第25話 祭司の試し
翠の月の六日。
母エマが急に「リナ、教会に行きましょう」と言い出したのは、その日の朝のことだった。
「教会? なんで?」
「お父さんの工房でちょっと特別な部品を作るって聞いたでしょう。あれにね、祭司様からちょっとした祝福をいただきたいの」
——祝福。
つまりエルナに何かの簡単な儀式を頼みに行く、ということらしい。
「リナも来る?」
「うん、行く」
わたしは即答した。
胸の奥で何かがぴくりと跳ねた。
(……エルナさん)
(……あの祭司エルナさんに、また会える)
魔力検査の日から、エルナとはまともに話していなかった。
ただ、萌の月の祭事のときエルナの視線がわたしを捕まえたあの一瞬の感覚はまだ覚えていた。
(——もしかしたらエルナさんは、わたしの観察眼の鋭さに何か気付いてる)
そんな予感があった。
◇◇◇
教会の中は、夏の朝でもひんやりとしていた。
石造りの壁。薄暗い天井。
正面の祭壇の脇に、エルナが立っていた。
ローブの白と銀が窓から差し込む細い光を受けて、淡く輝いていた。
「エマさん。よく来てくれましたね」
「祭司様、お久しぶりです。今日はちょっとお願いがありまして」
エマが懐から布に包んだ小さな包みを取り出した。
父が作った時計の部品らしい。
「祝福……ですか」
「ええ。お得意様への新しい鐘時計に組み込むそうで」
エルナは包みを受け取り、しばらく手のひらの上で重さを確かめていた。
「いいでしょう。後で祝福しておきます」
それからふと、視線をわたしに向けた。
「リナ、来てたのね」
「あ、はい」
「久しぶりね」
「うん」
エルナの視線は、初めて会ったあのときと同じだった。
わたしを「子供」としてだけ見ているわけではない——何かを射抜くような目。
「エマさん。少しいいですか」
「はい?」
「リナと二人で話したいの。一刻ほど、預けてもらえるかしら」
——え。
エマがちょっと驚いた顔をした。
それからわたしの方をちらりと見て、
「リナ、平気?」
「うん。だいじょうぶ」
「では、お言葉に甘えて。後でお迎えに来ます」
エマは軽く頭を下げて、教会の戸を出ていった。
戸がぱたんと閉まった。
——わたしとエルナが二人だけになった。
◇◇◇
エルナはわたしを、教会の奥にある小さな部屋に通した。
たぶん彼女の控室、というやつだろう。
壁一面に古い書物が並んでいた。背表紙は擦り切れていて、文字も読みにくい。
「リナ。座って」
エルナが簡素な木の椅子をわたしに勧めた。
わたしはちょこんと座った。
八歳児の足は椅子の上でぶらぶらと宙に浮いていた。
エルナはわたしの正面に座った。
胸の魔石のペンダントがふっと揺れた。
「リナ」
「うん」
「あなた、この前の萌の月の祭事の日になにを見ていたの?」
——え。
(……来た)
(……来た、来た、来た)
頭の中で警報が鳴り始めた。
手のひらにじわりと汗が滲んだ。膝の上でぎゅっと握った指先がほんの少し震えていた。
エルナはわたしを試そうとしている。
そしてたぶんもう答えを半分くらい知っている。
「えっと、お祭り、見てた」
「祭事、ね。それは村の誰もが見ていたわ」
エルナの目がわたしをまっすぐ捉えた。
「でも、あなたの目つきは他の村人とは違った」
——どきりとした。
(……気付かれてた)
「わたしの儀式の最中あなたは息を止めて、目をものすごく見開いていた」
「……あ、それは」
「子供が儀式の派手さに見入っていたで終わる目つきじゃ、なかった」
——わたしの胸の奥がまた跳ねた。
エルナはわずかに身を乗り出した。
「リナ。隠さなくていい。わたしはあなたを責めるつもりはない」
「……はい」
「ただ、確かめたい。あなたには何が見えていたの?」
——選択肢が頭の中でばらばらと駆け出した。
(——嘘をつくか? いや、エルナさんはたぶん嘘を見抜く)
(——半分だけ話すか? でも半分話すなら、全部話した方がたぶん信用される)
(——全部話すか? でも八歳児が全部を理解していると知られたら——)
考える時間はほんの数秒だった。
(——でも、エルナさんはたぶんわたしの観察眼を悪用しない)
(——魔力検査の日にわたしの「魔力なき者」判定を淡々と告げた人だ)
(——わたしを差別しない、数少ない大人の一人)
わたしは決めた。
「……あの、エルナさん。試してみる?」
「試す?」
「うん。何か魔法、見せてください。わたしが何が見えるか、ちゃんと言うから」
——エルナの目がわずかに見開かれた。
それから彼女はふっと笑った。
「いい度胸ね、リナ」
そう言ってエルナは立ち上がった。
そして棚の上の小さな魔石を一つ手に取った。
◇◇◇
「これは簡単な、灯りの魔法」
エルナが魔石を手のひらに乗せて、軽く息を吐いた。
「ルクス」
短い、聞いたこともない詠唱。
魔石の表面にふっと模様が浮かんだ。
そして薄暗い部屋の空気の中に、淡い白い光が宿った。
(……これも初めて見る魔法)
わたしは勝手に模様の構造を読み解いていた。
中心に、光源を「生成する」処理。
周りに、強度を「指定する」処理。
そして外側に、消費する魔力量を調整する処理。
(——ヴェルティス系っぽい)
(——でもベシリアやアクシリアよりちょっとシンプル)
頭の中でわたしは整理した。
「リナ。何が見えた?」
