第35話 魔導の始祖
翌朝。
わたしは一人で家を出た。
「お母さん。バルドゥスさんに会いに行ってきます」
エマは竈の前で振り向いた。少しだけわたしの顔を見て、屈んで頭を撫でた。
「気をつけてね」
それだけだった。理由は聞かなかった。
戸の外まで一緒に出てきたエマは、井戸端の手前で足を止めた。井戸では村のおかみさんが二人ほど水を汲んでいる。広場までの道沿いには大人の往来があった。
「広場を抜けたら、まっすぐよ」
「うん」
振り向くと、エマは井戸端の脇に立ったまま小さく手を振っていた。中央広場を抜けて麦畑の脇の道に入る。朝の空気はまだ涼しく、穂の上を細い風が走っていた。
(——昨日の続きが、たぶん今日来る)
(——どこまで聞いてもいいのか。どこまで話していいのか)
頭の中では昨日の最後の言葉が再生されていた。
「お前さんの眼は——わしが昔聞いた話に似ておる」
◇◇◇
バルドゥスの家に着いた。
ベンチに姿はなかった。扉が半分開いていて、中から低い咳の音がした。
「リナです。来ました」
「入れ」
家の中は外より少し暗く、中央に粗削りの机と椅子が二脚。バルドゥスは机の向こうに座っていた。
「座れ」
わたしは向かいの椅子に座った。バルドゥスが目を開けた。皺の奥の目は昨日と同じく鋭かった。
「リナ。昨日わしは、お前さんの眼は昔聞いた話に似ておる、と言った」
「はい」
「今日も来た。ということは、知りたいんじゃろ」
少し迷った。それでも答えは決まっていた。
「……はい」
「ふん」
バルドゥスは机の下から古い木の箱を取り出した。蓋を開けると、紐で括られた薄い羊皮紙の束が現れた。
「これは、わしが祭司見習いの頃に書き写した、古い伝承の一部じゃ」
紐を解く骨ばった指。
「全部本当じゃないかもしれん。だが、わしはそう聞いた」
(——真偽不明をちゃんと言う人だ)
裏付けのない話を「裏付けのない話」として渡してくれる人は、思ったより少ない。
◇◇◇
バルドゥスがゆっくり語り始めた。
「昔——どれくらい昔かは分からん。神々が大陸を去る前か、去った直後か。伝承では揺らぐ」
「はい」
「ただな。その時代に、お前さんと同じ眼を持つ者がおった」
息が一瞬止まった。
「……同じ」
「魔法を読める眼を持っておった、と伝承は言う」
(——『読める』。わたしと同じ言葉)
胸の奥でしんと冷えるような感覚があった。温度の低い驚きだった。
「男か女か、人間かどうかも、伝承では揺れる。だが『眼を持っていた』という一点だけは、どの伝承でも共通しておる」
「その人は、たくさんの弟子を取った。弟子たちはそれぞれ別の系統の魔法を学んでいった」
バルドゥスが低い声で名前を上げた。
「ヴェル、ソルム、アヴェ、ベネ——古い伝承ではそう呼ばれておる」
背筋が鈍く震えた。
(——わたしが見つけた4系統。全部、その人から出ている)
自分で読み解いて分類した4つの系統。その呼び方は微妙にずれていたが、対応する音はそのまま残っていた。
「お前さんの『眼』が、もしその人と同じものなら」
バルドゥスはわたしの目を見た。
「お前さんはたぶん——いや、これはわしの推測じゃ」
老人は一度言い直して続けた。
「お前さんも、何かを伝える側になるかもしれん」
(——伝える側。わたしが?)
