呼んでるから、まず教会に寄りましょう」
「うん」
盛夏の陽射しはもう少し柔らかくなりはじめていた。
庭の隅でノラが土の山を作って遊んでいる。父は工房に行ったあとで、家には朝の片付けの匂いだけが残っていた。
教会までは家から歩いて五分ほど。
村の中央広場を抜けて、白い石の小さな塔が見えてくる。
エマの手は乾いていて温かかった。
わたしはその手の温度を覚えておこうとした。
(——お母さんは、わたしをエルナさんに「預けて」いる)
(——でも、追及はしない)
(——これがお母さんの距離の取り方)
教会の前に祭司エルナが立っていた。
白と銀の祭司服。長い灰色の髪を編んでいる。藍色の瞳がわたしを見て、ほんの少しだけ細められた。
「リナ。お母さんと一緒に来てくれたのね」
「はい」
エマがわたしの肩に手を置いた。
ごつごつしていない、織機の糸で少し荒れた手。
「エルナ様。リナをお願いします」
「ええ。お預かりします」
エマが屈んで、わたしの目を見た。
「リナ。あとでね」
「うん。お母さん、あとでね」
エマは立ち上がって、来た道を戻っていった。
振り向かなかった。それはエマの優しさだとわたしは思った。
◇◇◇
エルナがわたしを教会の控室に通した。
石造りの小さな部屋。木の机と椅子。壁に古い銀の燭台。
窓から入る陽射しが机の上で四角く区切られていた。
エルナは椅子をすすめなかった。
立ったまま、わたしを見下ろして、静かに口を開いた。
「リナ。あなたに会わせたい人がいるの」
わたしはエルナの顔を見上げた。
「……バルドゥスさん?」
エルナの眉が一瞬だけ上がった。
驚きを完全には隠さなかった。
「ええ。よく知っているのね」
「お母さんから昨日聞きました」
「そう」
エルナは小さく頷いて、机の引き出しから一枚の紙片を取り出した。
四つに折られた、少し古い羊皮紙。
「これを持って、村のはずれの家に行ってみて」
紙片はわたしの手のひらに収まる大きさだった。
表に何かが書かれている。エルナの字だ。
「エルナさんは、行かない?」
エルナはわたしを見つめた。藍色の瞳の奥で、何かが少しだけ動いた。
「わたしが行くと、バルドゥスは話してくれないの」
エルナが少しだけ笑った。よく見ないと分からないくらいの、薄い笑い。
「あの人はね、わたしを『今の祭司』としか見ないから」
(——どういうこと?)
口に出さなかった。エルナはわたしが分かるまで待つ気はなさそうだった。
エルナが続けた。
「あの人は『伝承を語る相手』を選ぶの。わたしには選ばれなかった」
少しの沈黙。
「あなたには、選ばれるかもしれない」
(——選ばれる、ということ)
(——わたしの観察力を見抜かれることと、たぶん同じ意味)
(——でも、ここまで来たら、行くしかない)
わたしは紙片をぎゅっと握った。
「分かりました。行ってみます」
エルナは小さく頷いた。
それ以上のことは何も言わなかった。
◇◇◇
教会を出て、村のはずれへ向かう。
エルナは中央広場の手前まで一緒に歩いてくれた。
そこで足を止めて、わたしの背中を一度だけ撫でた。
「広場の向こうまでは大人の往来がある道よ。あとは麦畑の縁を真っ直ぐ」
「はい」
「行ってらっしゃい」
振り返ると、エルナはまだ広場の入口に立っていた。
祭司服の白が朝の光に淡く滲んでいた。
中央広場から東に折れて、麦畑の脇の細い道に入る。
朝のうちはまだ涼しい風が麦の穂を撫でていた。
(——前世のわたしなら)
(——初対面の相手から情報を引き出すのは得意だった)
前世で進行管理をしていた頃、何度もやった。新規プロジェクトの初顔合わせ。
取引先の意向を聞き出す商談。コードレビューで相手の意図を確かめる対話。
(——でも今のわたしは「子供を演じる戦略」中)
(——バルドゥスさんに対しても、どこまで開くか、決めないと)
紙片はわたしの右手の中で少し汗ばんでいた。
麦畑が途切れて、村の端に出た。
野原の向こうに古い石の家が一軒、ぽつんと建っている。屋根は半分が苔むしていて、煙突から細い煙が一筋だけ立ち上っていた。
家の前には木のベンチと、丸い石を並べただけの小さな庭。
庭の真ん中に枯れかけの薬草が植わっている。
ベンチに、痩せた老人が座っていた。
空を見上げている。
白い長髪は肩より長く垂れ、長い髭が胸まで届いていた。
わたしはゆっくり近づいた。
◇◇◇
老人がわたしに気付いて、ゆっくり振り向いた。
額に深い皺。眉は太く白い。
そして目が——その目だけは、皺の奥で鋭く光っていた。
「お前さん、誰じゃ」
声は低くて、少しかすれていた。
「あ、あの。エルナさんからの紹介で、バルドゥスさんに……」
わたしは紙片を差し出した。
バルドゥスは骨ばった指で紙片を受け取って、目を細めた。
紙片を顔に近づけて、しばらく読む。
「ふん。エルナか」
紙片を膝の上に置いて、わたしを見た。
「リナ、と書いてある」
「はい」
「八歳にしては、しっかりした足取りで来たな」
(——観察されている)
(——でも、急かさない)
バルドゥスはベンチの隣を骨ばった手で軽く叩いた。
「座れ」
わたしは座った。
ベンチの木は古くて、お尻に少しだけささくれが当たった。
バルドゥスは何も言わなかった。
わたしも何も言わなかった。
——こういう時は待つのが正解。
前世のPMで何度も学んだ。喋り出すのは、たいてい焦った方が負ける。
