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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ②眼を、隠す

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第32話 対面

カツ、カツ、カツ。


馬の蹄が乾いた土を叩く音が、村の入り口から家の前まで近づいてきた。


わたしは屋根裏の梯子を降りて、居間の隅の椅子に腰を下ろした。

父に言われた通り、声がかかるまで動かないつもりだった。


馬車の車輪が止まる音。

人が降り立つ革靴の音。

それから父の低い声と、聞き慣れない柔らかな声が玄関先で交わされた。


「アルベルトさんですな。よろしくお願いいたします」


「ご足労を」


エマが玄関先で会釈する気配。

グスタフが奥から出ていく重い足音。


足音が居間まで入ってきた。


入ってきたのは恰幅のいい男だった。

五十代だろうか。仕立てのいい紺の上衣。腹回りは丸く頬には穏やかな笑みを浮かべている。


ただ目だけが——細く、鋭かった。


男はわたしの顔を見て、ゆっくり頷いた。

大人の視線は思っていたよりずっと高い場所にあって、見上げただけで首の後ろが少しだけ強張った。


「これがリナお嬢ちゃんですか」


——来た。


わたしは椅子から滑り降りて、ぺこりと頭を下げた。


「は、はじめまして」


声が少しだけ震えてくれた。

作ろうとして作った震えじゃない。本当に緊張していた。それでよかった。


「ハイド・ベルマンと申します。ハーラム町で商人ギルドの長をやっております」


ベルマン氏は片膝を少しだけ折って、わたしの目線の高さに近づいた。


「あの珠盤の発明者……失礼、共同制作者ですな」


——共同制作者、と言い直した。


(——父さんの面子を立てた)


(——商人らしい立ち回り)


頭の隅で短くだけそう思った。


ベルマン氏は立ち上がって、父と向き直った。


◇◇◇


居間の卓に布が敷かれて、その上に珠盤が置かれた。


父が無言でベルマン氏の方へ押しやる。

ベルマン氏は両手で珠盤を持ち上げて、しばらく光にかざした。


「ふむ」


それから卓に戻して、珠を一つ、指で軽く弾いた。

珠が滑らかに横に動いて、隣の珠にとんと当たった。


「これは……これは確かに、これまでにない発想です」


ベルマン氏の声は穏やかだったが、目の細さは変わっていなかった。


「アルベルトさん。これを、ハーラム町の商人たちに広めたい」


父が一度だけ眉を動かした。


「広めたい、というのは」


「量産です。月に十個から始めて、半年で五十個」


父の沈黙が一拍だけ落ちた。


「五十個」


「ええ」


グスタフが軽く咳払いをした。

腕を組んだまま卓の端に立っていたグスタフが、一歩だけ前に出る。


「親方の俺から言わせてもらうと、月に十個も難しい」


ベルマン氏が顔を上げる。


「材料の質を落とせば」


「品が落ちる」


グスタフの声は短かった。

鎚を打つときと同じ短さだった。


ベルマン氏が少し考えて、それからニヤリと口角を上げた。


「ふむ。なるほど。御父子と親方は『質を守る』派ですな」


その言い方に、わたしは内側で一拍だけ姿勢を正した。


(——前世の仕事で何度も向き合った相手の型だ)


(——この人、こちらが何を守りたいかを、すぐに見抜いた)


ベルマン氏は侮っていない。逆に、こちらが何を守りたいのかを最初の数往復で読み取った。

そのうえで、それを言葉に出してこちらに返してきた。


(——交渉相手として、巧い)


◇◇◇


ベルマン氏がふと、わたしに視線を向けた。


「リナお嬢ちゃん」


「はい」


声は極力短く。


「この珠盤を作ったのは、お嬢ちゃんのお父さんですか、それともお嬢ちゃんですか」


——直接、来た。


父が口を開きかけた。

だがベルマン氏は手を上げて、ごく軽く父を制した。


「お嬢ちゃんの口から、聞きたい」


胸の奥が一段、冷えた。


(——演技、開始)


