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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ②眼を、隠す

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第33話 兄の道

ベルマン氏が馬車で去ってから、二日が過ぎた。


家の中はいつも通りだった。

父は工房に通い、母は織機の前に座り、ノラは庭で土をいじっている。


——いつも通り。


でも夜になると、父と母が小声で話し込んでいる気配が屋根裏まで上ってきた。


(——契約をどうするのか)


(——お父さんはたぶん受ける)


(——わたしから何か言うことはない)


寝床の中でわたしはそう決めた。

ベルマン氏との対面でも結局わたしの仕事は「黙る」だった。今もそれは変わらない。

子供は黙る。それが今のわたしの戦略だった。


ノラが隣でむにゃと寝言を言って、寝返りを打ってわたしの肩に頭を寄せた。

その柔らかい頭の温もりを感じながら、わたしも眠りに落ちた。


◇◇◇


翌朝。


食卓の前でヨハンの様子が少し変だった。

スプーンを持つ手が止まる回数が多い。母エマが「食べないの?」と聞くと、ヨハンは「あ、食う」と慌てて口に運ぶ。


父も母も気付いている顔をしていた。でも何も言わない。


朝食が終わって皆が席を立ったとき、ヨハンがわたしに小さく声をかけた。


「リナ。あとで井戸に来てくれ」


「うん」


◇◇◇


井戸の脇に二人で座った。


陽の月の陽射しはまだ強かった。

井戸の縁の石は冷たくて、座るとお尻にひんやりと伝わってくる。


ヨハンは長いこと黙っていた。

膝に肘をついて、両手を組んでいる。横顔は十三歳の少年のものなのに、いつもより少し大人びて見えた。


「リナ」


「うん」


「話があるんだ」


「うん」


ヨハンが息を一つ吸って、それを長く吐いた。


「俺、来春から町の自警団見習いに出る」


——え。


息が一拍だけ止まった。


「……お兄ちゃん」


「ハーラム町でな。住み込みだ。最初の一年は帰れない。あとは祭礼の時だけ」


ヨハンの声は意外と落ち着いていた。何度も口の中で練習した声だった。


三年の修行。最初の一年は完全に町に住み着く。今のヨハンは十三歳。来春には十四歳になり、三年の修行を終えるころには十七歳だ。わたしは今八歳。ノラは三歳。


「いつから決めてたの?」


問う声が、ほんの少しだけ高くなった。演技ではなかった。


「半年前から考えてた。父さんが先月、ハーラム町の自警団長と話をつけてくれた」


(——わたしが知らないところで)


(——家族の未来が、もう動いていた)


肋骨のどこかに、ちくりと針が刺さるような感覚があった。

でもそれは怒りでも悲しみでもなく、ただ「ああそうか」という納得に近かった。


(——わたしも家族に隠してることがいっぱいある)


(——お互い様だ)


ヨハンがふと、わたしの顔を覗き込んだ。


「リナ、寂しいか?」


「うん。寂しい」


わたしは即答した。

嘘ではなかった。ヨハンはわたしの盾だった。家で「変わった子」と思われても絶対に庇ってくれた。ベルマン氏が来た日も、外で見張ってくれていたのはヨハンだった。


ヨハンが少し笑った。えくぼができた。


「俺もな。寂しい。でも、男はいつかは家を出るもんだろ」


大袈裟に胸を張ってみせる。十三歳の少年がやると、もう少し背伸びした男前の仕草に見えた。


わたしも笑った。笑うことしかできなかった。


(——お兄ちゃんが町に行く)


(——最初の一年は会えない)


(——遠くに行くお兄ちゃんと連絡を取り合う方法が欲しい)


(——音声でない方法で言葉を交わす仕組みを)


頭の中で何かが小さく光った。

まだ形になっていない、薄い光だった。けれど確かに、一つの設計図の輪郭がそこにあった。


ヨハンはわたしの頭をくしゃりと撫でた。


「リナ、強くなれよ」


「お兄ちゃんもね」


二人で井戸の縁に並んで座って、しばらく陽の月の空を見上げていた。


◇◇◇


昼。


母エマと裏庭で洗濯物を干していた。

湿った麻布を絞って紐に渡し、木の留め具で挟む。単純な作業だった。


「リナ。今朝のヨハンの話、聞いた?」


エマがふいに言った。


「うん。来春、町に行くって」


エマが少しだけ寂しそうに笑った。


「あの子も大人になるのねえ」


二人で布を畳む手は止めなかった。湿った麻の匂いが鼻をくすぐる。


エマが何かを思い出したように顔を上げた。


「あ、そういえばね」


「うん?」


「最近、村の何軒かで、魔法の調子が悪いって話があるのよ」


布を畳む手が、一瞬だけ止まった。


「魔法の調子が悪い?」


「ええ。マルダさんとこのベシリアがね、なんだか火がうまく点かなかったらしいの」


エマは布を畳みながらほんの少し首を傾げた。


「三回唱えてようやく点いたんですって」


(——三回)


頭の奥で小さな警報が鳴った。

魔法陣はコードだ。コードは同じ入力に同じ出力を返すはず。三回唱えてようやく動くというのは——「不安定」だ。


「他にもね、ヒルダさんの井戸のアクシリアも、水の出が悪いって」


(——え)


胸の奥で何かが叫んでいた。でも口には出さなかった。出してはいけない。


「お母さん、それってよくあること?」


「うーん」


エマは少し考えてから答えた。


「たまにはあるわよ。気温とか湿気とかで魔石の調子が悪くなる年もあるって、エルナ様も言ってたわ」


エマは深く気にしていない様子だった。

でもわたしは引っかかった。


(——魔石は環境に影響される。でも複数の家で同時に?)


