第27話 距離
翠の月の八日。
朝の光がまだ屋根裏に届かない時間に、わたしは目を覚ました。
隣で寝ているノラの寝息が小さく規則的に続いている。
(……昨日は重かった)
胸の奥で、わたしは自分に確認するように呟いた。
(……今日は普通の一日にする)
——普通の一日。
前世のわたしなら造作もないことだった。
「保留」と分類した相手とは適切な距離を保つ。それは仕事の基本だった。
ただ今のわたしは八歳児の身体に入っている。
顔に出る。声に出る。指先にも出る。
(……「八歳児のリナ」として自然に振る舞うことと、警戒しつつ振る舞うこと)
(……この二つを同時にやるのは——思っていたよりずっと難しい)
わたしは布団からそっと抜け出した。
ノラを起こさないように足音を消して、台所のほうへ降りていく。
◇◇◇
台所ではすでにエマが竃の火に薪をくべていた。
鍋からは麦粥のにおいが上がっている。
「お母さん、お手伝いする」
わたしが声をかけると、エマは振り向いて少しだけ目を見開いた。
それから、ふっと笑った。
「あら、早いのね」
「うん」
「じゃあ、お皿を並べてくれる?」
「はい」
わたしは食器棚から木の皿を取り出して、卓に並べた。
四枚。父と母、兄と妹、それからわたしの分で五枚。
数えながら一枚足した。
エマは粥をかき混ぜながら、何気ない声で言った。
「リナ、最近ずっと忙しそうね」
——来た。
頭の奥で小さな警鐘が鳴った。
でもエマの声は責めるような色ではなかった。
ただ、見ている、というだけの声。
「うん。ちょっとね」
わたしは皿を並べる手を止めずに答えた。
「教会のお勉強、難しい?」
「ううん。難しくはない」
「そう」
エマはそれ以上は聞かなかった。
しばらく粥の中で木の匙だけが回る音がした。
やがて、本当に何気ない口調でエマは続けた。
「リナ。エルナ様にまた呼ばれた?」
——核心。
皿を並べていた指先が、ほんのわずかに止まりかけた。気付かれないようにそのまま動かす。
(……お母さんは、たぶん気付いている)
(……でも詰問はしない)
(……これは「あなたの口から教えてほしい」のサインだ)
前世で何度も見た聞き方だった。
答える側の余地を残したまま、輪郭だけを差し出す問い。
「ううん」
わたしは正面からエマの目を見て答えた。
「今日は呼ばれてない。お家にいる」
エマはわずかに肩の力を抜いた。
ほっと、というには控えめだったけれど、確かに息が下りた。
「そう。リナがそう言うなら、いいわ」
——「リナがそう言うなら」。
その言い回しに、わたしは胸の奥がほんの少しだけ重くなった。
それは信頼の言葉だ。
そしてそれは——「お母さんは追及しないという選択をした」という宣言でもあった。
(……家族の中で線を引くのは、外で引くのとは痛みが違う)
エマは粥を椀によそって、わたしに最初の一杯を差し出した。
椀はあたたかかった。
◇◇◇
朝食のあと、父は工房へ出て、兄は剣の練習に出かけた。
ノラがようやく目を覚まして、寝ぼけ眼で台所まで降りてきた。
「ねぇね」
「おはよう、ノラ」
「おはよ……」
ノラは目を擦りながらわたしの膝に頭を乗せた。
寝起き特有の汗のにおいがした。
朝食を済ませたあと、わたしたちは居間で遊んだ。
ノラがお気に入りの木の玩具をわたしの前に並べる。
「ねぇね、すごい」
ノラがふと、何の脈絡もなく言った。
「何が?」
「ねぇね、すごい」
ノラは繰り返した。意味は分かっていないのかもしれない。
ただわたしの顔を見て、姉として、そう言ったのだろう。
(……ノラのこの「すごい」は「眼」のことじゃない)
(……ただ、わたしを姉として見ている)
胸の奥のざらつきが少しだけ薄らいだ。
庭の土はまだ朝露で湿っていた。
ノラの手を引いて庭に出る。
小枝を一本拾って、わたしはしゃがみ込み、土の上に何気なく模様を描いた。
——円。
——円の内側に三角。
——三角の頂点に小さな結節点を三つ。
そこまで描いたところで、わたしの手が止まった。
(……これは)
(……これは魔法陣の構造だ)
無意識に指が動いていた。
ルクスの三層構造を、土の上に再現していたのだ。
慌てて、わたしは枝の側面で模様を擦り消した。
土が均されて、ただの茶色い地面に戻る。
ノラはきょとんとした顔でわたしを見上げていた。
「ねぇね?」
「なんでもないよ」
わたしは作り笑いを浮かべて、別の模様を描き直した。
今度は何の意味もない、ただの花の絵を。
ノラが「お花!」と嬉しそうに笑った。
(……身体は八歳児なのに、前世の癖が指の先まで滲み出る)
(……「普通の八歳児」のふりをすることが、こんなに難しいなんて)
ノラはわたしが描いた花を、自分の小さな指で真似て描き始めた。
くにゃくにゃと曲がった線で、それでも一所懸命に。
わたしはその横顔を見ながら、心の中で深く息を吐いた。
◇◇◇
夕方。
父アルベルトが工房から戻ってきた。
作業着の袖から鉄の匂いと油の匂いがした。
「ただいま」
「お帰り、お父さん」
父は土間で靴を脱ぎながら、わたしの顔をちらりと見た。
「今日はどうした」
短い問いだった。
父はいつもこうだ。多くを聞かない。
でも見ていないわけではない。
「お家でノラと遊んでた」
「そうか」
父は頷いた。
それだけだった。
わたしは父の目を見た。
父の目もまた、わたしを見ていた。
何かを察しているような、けれど何も言わない目だった。