頭の中でゆっくり言葉を組み立てる。

八歳児の口から出る速さで。八歳児の言葉の選び方で。


「えっと……」


わたしはわざと、視線を父に向けてからベルマン氏に戻した。


「お父さんと一緒に、作りました」


「ほう」


「えっと、わたしが、思いつきで、ちょっと作って」


(——「ちょっと」は何回でも使っていい)


「お父さんが、ちゃんと作ってくれました」


ベルマン氏の眉がわずかに上がった。


「思いつき、ですか」


「うん」


頷きはなるべく、子供らしくこくんと。


「お父さんの工房で歯車を見てて、こういうのあったら、楽しいかなって」


ベルマン氏がしばらくわたしを見つめた。

目の細さが、ほんの少しだけ深くなった気がした。


それから、口角を緩めて笑った。


「ふむ。そうですか」


(——信じた? 信じない?)


(——判断保留)


ベルマン氏は追及しなかった。

立ち上がって、父に視線を戻す。


「アルベルトさん。話を量産に戻しましょう」


膝の上で、わたしは小さく息を吐いた。


◇◇◇


「月十個でいい」


ベルマン氏は卓に戻って、声の調子を少しだけ落とした。


「納期は半年後から。質はお任せします」


父が腕を組んだまま、低く言った。


「考えさせてくれ。妻と相談したい」


「ええ」


ベルマン氏は頷いた。


「一週間、待ちます」


それから、わずかに身を乗り出して、契約金として提示する数字を口にした。


——金貨で、ある程度の数。


正確な額はわたしにはまだ実感が薄かったが、母エマが一瞬だけ唇を引き結んだのが分かった。


(——一年分の村の作物よりも、たぶん多い)


(——大金だ)


父も母もグスタフも、目を見合わせた。

それから父は、わずかに肩を下ろした。


(——でも、お父さんは即答しない)


(——お父さんは賢い)


「考えてから、返事を返す」


父の声は短かった。


「結構です」


ベルマン氏は両手を膝に置いて、ゆっくり立ち上がった。

上衣の裾をひと撫でする。


それから、最後に一度だけわたしの方を見た。


「リナお嬢ちゃん。最後に一つだけ」


「はい」


「お嬢ちゃんは、これからも『思いつき』で何か作りますか?」


——え。


息が、一瞬だけ止まった。


(——これは罠の質問?)


(——それとも、純粋な好奇心?)


頭の中で、いくつかの答えが走った。

「分からない」と答える選択。「もう作らない」と答える選択。

そして——


(——子供の答えは、たぶん「うん」)


わたしは小さく頷いた。


「うん。たぶん」


ベルマン氏が大きく頷いた。


「楽しみにしています」


その一言を、ベルマン氏はわたしの目を見て言った。

細い目の奥に、商人らしい計算と、もう一つ別の何かがあった気がした。

だがそれが何なのかは八歳の頭ではまだ言葉にならなかった。


◇◇◇


馬車の車輪の音が、村の入り口の方へ遠ざかっていく。


家族とグスタフが、しばらく無言で居間に立っていた。

父が長く息を吐いた。


「リナ、よくやった」


「うん」


エマが膝をついて、わたしを抱きしめた。

母の腕の中はいつもより少しだけ強かった。


グスタフが腕を組んだまま、わたしを見下ろした。


「お前さんも商人だな。お嬢ちゃん」


そう言って、ふんと短く息を抜いた。


(——演じきった)


(——でも、ベルマン氏はたぶん、何かを察した)


肩のあたりに残ったざらつきは、消えていなかった。


玄関の方から足音がして、ヨハンが入ってきた。

頬が少しだけ赤い。外で見張っていたのが寒かったのだろう。


「リナ、大丈夫だった?」


「うん」


ヨハンには、たぶんまだ全部は言わなくていい。

わたしは小さく頷くだけにとどめた。


母エマがわたしの背中を撫でた。


「リナ、疲れたでしょう。お部屋で休みなさい」


「うん」


わたしは家族に頭を下げて、屋根裏への梯子を昇った。


◇◇◇


板間に上がった瞬間、膝の力が抜けた。


そのまま敷布団に倒れ込む。

八歳の身体が、自分の意思とは別に小さく震えていた。


(——演じきった)


天井の梁を見上げる。

朝の光はいつのまにか高くなって、小窓から白い光が落ちていた。


(——前世で何度も会議を回したわたしでも)