(——後で考えよう)


今はヨハンのことで頭が一杯だった。

わたしは引っかかりを胸の奥にしまって、もう一枚の布に手を伸ばした。


◇◇◇


夕方。


工房から父が戻ってきた。わたしは戸口で父を迎えた。


「リナ。ベルマン氏の件、明日返事を返す」


わたしは少し驚いて父を見上げた。


「受ける。月十個。ただし俺とグスタフで作る」


父の声は短かった。

肩の力がほっと抜けた。


「うん」


父はわたしの肩にごつごつした手を一度だけ置いた。


「お前は何も気にせず、お前のしたいことをしろ」


——お父さん。


涙が出そうになって、わたしは慌てて唇を結んだ。


「うん。ありがとう、お父さん」


父はそれだけ言うと、奥の部屋に入っていった。


(——お父さんは、わたしを守ってくれている)


(——黙って、ずっと)


◇◇◇


夜。


寝床に入ろうとしたとき、母エマが屋根裏に上がってきた。

ノラはもう寝息を立てていた。エマはノラを起こさないようにわたしの隣にそっと座った。


「リナ。今日は色々あって疲れたでしょう」


「うん」


エマがわたしの髪を一房だけ指で梳いた。


「あのね。一度、村のバルドゥス爺さんのところに行ってみない?」


「……バルドゥス爺さん?」


「ええ、村でいちばん歳の長い人。昔は祭司見習いだったんですって」


エマの声は穏やかだった。


「エルナ様がね、リナに会わせたい人がいるって、わたしに言っていたの」


——エルナさんが。


頭の中で点と点が繋がりかけて、けれどまだ線にはならなかった。


「あなたの『不思議さ』が悪いことじゃないって、エルナ様が知ってくれてるってこと」


——お母さん。


胸の奥で何かが、また一拍だけ止まった。


(——お母さんは、わたしの『不思議さ』を、もう全部知ってる気がする)


(——でも何も問わない)


(——ただ、わたしを守る側に立っている)


エマがわたしの頭を撫でた。手のひらは織機の糸で少し荒れていて、それでも温かかった。


「明日、行ってみる?」


「うん」


「分かったわ。じゃあお母さんも一緒に行く」


エマは立ち上がって屋根裏の梯子を降りていった。


◇◇◇


板間に横になる。


ノラの寝息が隣で規則正しく続いている。

天井の梁を見上げる。


(——お兄ちゃんが、町に行く)


(——村の魔法が、おかしい家がある)


(——バルドゥス爺さんに、明日、会いに行く)


頭の中で三つの出来事が並んだ。

それぞれは無関係のはずだった。でも同じ三日のあいだに、まとめて目の前に並んだ。


(——世界が、動いている)


ベルマン氏が去ってから、わたしは「やっと静かになった」と思っていた。

違った。わたしの周りで全部が同時に動き始めていた。


(——わたしだけじゃない)


世界はわたしを待ってくれない。

それは前世の会議室でも同じだった。誰かが立ち止まっても、別の誰かが動き続けている。


目を閉じる。


ノラの寝息と、外で鳴く虫の声が遠くで重なった。


(——明日が、また始まる)


■あとがき・解説


第33話は、ヨハンの巣立ち宣言、村の魔法の不調の噂、バルドゥス老人への招待——三つの出来事が同じ三日のあいだに重なる回でした。プログラマーの世界でも、複数の事象が同時に押し寄せるのはよくあること。今回はそのときの整理術を取り上げます。


■この話で出てきた言葉


■「並行イベント」


同じ時期に複数の出来事が同時に起きている状況を、プログラマーの世界では並行イベントと呼びます。サーバーには毎秒たくさんの要求が同時に飛んでくるし、一つの画面の中でも複数の処理が並行で動いています。


並行で物事が動くこと自体は普通です。問題は、その全部を真面目に追いかけようとすると、頭が追いつかなくなること。リナが寝床で「お兄ちゃんが町に行く」「村の魔法がおかしい」「明日バルドゥス爺さんに会う」と三つを並べたのは、まさに自分の中の並行イベントを一つの台帳に書き出した作業でした。


■「再現性」


何度やっても同じ結果が出ることを、技術の世界では再現性と呼びます。プログラムの世界では再現性こそが信頼の根拠です。同じ入力で同じ出力が返ってこないプログラムは、もうそれだけで信頼を失います。


エマが世間話のように口にした「ベシリアが三回唱えてようやく火が点いた」は、リナの中では世間話で終わりませんでした。同じ呪文、同じ魔石、同じ唱え手。それでも結果がぶれるなら、それは単なる「調子が悪い」ではなくシステムの不安定さ。本来あるはずの再現性が崩れているという信号です。


エマは「気温や湿気のせいかも」と気にしていない様子でしたが、リナの「眼」だけは静かに警報を鳴らしていました。


■「複数報告は一つの兆候」


一つの家で起きたなら偶然。でも複数の家で同時期に同じような不具合が出ているなら、それはもう偶然ではなく一つの兆候です。ソフトウェアの障害対応でも、別々のユーザーから似た不具合報告が複数届いた瞬間に、調査のランクが一段上がります。


マルダさん家のベシリアと、ヒルダさん家のアクシリア。違う家の、違う魔石、違う系統の魔法で、同じ「不安定」が出ている。リナがエマの話を胸の奥にしまったのは、これが偶然の重なりでは説明しきれないと感じたからでした。


ヨハンが井戸の縁で見せたえくぼ、書いていてとても好きな場面でした。十三歳の少年が無理して大人ぶる仕草が、八歳の妹にだけは可愛らしく見える。兄でもあり盾でもあったヨハンが、この回で一歩、自分の道へと足を踏み出しました。


次の話もお楽しみに。


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