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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ②眼を、隠す

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第31話 来訪の朝

翠の月の二十九日。


夜が明けきる少し前、わたしは目を開いた。


屋根裏の小窓から薄い藍色の光が落ちている。

隣ではノラが小さく寝息を立てて、布団の縁を握りしめていた。


(——あの晩の声)


毛布の中で、わたしはもう一度あの言葉を反芻した。


『ハーラム町から、また』

『……リナには、まだ言わなくていい』


父と母の、ひそやかな声。

二つの月明かりが落ちる夜更けに階下の居間から屋根裏まで届いた声。


(——お父さんとお母さんも、わたしに何かを隠している)


毛布の下で指先がじんわり冷えた。

それから、すぐにもう一つの考えが上に重なった。


(——わたしも家族に隠している)


「眼」のこと。前世のこと。本当はどれだけのものを読み取れているのか。

水時計を「家の中だけで使う」と言ったときに、本当は何を考えていたのか。


(——お互いに保留を持ち寄っている)


指先の冷えと、肩の奥のわずかな温かさが同居していた。

わたしが家族を信じていないわけではない。父も母もわたしを信じていないわけではない。

ただ、それぞれが「言わないでおく」を選んでいる。


階下から、エマが竃に火を入れる音が聞こえてきた。

木が爆ぜる小さな音。それから水を汲む音。


——朝が来た。


ノラの寝顔をもう一度だけ見て、わたしはそっと毛布から這い出した。


◇◇◇


居間に降りていくと、家族はもう食卓を囲んでいた。


父アルベルトが珍しく早い時間から椅子についていた。

いつもなら朝はとっくに工房に消えているのに、今日は背筋を伸ばしてテーブルの板目を見ている。


「お父さん、おはよう」


「おう」


「お母さん、おはよう。お兄ちゃんも」


エマが振り返って微笑んだ。

ヨハンは木匙を持ったまま、わたしの顔をちらりと見た。

ノラはまだ起きてこない。


わたしは椅子によじ登って、いつもより少しだけ姿勢を正した。

床に届かない足の先がぶらりと宙に浮く。父が改まった顔をしているのが目の端で分かった。


父はパンを置いて、低く言った。


「リナ」


「うん」


「今日、ハーラム町から商人ギルド長が来る」


——来た。


わたしは胸の奥でだけ短く息を吸って、それから声に出した。


「うん」


驚いた顔は作らなかった。

あの晩の声を聞いていたとは言えない。だがあえて大袈裟に驚いてみせるのも違う気がした。


ヨハンが木匙を止めた。


「えっ。ギルド長って——前に手紙が来た、あの」


「そうだ」


エマが両手を膝の上に置いて、わたしの顔をのぞき込んだ。


「リナ、驚いたでしょう。お父さんが数日前に知らせを受けて……すぐに来るって」


エマの目の奥に、わずかな躊躇いがあった。

あの晩の声を聞かれていたかもしれないと、たぶん少しは気にしている。


わたしはまっすぐエマを見て、小さく頷いた。


「……うん。びっくりした」


半分は嘘で、半分は本当だった。

来ること自体は知っていた。だが今日だとは、思っていなかった。


父が続けた。


「珠盤の量産の話だ。お前さんに直接、見せてくれと向こうが言ってきた」


(——直接? わたしに?)


頭の中で、いくつもの矢印がぱっと走った。

父を介さず、八歳の子供に直接会わせろという要求。それは普通ではない。


(——疑っているのか、それとも単に確かめたいのか)


(——子供を演じきれるか)


頭の奥で、前世の会議室の風景が一瞬だけ過った。

取引先の役員と向き合う最終商談。資料の差し替え。質問の先回り。


——いま、それを、八歳児の身体で。


わたしは木匙を握り直して、なるべく小さな声で聞いた。


「お父さん。わたしは、えっと……何を話せばいい?」


父はわたしの目をじっと見た。

それから、ゆっくり言った。


「お前は黙っていろ。俺が話す」


エマが付け足した。


「リナはいつも通りでいいの。お父さんがちゃんとしてくれるから」


——いつも通り。


その言葉を聞いて、わたしは小さく息を吐いた。

胸の奥のざらつきが半分だけ沈んだ。


(——いつも通り、が一番難しいんだけど)


それでも、父と母が「お前は黙っていろ」と言ってくれたことが、思っていたよりずっと支えになった。

父が表に立つ。わたしは背中に隠れる。

それが今日の役割分担。


ヨハンが少し身を乗り出した。


「父さん、俺は」


「お前は外だ」


「外?」


「人が来るんだ。誰かが見張ってた方がいい」


ヨハンは一瞬だけ口を尖らせて、それから真面目な顔になった。


「分かった」


◇◇◇


朝食の途中、戸を叩く音がした。


父が立ち上がって玄関へ向かう。

低い声が交わされて、それから足音が居間まで入ってきた。


入ってきたのはグスタフ親方だった。


煤が少し残った手を入り口で布で拭っていた。

いつも工房で見るより、ほんの少しだけ髭が整えられていた。


「アルベルト。話、聞いた」


「ああ」


「俺も同席する」


父が一瞬だけ眉を動かして、それから低く言った。


「悪いな、グスタフ」


「いや」


グスタフは椅子の背を片手で掴んで、もう片方の手で軽く振った。


「あの珠盤の親方として、俺も顔を出した方が、向こうも納得するだろ」


——理にかなっている。


(——グスタフさんが来てくれた)


肩の力がほんの少しだけ抜けた。

父一人が表に立つよりも、グスタフが横にいる方が、向こうから見たときの絵が違う。

「村の鍛冶屋の親方公認の品」という体裁が一枚増える。


グスタフはわたしの顔を見て、ふんと短く息を抜いた。


「お前さんは、いつも通りでいい」


父と同じ言葉だった。

わたしは小さく頷いた。


(——『いつも通り』って何だっけ)