(——八歳の身体は、ただの八歳)


会議室の最終商談を何度乗り切ったところで、この身体の心臓は子供のままだった。

鼓動がまだ早く打っている。

指先が冷たい。


(——『いつも通り』は、こんなに重い)


(——『いつも通り』のふりをするには、いつも通りでない緊張が要る)


(——子供のふりをするには、子供ではない計算が要る)


矛盾している。

でも今日はその矛盾を、ぎりぎりまで使い切った。


膝を引き寄せて、敷布団の上で身体を小さく丸めた。

ノラの匂いが布団の片隅から少しだけ届く。


天井を見上げたまま、もう一つの考えが浮かんだ。


(——でも、また来るんだろうな、あの人)


ベルマン氏は今日、答えを持ち帰らなかった。

父も一週間後に返事を返す。だがそれで終わるとは、たぶんあの細い目の人は思っていない。


返事を聞いたあとも、何度か村に来る。


そして来るたびに、わたしを観察する。


(——次は、もっと巧く演じないと)


そう思った瞬間に、また指先が冷えた。

冷えた指先を、もう片方の手で握り直した。


屋根裏の小窓の外で、雀が一度だけ鳴いた。

村は、いつもの昼に戻ろうとしていた。


わたしの胸の奥だけが、まだいつもの拍子に戻れずにいた。


■あとがき・解説


第32話は、ハーラム町の商人ギルド長ベルマン氏とリナたちの初対面でした。商人と職人が同じ卓を囲むとき、何がやり取りされていたのか、現代の仕事の言葉で読み直してみます。


■この話で出てきた言葉


■「トレードオフ」


二つ以上の良いことを同時には全部立てられない関係のことを、トレードオフと呼びます。たとえば「速く作る」と「丁寧に作る」は両立しにくいし、「安く売る」と「いい材料を使う」も両立しにくい。何かを得るには何かを諦めなければならない、その天秤のことです。


ベルマン氏が口にした「品質と納期と数量」は、仕事の世界では古典的な三すくみとして知られています。三つ全部を最高水準にすることは、原理的にできない。だからどれを優先するかを最初に決めるのが、商談の最初の一歩になります。


グスタフが「材料の質を落とせば」と言われて「品が落ちる」と短く返したのは、品質を絶対に譲らない側に立ったということ。ベルマン氏が「質を守る派ですな」と笑ったのは、相手がどの軸を譲らないかを最初の数往復で読み取った、という宣言でした。


■「アンカリング」


最初に出された数字や条件が、その後の判断の基準点になってしまう現象のことを、心理学や交渉術ではアンカリングと呼びます。アンカーは錨のこと。最初に投げ込まれた錨に、その後の話がぐるぐる引っ張られるイメージです。


ベルマン氏は最初に「月に十個から始めて、半年で五十個」と高い数字を投げました。グスタフが「月十個も難しい」と返した後、ベルマン氏は「月十個でいい」と引いた。ここだけ見ると譲歩したように見えますが、もし最初から「月十個」と言われていたら、こちらは「十個も?」と感じたかもしれません。最初に大きな数を出されたことで、十個が小さく感じる。これがアンカリングの効き目です。


ベルマン氏が悪人だと言いたいわけではありません。これは商人として当たり前の作法であり、リナがそれを冷静に読み取ったというだけのことです。


■「相手を試す質問」


「お嬢ちゃんが作ったのですか、お父さんが作ったのですか」というベルマン氏の問いは、答えそのものよりも、答え方を見るための質問でした。即答するか、迷うか、どこに視線を向けるか、誰に助けを求めるか。それ全部が情報です。


採用面接でも商談でも、こういう質問はよく使われます。聞きたいのは事実ではなく、相手の人物像の方。リナが視線を父に向けてから戻し、「ちょっと作って」「ちゃんと作ってくれました」と父を立てる順番で答えたのは、子供を演じながらも答え方の組み立て自体は前世のPMのものでした。


ベルマン氏は追及せずに引き上げました。でも最後の「これからも『思いつき』で何か作りますか?」という一言は、たぶん本日の本命の問いだったように思います。


次の話もお楽しみに。


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