第26話 探りあい
翠の月の七日。
朝の光がまだ斜めに差し込む頃、わたしはエマと一緒に家を出た。
昨日エルナと話したばかりの教会へ、二日続けて行くことになる。
「リナ、寒くない?」
「うん、平気」
エマの手はあたたかい。
でもその指は普段よりほんの少し強くわたしの手を握っていた。
昨日エルナと何を話したのか、わたしはエマに詳しく話していない。
(……前世の朝の通勤を思い出す)
頭の片隅でわたしは思った。
(……大事な会議の前。資料を頭の中で組み立て直しながら駅まで歩く、あの感じ)
(……八歳児の身体でこんな感覚を持つとは思わなかった)
教会の前に着いた。
昨日と同じ石造りの建物。昨日と同じ朝の冷たさ。
ただ、わたしの内側だけが昨日とは違っていた。
「お母さん」
「うん?」
「一人で行ける」
エマがわたしの顔を覗き込んだ。
ほんの少し迷うような目をしてから、ふっと笑った。
「分かった。じゃあ、お母さんは昨日と同じ場所で待ってる」
「ありがとう」
エマはわたしの頭をひと撫でして、それから少し離れた木陰のベンチに腰を下ろした。
わたしは教会の戸を一人で押した。
◇◇◇
控室の扉を開けると、エルナが昨日と同じ椅子に座っていた。
「リナ、来てくれたのね」
「はい」
エルナは穏やかに笑った。
朝の光が彼女の灰色の髪の編み目をなぞっていた。
「座って」
わたしは昨日と同じ木の椅子に座った。
今日も足は床に届かない。
エルナは少しの間、何も言わなかった。
ただわたしを見ていた。
(……穏やかな笑み。でも目は鋭い)
(……これは、観察だ)
昨日エルナを「保留」と分類したラベルがそのまま残っている。
そのラベルを今日も剥がさない。情報を出すかは相手の出方を見てから決める。
「昨日のあなたの答え方は、不思議だった」
エルナが静かに口を開いた。
「あ」
「『中心に光を生む処理』『強さを決める層が三つ』——八歳の子供の言葉ではないわ」
「……」
「もちろん見えたものを言葉にしただけ、と言われればそれまでだけど」
エルナはそこで一度言葉を切った。
そしてわたしの目を真っ直ぐに見た。
「リナ。あなたは昨日『ルクス』を初めて見たわよね?」
「……はい」
「他にも、こうやって何かが見える瞬間がある?」
——来た。
(……ここが分岐点)
(……答えすぎるな)
(……最小限)
頭の中でわたしは自分に言い聞かせた。
喉の奥がからからに乾いていた。口を開く前に一度だけ唾を飲み込んだ。
前世の癖で、こういうとき言葉が走り出してしまう。
聞かれたことに、思いついた答えを全部並べたくなる。
それは、駄目だ。
「えっと」
わたしは目を伏せた。
八歳児らしくぎこちなく。嘘ではない範囲で、と頭の中で切り分けた。
「……わからない、です」
「わからない?」
「見えるって言われると、見えてる気がする。でも気のせいかも」
「気のせい」
「うん。みんなにも見えてるんじゃないかな、って」
エルナはわずかに首を傾けた。
わたしはまだ目を伏せたまま続けた。
「わたし、子供だから。ほかの人がどう見えてるかも、わからない」
——嘘はついていない。
本当のことを少しずつ薄めて並べただけ。
(……嘘はバレる)
(……曖昧化と、無知の演技だけ)
(……前世の取引先と話したときも、こうやって時間を稼いだ)
エルナはしばらく黙っていた。
それから小さく息を吐いて、口の端を少しだけ持ち上げた。
「わからない、と言うのは正直で立派ね」
——皮肉だろうか。
——それとも本気の評価だろうか。
判断できなかった。
判断できないものは、判断保留のままで置いておく。
前世の仕事で覚えた癖を、わたしは頭の中で繰り返した。
「ありがとうございます」
わたしは形だけ頭を下げた。
◇◇◇
エルナは椅子の背にもたれて、しばらく天井を見上げていた。
それから、ぽつり、と話し始めた。
「昔ね、神殿で『眼』を持つと噂された少女に会ったことがあるの」
——え。
頭の中の警報がもう一度だけ鳴った。
(……「眼」)
(……それは神殿の人たちが「異質に物を見る子」を呼んだ符牒なのかもしれない)
「私がまだ若い頃。十六か十七の頃よ」
エルナの声は遠かった。
昨日の鋭さはそこになかった。
ただ、何かを思い出すような薄い水のような声だった。
「神殿の中でも『あの子は何か違う』と言われていた」
「……どんな子だったんですか?」
わたしは抑えた声で聞いた。
聞かないとかえって不自然だ、と頭の片隅で判断した。
「静かな子だった。あなたに似てる、と言ったら驚く?」
「……」
エルナはそれ以上は語らなかった。
代わりに別のことを言った。
「その子は——ある日、消えた」
「消えた?」
「ええ。何があったかは私は知らない。ある朝起きたら、その子の部屋は空っぽになっていた」
エルナの指が胸の魔石のペンダントに触れた。
「そう呼ばれる子は危ない目に遭うことがある。私が知っているのはそれだけ」
——警告か。
——脅しか。
——それとも親切か。
頭の中で三つの線が並んだ。
どれが正解かは分からない。
判断保留。三本のまま、しまっておく。
エルナは視線を戻して、わたしの目をもう一度見た。
「リナ。あなたが何者かは、私にはまだ分からない」
「……」
「でも、私はあなたを守る側にいたいと思っている」
その言葉を、わたしはゆっくり頭の中で受け止めた。
(……『思っている』)
(……『そうである』、じゃない)
(……これは「思い」であって、約束じゃない)
前世のわたしなら、そう線を引いた。