前世のわたしはテックリードだった。新人にレビューを返すのは好きだった。——だけど、あれはチームの中の話だ。
バルドゥスが少しだけ笑った。
「急いてはならぬ。世界には急いではいけぬことが多い」
「……はい」
「お前さんはまだ八歳じゃ」
その言葉は妙に温かかった。
◇◇◇
バルドゥスがもう一枚、羊皮紙をめくった。
「その始祖は——ある日、消えた」
「消えた?」
「世界の外へ、と伝承は言う」
老人の皺の奥の目は遠くを見ていた。
「世界の根っこに触れた、読み取り層を覗いた——その結果、世界の外へ出た。そう伝わっておる」
「行き先は誰も知らん」
部屋の中が急に静かになった。
(——世界の根っこ。読み取り層。何の話)
息が浅くなった。聞いたことのない言葉なのに、輪郭がどこか——前世で知っている何かに似ていた。
「層」と言った。
わたしの中で、小さな歯車が一つ回り始めた。
◇◇◇
バルドゥスが羊皮紙を畳んだ。箱に戻そうとして、手を止めた。
「リナ」
「はい」
「一つだけ、お前さんに伝えたいことがある」
老人は箱の縁を骨ばった指でなぞって、それから言った。
「魔法陣はそのままでは動かぬ」
心臓が一つ強く打った。
「……え」
「魔法陣は、ただの絵じゃ」
バルドゥスは静かに続けた。
「あれが動くのは、世界がそれを読み取って動かしてくれるからじゃ」
声は震えなかった。確信のある声でもなかった。誰かから教わったことをそのまま渡しているような、平らな声だった。
「……どういうこと、ですか」
声が震えそうになるのを抑えて、それだけを返した。
「わしも、よくは分からん。ただ、わしの師の師がそう言ったと、わしは聞いた」
老人は箱を脇に寄せた。
「魔法陣と魔石と魔力——その三つの間に、もう一つ何かがある。それが何なのかは誰も知らん。たぶん始祖は知っておった」
老人は少し声を落とした。
「——言うておくが、こういう問いを祭司の前でするでないぞ。『なぜ動くか』を問うのは、神々の御業を疑うのと同じじゃ。あの連中は、ひどく嫌な顔をする」
(——もう一つ。魔法陣の下に、何か)
頭の中で小さな歯車がもう一段噛み合った。
(——前世で言えば、書いたコードと CPU の間にある——コンパイル後の機械語のような、何か)
ソースコードはそのままでは動かない。一度機械語に変換されてから、プロセッサが読む。
——わたしは今まで、魔石が魔法陣を直接読んで発動するのだと思っていた。
——でも、その間にもう一層あるのだとしたら。
(——わたしは魔法陣を読めるけど、その『下』までは読み取れていない)
(——「眼」は、まだ半分しか届いていない)
母エマのベシリア。祭司エルナのルクスやリトゥアレ。グスタフの工房の火床番。あの全部の下に、わたしがまだ読み取れていない層が、ある。
頭が熱くなった。好奇心の熱だった。
「ふん」
バルドゥスの声がわたしを引き戻した。
「面白い顔をするのう」
「あ……ごめんなさい」
慌てて姿勢を直した。
「いや、構わぬ。お前さんは、急いて何かに気付いたな」
「……はい」
「言わんでいい。お前さんが見たものは、お前さんのものじゃ」
老人は箱の蓋を閉じた。羊皮紙はもう見せなかった。
◇◇◇
「今日はここまでじゃ」
「はい」
「お前さんは、これから自分で見ていけ。わしの話は古い。古いものは参考にはなるが、答えにはならぬ」
深く頷いた。
「また来てもいいですか」
「ふん。来たければ来い」
バルドゥスは目を閉じた。
「だが、急ぐな。お前さんはまだ八歳じゃ」
椅子から下りて、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
返事はなかった。老人の白い髭が呼吸に合わせてゆっくり動いていた。
家を出る時、扉の蝶番が小さく軋んだ。
◇◇◇
外に出ると、夕陽が傾き始めていた。
(——もうそんな時間)
部屋の中では時間の感覚がなかった。
麦畑が夕陽に染まって金色に揺れている。遠くで誰かが牛を呼ぶ声がした。
歩きながら、今日聞いた話を並べ直す。
(——古代に、わたしと同じ『眼』を持つ人がいた)
(——その人は世界の外へ消えた)
(——魔法陣の下に、もう一層ある)
別々の事実のはずなのに、頭の中ではきれいに繋がった。始祖は「世界の根っこに触れた」「読み取り層を覗いた」。読み取り層——それがたぶん、わたしにまだ見えていないあの「下」のことだ。
(——同じ眼を持つ人がいた。わたしは、孤独ではない)
胸の奥に小さな灯がともった。
前世でも転生してからも、わたしの目線を完全に分かってくれる人はいなかった。家族は受け入れてくれる。エルナは観察してくれる。バルドゥスは語ってくれる。——でも、「同じものを読み取っている人」はいなかった。