風が麦の穂を撫でる音がして、遠くで雀が鳴いていた。
バルドゥスはまた空を見上げて、ゆっくり呼吸していた。
どれくらい経っただろう。
やがてバルドゥスが、空を見たまま口を開いた。
「お前さん。エルナの、何が気に入った」
わたしは少しだけ考えた。
正しい答えではなく、自分の答えを選んだ。
「……怖くないところ」
「ほう」
バルドゥスの白い眉が少しだけ動いた。
それだけだった。
「最初は怖かった。でも、わたしを責めないでくれた」
「ふん」
バルドゥスは空を見たままだった。
(——この人、わたしを子供扱いしてない)
(——でも、押し付けもしない)
(——ただ、聞いている)
◇◇◇
しばらくしてバルドゥスが、もう一度わたしを見た。
「リナ。お前さん、何しに来た」
その問いは唐突だった。
わたしの心臓が少しだけ早く打った。
「えっと……お母さんが、バルドゥスさんに会いに行きなさいって」
「母親が、わしのところに、八歳の子供を寄越したか」
バルドゥスは紙片を指でつまんで持ち上げた。
「ふん。エルナの差し金じゃろ」
「……はい、たぶん」
バルドゥスが少しだけ目を細めた。
笑ったのか、訝しんだのか、わたしには分からなかった。
そして老人は、静かに言った。
「リナ。お前さん、何か『見える』のか」
わたしの心臓が一瞬だけ止まった。
(——直接、来た)
(——否定するか、認めるか)
口の中が乾いた。
答えを選ぼうとして、選べなかった。
「……えっと」
それしか出てこなかった。
バルドゥスは追及しなかった。
ただ静かにわたしを見ていた。皺の奥の目だけがじっと、わたしの目の奥を覗き込んでいる。
沈黙。
そしてバルドゥスが、ゆっくり言った。
「お前さんの眼は——わしが昔聞いた話に似ておる」
◇◇◇
わたしの息が止まった。
(——何の話)
(——わたしの「眼」に似た何かを、知っている人が、いる)
問い返したかった。喉まで言葉が出かかった。
でもバルドゥスは続けなかった。
老人はまた空を見上げて、低い声で言った。
「日が傾いてきた」
陽はまだ高かった。傾いてなどいなかった。
それはバルドゥスの言葉のあやだった。
(——もっと聞きたい)
(——でも今日は、ここまでだ)
バルドゥスは膝の上の紙片を四つに畳んで、長衣の懐にしまった。
ゆっくりと立ち上がって、杖をついた。
「明日また来い、嬢ちゃん」
それだけ言って、バルドゥスは目を閉じた。
ベンチに立ったまま、空に顔を向けて、もう動かない。
わたしはしばらくその場に座っていた。
やがて静かに立ち上がって、頭を下げた。
「失礼します」
返事はなかった。
わたしは来た道を戻り始めた。
右手の中で、もう紙片はなかった。代わりに、バルドゥスの最後の言葉が、まだそこに残っていた。
■あとがき・解説
第34話は、リナが村のはずれに住むバルドゥス老人を訪ねる回でした。沈黙が多くて言葉が少ない対話。今回はその「沈黙の使い方」について、現代の仕事の場面と重ねて考えてみます。
■この話で出てきた言葉
■「沈黙を待つ」
会話の中で相手が黙ったとき、つい焦って何か喋ってしまいたくなる。これはほとんどの人に共通する反射です。けれど商談や聞き取りの現場では、その沈黙にこそ大事な情報が乗っていることがよくあります。
「先に喋った方が負け」というのは前世のPMリナが何度も学んだ作法でした。相手が考えているなら、考え終わるまで待つ。こちらの不安で間を埋めようとして余計なことを口走ると、相手の本音が引っ込んでしまう。
バルドゥスの隣に座って、麦の穂を撫でる風の音と雀の声だけが続く時間。あれは八歳児のリナにとっても、前世のPMのリナにとっても、本当に必要な「待ち」の時間でした。
■「インタビューの距離感」
初対面の相手から話を引き出すとき、こちらが踏み込みすぎると相手は閉じる。逆に放っておきすぎると相手は語り始めない。その間にあるちょうどいい距離を、取材やユーザーインタビューの世界ではよく「距離感」と呼びます。
バルドゥスがやっていたのは、たぶん逆向きのインタビューでした。質問するのは老人の側で、リナが答える。「エルナの何が気に入った」「お前さん、何しに来た」「何か『見える』のか」。短い問いを最低限の距離で投げて、答えの中身よりも答え方を観察している。これは祭司見習いだった人の、長い年月で磨かれた距離の取り方です。
エルナが「あの人はわたしを『今の祭司』としか見ない」と少し寂しそうに言った場面。同じ職能を持つ人にすら選ばれないバルドゥスの距離感の厳しさが、ここに滲んでいました。
■「観察される側に立つ」
リナはこれまで「観察する側」の人でした。前世でも、転生してからも、入力と処理と出力を眺める眼鏡を通して世界を見てきた。
でもこの回、リナは初めて「自分が観察される側」に長時間置かれます。ベルマン氏は商人としての計算でリナを見ていましたが、バルドゥスはもっと別の何かでリナを見ていました。皺の奥の鋭い目で、こちらの目の奥を覗き込まれる。観察する側だった人が観察される側に回ったとき、人は思った以上に身動きが取れなくなります。
「お前さんの眼は、わしが昔聞いた話に似ておる」——この一言を聞いた瞬間のリナの止まった息は、たぶんこの物語が始まってから一番大きな止まりでした。次の回でその続きが少し見えます。
次の話もお楽しみに。