気持ちは受け取る。けれど合意はまだない、と。
「……ありがとうございます」
わたしはもう一度頭を下げた。
言葉だけは丁寧に。中身は、預けない。
◇◇◇
「また来てくれる?」
エルナが控室の扉を開けながら言った。
「はい」
わたしは頷いた。
頻繁には来ない。それはわたしの中で決めた。
でも「来ない」とは答えなかった。
ここで線を引きすぎると、エルナはわたしの隠匿に確信を持つ。
表面は曖昧に、距離は内側で測る。
教会の戸の外に出ると、エマが木陰のベンチから立ち上がるのが見えた。
ほっとした、という顔で。
「リナ、平気だった?」
「うん。平気」
エマはわたしを抱き上げかけて、やめた。
代わりにわたしの手をぎゅっと握って歩き出した。
帰り道、エマがそっと聞いた。
「リナ。エルナ様と何を話したの?」
——来ると思っていた。
わたしは少しだけ考えるふりをして答えた。
「お祈りのこと、お話しした」
嘘ではない。お祈りの話の中にルクスの話も消えた少女の話も含まれている。
全部を話していないだけだ。
エマはしばらく黙って歩いていた。
それから小さく頷いた。
「そう。リナがそう言うなら、いいわ」
——追及しない。
——でも、知っている。お母さんはたぶん、わたしが全部は話していないことを、知っている。
胸の奥がきゅっと痛んだ。
(……お母さんにも全部は話せない)
(……これがわたしの選択)
(……前世でも、こうやって人と人の間に線を引いた)
(……でも、家族にまでこの線を引く日が来るとは思わなかった)
エマの手はあたたかかった。
あたたかいまま、わたしの手を強く握っていた。
◇◇◇
家に戻ると、台所のほうから走ってくる足音がした。
「ねぇね!」
ノラがわたしの腰のあたりに飛びついてきた。
「ノラ、ただいま」
「ただいま! ねぇね、おそい!」
「ごめんね」
ノラの髪は朝の日差しのにおいがした。
わたしはノラの背中に手を回した。
小さくてあたたかくて、何も計算していない身体。
胸の奥のざらつきが少しだけ薄まった。
(……ノラのこの温かさは本物だ)
(……何の計算もない)
(……わたしの世界で、これだけは「保留」じゃない)
エマが台所の入り口からわたしたち姉妹を見ていた。
何かを言いかけて、笑って、何も言わずに戻っていった。
——明日からは、エルナさんとは距離を保つ。
——呼ばれない限り、教会には行かない。
——家族と、工房に戻ろう。
頭の中でわたしは決めた。
それでも頭の奥のいちばん冷えた場所が、もう一つの事実を呟いていた。
——でも、もう「普通の8歳児」のふりだけでは済まなくなっている。
エルナはわたしを知った。
わたしはエルナに何も渡していないつもりでいる。
だが「何も渡していない」というそのこと自体が、もう一つの情報になる。
(……隠すということは、隠すべきものがあると告げているのと同じ)
(……これは、もう後戻りできない局面に入った)
ノラの小さな手がわたしの服の裾をぎゅっと掴んでいた。
わたしはその手を握り返した。
■あとがき・解説
「眼を、隠す」の章の後半に入りました。第26話は、リナがエルナという「自分を観察してくる他人」と二回目に向き合う、静かな緊張感の回でした。今回はリナが頭の中で繰り出していた「情報の扱い方」を、プログラマー以外にも馴染みのある言葉で解説します。
■この話で出てきた言葉
■「保留」
リナが何度も繰り返していた言葉です。プロジェクトを動かす仕事の現場では、判断材料が足りないときに「決めない」という選択を意識的に行います。これを「保留」と呼びます。
大事なのは、保留は「忘れる」のとは違うということです。情報を頭の中の専用の棚にしまっておいて、新しい材料が入ってきたタイミングで再評価する。決めないという行為を、ちゃんと一つの行為として扱うわけです。リナがエルナの言葉を三本の線(警告か、脅しか、親切か)に並べて「判断保留」のままにしておいた場面は、まさにこの作法でした。
■「情報の出し惜しみ」
これは技術用語というより、現場の感覚に近い言葉です。誰かに何かを聞かれたとき、知っていることを全部喋らず、相手の出方を見ながら少しずつ渡していく姿勢のこと。
これは嘘とは違います。嘘はバレるとすべてを失いますが、出し惜しみは「まだ全部は渡していない」という事実だけが残ります。プロジェクトを安全に進めたい人ほど、これが上手です。リナが「わからない、です」「気のせいかも」と曖昧化と無知の演技を組み合わせていたのは、嘘の手前で踏みとどまる戦略でした。
■「意向表明と合意形成」
エルナの「あなたを守る側にいたいと思っている」という台詞に、リナは「『思っている』であって『そうである』じゃない」と内心ツッコミを入れていました。
仕事の世界では、こうした言葉の区別が大切にされます。「やります」と「やりたいと思っています」では、約束の重さがまるで違う。前者は合意、後者は意向表明にすぎません。リナはエルナの言葉を「意向表明あり、合意形成は未完」と頭の中で議事録化していました。前世の癖が、八歳児の身体の中で容赦なく走っています。
「隠すということは、隠すべきものがあると告げているのと同じ」というリナの呟きは、この回の核心でした。情報を出さないという選択そのものが、もう一つの情報になってしまう。プロジェクト管理の現場でも、よく似たジレンマに遭遇します。
リナはまだ八歳。それでも前世のスキルが、家族との距離さえ少しずつ変え始めています。
次の話もお楽しみに。