エマと父は短く視線を交わした。
たぶん夕食の支度の確認だけだったろう。
でも、その一瞬の交差に、わたしには別の意味も含まれているように見えた。
(……お父さんも、たぶん気付いている)
(……それでも何も言わないことで、わたしを守ってくれている)
父は手を洗いに井戸のほうへ向かった。
背中はいつも通り、寡黙で大きかった。
◇◇◇
夜。
ノラはわたしの隣でもう寝息を立てていた。
屋根裏の小窓から差し込む二つの月の光が、布団の縁に細い線を引いている。
わたしは仰向けになって、その光をぼんやり眺めていた。
(……前世のわたしは相手ごとに心の棚を分けて、必要な分だけを差し出してきた)
(……それで何年も仕事を回してきた)
天井の梁の影が、月の動きに合わせてほんの少しだけ伸びる。
(……でも、八歳児の身体で同じことをやるのは——一日続けるだけで、こんなに疲れる)
胸の奥にずっしりとした石のようなものが沈んでいた。
それは怖さでも悲しさでもなく、ただ「重さ」だった。
(……もう一人で抱えるのは、たぶんダメな選択肢)
(……でも、家族にも全部は話せない)
(……ノラにはまだ早すぎる)
(……お母さんはたぶん受け止めてくれる。けれど受け止めてしまったお母さんは、もう村の人たちと前と同じ目では話せなくなる)
(……お父さんは——わたしが話さないことを選んでいるあいだは、何も聞かない人だ)
考えれば考えるほど、退路がなかった。
それでも、と。
わたしは天井に向かって心の中で呟いた。
(……どこかには、出口がある)
(……今すぐじゃなくていい)
(……まずは——明日からだ)
ノラの寝息の合間に、わたしは自分の呼吸を整えた。
——いつか工房に戻ろう。
——グスタフ親方の工房なら、わたしは「眼」を堂々と凝らせる。
——あそこでは、わたしの観察は「見学」になる。
——子供が珍しいものを見ているだけ、と片付けてもらえる。
——目立たない範囲で。
——自分のためだけに。
——教会には呼ばれない限り行かない。
——エルナさんとは距離を測る。
——家族には、温度だけは渡し続ける。
——情報は、まだ預けない。
それは戦略というには弱々しくて、決意というには静かなものだった。
でも今のわたしに引けるのは、それだけの線だった。
ノラの小さな手が寝返りの拍子にわたしの手の甲に触れた。
そのあたたかさだけは、今夜、計算しないでいいものだった。
◇◇◇
翌日と、その翌日も同じように家で過ごした。
庭でノラと遊び、エマの台所仕事を手伝い、井戸の汲み水を運ぶ。
父は朝から工房へ通っていたけれど、わたしを連れていく素振りは見せなかった。
(……父は、わたしが少し休む時間を与えてくれているのかもしれない)
頭の奥で、そう受け止めた。
翠の月十日の夜。
寝床に入る前、わたしはノラの寝顔の横でもう一度心の中で繰り返した。
——明日からは、工房に行こう。
■あとがき・解説
第27話は技術用語があまり出てこない、リナの内側の話でした。代わりに、彼女が前世から持ち越してきた「人との距離の保ち方」について、少しだけ書き残しておきます。
■この話で出てきた言葉
■「境界」
仕事や人間関係の世界で最近よく使われるようになった言葉です。自分と他人の間に引く線のこと。どこまでを共有して、どこから先を共有しないか。その線を意識的に引くこと自体を「境界を保つ」と表現します。
境界は冷たいものではありません。むしろ、長く一緒にいるための作法に近いものです。全部を共有してしまうと、相手も自分も疲れてしまう。だから少しだけ自分のための部屋を残しておく。
リナがエマの「リナがそう言うなら、いいわ」という言葉に胸を重くしたのは、エマが自分の側の境界を引いたからでした。「追及しない」という決断もまた、一つの線です。母娘の間でその線が引かれた瞬間を、リナは正確に感じ取っていました。
■「PMの距離感」
PM はプロジェクトマネージャーの略です。仕事を回す側の人のこと。リナの前世の職業の一部でもあります。
PM の仕事は、関係者ごとに「どこまで話すか」を分けることでもあります。経営層には結論だけ、現場には背景まで、外部の取引先には合意済みのことだけ。これを器用にやり分けられる人ほど、プロジェクトが円滑に進みます。
ただ、これを家族にまで適用するのは、本来とても疲れることです。仕事ではプロの作法ですが、家ではただの「壁」になってしまう。リナは庭でノラに花の絵を描き直しながら、その壁の存在を自覚していました。「身体は八歳児なのに、前世の癖が指の先まで滲み出る」という呟きは、PM の癖が抜けない大人の困惑そのものです。
■「温度だけは渡し続ける」
リナがその夜に決めた小さな戦略でした。情報は預けない。でも温度だけは渡す。
これは現代の言葉で言えば「感情の共有と情報の共有を分ける」ということに近いものです。気持ちは伝える。けれど事実関係は全部は明かさない。家族との関係を守るために、彼女が選んだぎりぎりの線でした。
第27話は、リナが「保留」「情報の出し惜しみ」という第26話の戦略を、家族との関係にも適用してしまう回でした。エマの問いかけ、父の沈黙、ノラの寝息。家族はそれぞれの方法でリナを見守っていますが、リナはまだその輪の中にも線を引いている。
「明日からは——工房に行こう」。そう胸の中で呟いたリナが、明日どう動くのか。
次の話もお楽しみに。