頭の中で、もう何度目か分からない問いがまた湧いた。


(——前世のわたしなら、こういう商談は得意だった)


(——でも今のわたしは八歳児)


得意だからこそ、今日は使ってはいけない。

八歳児が答えるべきでない速さで答えてはいけない。八歳児が知っているはずのない言葉を口にしてはいけない。

「黙る」と「微笑む」と「父に任せる」の三つだけを、ひたすら回し続ける。


——それが、今日のいちばん上手なやり方。


◇◇◇


朝食が片付くと、父母とグスタフは奥の部屋に消えた。

打ち合わせをするのだろう。


わたしは居間の隅に座って、ぼんやりと窓の外を見ていた。

ノラがちょうど起きてきて、目を擦りながらわたしの膝に頭を乗せた。


「ねぇね……」


「うん。おはよう」


ノラはそのまま、わたしの膝の上でもう一度小さく寝息を立て始めた。

朝の光がノラの栗色の髪を撫でていく。


(——ノラには分かるのかな)


(——今日が、特別な日だって)


たぶん、分かっていない。

家の中の大人たちの声がいつもより少し低いことだけは、感じているかもしれない。


ヨハンが薪を抱えて居間を横切った。

それから、わたしの横で一度だけ屈んで、小声で言った。


「リナ、大丈夫か」


「うん。お兄ちゃん」


「俺、外で見張ってるから。何かあったら呼べ」


「うん」


ヨハンは立ち上がって、薪を竃の脇に積み直し、それから玄関の方へ消えた。


背中のあたりがじんわり温かくなった。


(——お兄ちゃん、相変わらず守る役)


(——お兄ちゃんはわたしを子供だと思ってる)


(——それでいい)


ノラの呼吸が膝の上で規則的に続いている。

昨日まで工房で聞いていた水滴の拍と、少しだけ似ていた。


◇◇◇


しばらくして、奥の部屋から父母とグスタフが戻ってきた。


父がわたしの前に立った。


「リナ。会談はうちの居間でやる」


「うん」


「時間まで自分の部屋で、本でも読んでろ」


「うん」


わたしは膝のノラを母に渡して、屋根裏への梯子を昇った。


板間に座って、小窓の外を見た。

村の入り口の方角に、まだ何も見えない。

畑の麦が朝の光を受けて、薄い金色に光っている。


(——前世のわたしは、商談を何度もしてきた)


頭の中で、ゆっくり言葉を組み立てた。


(——でも今日のわたしは、何も分からない八歳児として座っているだけ)


(——黙る。微笑む。父にすべてを任せる)


(——それが、わたしの隠匿戦略の最初の外向け演習)


家族の中だけで使う水時計のときは、相手がいた場所がこの家の居間だった。

今日は、その同じ居間に、外の人が入ってくる。

家の内側で確立した戦略を、今日初めて外向けに試す。


(——いつか、これを何度も繰り返すことになる)


たぶん、これからの人生で何度も。

町でも、王都でも、もっと先でも。


そう思った瞬間、村の入り口の方から、薄い砂埃が舞い上がるのが見えた。


風ではない。


地面を踏みしめる規則的な音。

複数の馬の蹄が、乾いた土を叩いている。


カツ、カツ、カツ。


胸の奥が、ほんの少しだけ冷えた。


——来た。


■あとがき・解説


第31話は、ハーラム町の商人ギルド長が村に来る朝、リナが家族と一緒に「対面のリハーサル」を組み立てる回でした。今回はリナが心の中で繰り返していた段取りを、現代の言葉で整理してみます。


■この話で出てきた言葉


■「リハーサル」


本番の前に手順を一度通しで確認することを、現代ではリハーサルと呼びます。演劇や音楽の練習の意味で使われることが多い言葉ですが、仕事の現場でも同じです。大事なプレゼンや商談の前には、必ず一度「誰がどの順番で何を言うか」を口に出して通しておきます。


リハーサルの目的は、台詞を一字一句覚えることではありません。本番で予想外のことが起きたとき、誰が何を担当するかを身体に覚えさせておくこと。父アルベルトが「お前は黙っていろ。俺が話す」と短く役割を切ったのは、これ以上ないほど明確なリハーサル指示でした。


■「ロールプレイ(役割演技)」


人が誰かの役を演じて、本番に近い状況を作ってみる練習方法のこと。新人研修などで「お客様役」と「店員役」に分かれて練習するアレです。


リナはこの回、自分一人で頭の中のロールプレイをずっと回し続けていました。八歳児が答えるべき速さで答える。八歳児が知っているはずのない言葉を口にしない。「黙る」と「微笑む」と「父に任せる」の三つだけを繰り返す。前世のプロの商談技術を全部封印して、子供という一つの役だけに集中する。これは並のロールプレイより難しい作業です。


■「外向け演習」


社内で組み立てた仕組みを、社外で初めて使ってみる段階を、ソフトウェアの世界では「外向けリリース」とか「外部公開」と呼びます。社内の人だけで触っている間は揃っていた前提が、外の人が来た瞬間にぐらつくことがよくあります。


リナの隠匿戦略は、これまで家族の中だけで運用されてきました。今日はそれを初めて外の人——商人ギルド長という、村の外から来た計算する目を持った大人——に向けて試す日です。本人が「外向け演習」と言葉にしたのは、それくらい意識的な区切りの日だったということでした。


馬の蹄の音が「カツ、カツ、カツ」と近づいてくる最後の数行、書いていて少し緊張しました。リナの胸の冷えが、こちらまで伝わってきたような気がします。


次の話もお楽しみに。


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