遠い昔に確かに「同じ眼」の人がいた。それだけで足取りが少しだけ軽くなった。
◇◇◇
(——次は、何を作ろう)
頭のどこかでいつもの問いが浮かんだ。村の小さな問題を楽にする道具。家族が困っていることを片付けてくれる仕組み。作りたいものはまだいくつもあった。
(——でも、その前に)
立ち止まって空を見上げた。陽の月の空に薄い雲が一筋流れていた。
(——何が見えていないかを、知ろう)
「眼」は半分しか届いていない。そう知ったことが、今日いちばん大きな収穫だった。
なぜ動くのかを、わたしはまだ本当には分かっていない。
それを知らないままで何かを作るのは危ない。分かっているつもりで作ったものが、ある日いちばん大きく裏切る。前世で何度も見た。
(——急いてはならぬ)
バルドゥスの言葉が頭の中で繰り返された。
小さく息を吐いて、また歩き出した。胸の中で新しい灯が静かに揺れていた。
家の戸を開けると、竈の前のエマが振り返った。
「お帰りなさい、リナ」
「ただいま」
エマがわたしの顔を一度だけ見て、屈んで頭を撫でた。
「どうだった?」
「うん。たくさん、お話してくれた」
「そう」
エマはそれ以上は聞かなかった。エプロンで手を拭いて、椀をひとつ食卓の端に置いてくれた。
「お腹、空いたでしょう」
「うん」
竈の薪が一度だけパチリと鳴った。エマの背中越しに、夕陽が土間の床に落ちていた。
——次は、何を作ろう。
——その前に、何が見えていないかを、知ろう。
■あとがき・解説
「眼を、隠す」の章の締めくくりとなる第35話でした。バルドゥス老人から「魔法陣はそのままでは動かぬ」という、これまでの前提を根っこから揺らす一言が出てきます。今回はリナの中で動いた歯車を、現代の言葉で言い換えてみます。
■この話で出てきた言葉
■「中間層/抽象化のレイヤー」
ソフトウェアの世界では、目に見える表面と、実際に動く深部の間に、何枚もの中間の層が挟まっています。アプリの画面の下にはアプリのプログラムがあって、その下にはOSがあって、その下には機械語があって、その下には電気の信号がある。一段ずつ翻訳しながら層を降りていって、ようやく物理現象に辿り着く。
人が直接見えるのは一番上の層だけです。でも上の層だけ眺めていても、本当の動きは分かりません。途中の翻訳がどこかで間違っていれば、表面の挙動が原因不明の不具合になります。
リナはこれまで「魔法陣を読める眼」を持っていました。けれどその眼は、たぶん一番上の層しか読めていない。バルドゥスが言った「魔法陣と魔石と魔力の間に、もう一つ何かがある」というのは、リナの「眼」がまだ届いていない中間層の存在を指している言葉でした。
■「ソースコードと機械語」
本文でリナが「ソースコードはそのままでは動かない。一度機械語に変換されてから、プロセッサが読む」と思い出した場面、ここがこの話の鍵でした。
プログラマーが書く文字と、CPUが実際に読む信号(機械語)は、別のものです。ソースコードはあくまで人間が読み書きしやすい形。それを翻訳するもう一つの仕組み——コンパイラやインタプリタと呼ばれるもの——がいて初めて、機械の上で動きます。
リナは今まで、魔石が魔法陣を直接読んで発動させているのだと思っていました。でも本当はその間に何かの翻訳者がいる。翻訳者の正体は分からないけれど、いることだけは分かった。これは「眼」が半分しか見えていないという、痛みを伴う気付きでした。
■「分かっているつもりで作るのは危ない」
リナが歩きながら自分に言い聞かせた、この一言。前世のソフトウェア開発の現場で、本当によく言われる戒めです。
仕組みを完全には理解していないのに、表面の挙動だけ真似て道具を組むと、ある日いちばん大事な場面で裏切られます。普段は動くけれど特定の条件で壊れる。直したつもりが別の場所で噴き出す。原因が層の下にある間は、表面をいじっても本当の解決にはなりません。
だからリナは「次は何を作ろう」ではなく「その前に、何が見えていないかを、知ろう」を選びました。急がない、という戦略の続きです。
「眼を、隠す」の章はここで一区切りです。第16話から始まった「外との接触」と「家族の中の保留」の流れは、第32話のベルマン氏との対面と、第35話のバルドゥスとの邂逅でひと段落しました。リナは孤独な観察者ではなくなり、けれど世界の本当の姿はまだ半分しか見えていないと知りました。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。次の章でも、リナと一緒に「下の層」を覗きに行っていただけたら嬉しいです。
次の話もお楽しみに。