エルナの声は低く、静かだった。
わたしは深く息を吸って、答えた。
「中心に光を生む、処理」
「ふむ」
「それを囲むように強さを決める、別の処理。三つくらい層がある」
「……ほう」
「外側に魔力を消費するところ。これも調整できる感じ」
「……」
エルナはわずかに目を伏せた。
「リナ」
「うん」
「今あなたが口にしたものは、神官学校で上級祭司になる者が四年かけて学ぶ内容よ」
——え。
(……え、)
「『ルクス』の魔法陣の基本構造を初めて見て即座に見抜く者は、ここ三十年でほとんどいない」
——わたしは口をぽかんと開けた。
エルナはわたしの目をまっすぐ見つめた。
藍色の深い瞳。
「あなたは、ただの『魔力なき者』ではないわね」
その言葉が、教会の控室に静かに響いた。
胸の奥でわたしの心臓が跳ねた。
——とうとう、認識された。
——わたしの異質な観察力が、世界の誰かに初めて正面から名指しされた。
(……嬉しい)
(——いや、怖い)
(——いや、嬉しい怖い、嬉しい)
頭の中で感情がぐるぐると回り始めた。
エルナはふっと口角を上げた。
「リナ。怯えなくていい。さっきも言ったけれど、わたしはあなたを責めるつもりはない」
「……はい」
「でももう少し、あなたと話したい。今日はこれだけにする。明日、また来てくれる?」
——明日。
わたしは何度か頷いた。
たぶん上手く頷けていなかった。
「行きましょう。エマさんが迎えに来ているはずよ」
エルナがわたしの手をそっと引いた。
彼女の手はエマの手よりずっと細くて、ひんやりとしていた。
教会の戸を開けると、エマが心配そうな顔で待っていた。
「リナ、大丈夫だった?」
「うん。お母さん、ぜんぜん平気」
エマはほっとした顔で、わたしを抱きしめた。
その温もりの中で、わたしは深く息を吸い込んだ。
——明日、またエルナさんに会いに行く。
——でも、この人を信じていいのかはまだわからない。
「責めない」と言われた。
でもそれは「味方になる」とは違う。
胸の奥に温かさと、ざらつくような不安が同居していた。
前世のわたしなら、こういう人を「保留」と分類した。
善意か悪意かを早く決めつけるのが一番危ない、と前世の仕事で何度も叩き込まれた。
(——明日、慎重に向き合わないと)
エマの腕の中はあたたかい。
それでも頭の片隅は冷えたままだった。
帰り道の途中で、わたしは急に足が重くなったのに気付いた。胃のあたりがじわりと痛む。一刻ほどの会話で、こんなに身体が疲れるなんて思っていなかった。
■あとがき・解説
第25話は「眼を、隠す」の章の山場、祭司エルナがリナの「眼」を正面から認識する回でした。教会の控室、向かい合った二人だけの静かな対話。今回はその場面で見せた「ルクス」の魔法と、エルナがそこから読み取ったものについて、ゆるく解説していきます。
■この話で出てきた言葉
■「ルクス」と多層構造
エルナが手のひらの上に灯してみせた、淡い白い光。詠唱はたった一語「ルクス」。簡単に見えるこの魔法を、リナの「眼」は三つの層に分けて捉えました。
・中心:光源を生む処理
・そのまわり:光の強さを決める処理
・いちばん外側:消費する魔力量を調整する処理
これがプログラムの世界でいう「多層構造」の典型的な形です。役割ごとに処理を分けて、内側から外側へ重ねていく書き方。一番奥に「やりたいことの本質」を置いて、その周りに「細かい調整」を順番にかぶせていく。それぞれの層はそれぞれの仕事だけに集中するので、後から変更したいときも、その層だけを差し替えれば済みます。
ソフトウェアの世界ではこういう設計を「責務分離」と呼びます。たとえばスマホのカメラアプリなら、「写真を撮る部分」「明るさを調整する部分」「保存する部分」が、はっきり分かれて作られている。それぞれの仕事を別の人に任せても回るように、最初から境界線を引いておく考え方です。
たった一語の詠唱で発動するシンプルな灯り魔法の中に、こんな丁寧な層構造が組まれている。リナが心の中で「ヴェルティス系っぽい」と分類しながら、同時にちょっと感心していたのは、この設計の綺麗さに対してでした。
■「即座に見抜く」ということ
エルナがリナに告げた事実は、なかなかに重いものでした。「いまあなたが口にしたものは、祭司学校で高位祭司になる者が四年かけて学ぶ内容」。
つまり「ルクス」の魔法陣を観察して三層の構造を言い当てるためには、本来なら何年もの訓練と座学が必要です。それを八歳児が、初見で、しかもひとり言のように淡々と口にした。エルナの目から見れば、これは「ちょっと賢い子供」では到底説明のつかない出来事でした。
リナの「眼」は、前世のプログラマーとしての訓練がまるごと持ち越されたものです。コードを読むときの脳の使い方が、そのまま魔法陣を読むときに転用されている。本人は当たり前のようにやっているけれど、この世界の物差しで測れば、それは普通の人間が四年かけて辿り着く場所を、文字通り一秒で踏み越えてしまう力でした。
「あなたは、ただの『魔力なき者』ではないわね」。
教会の控室に静かに響いたこの一言で、リナはとうとう、自分の「眼」を世界の誰かに正面から認識されたことになります。隠してきたものが外に出る瞬間というのは、嬉しさと怖さがどうしようもなく混ざるものです。リナの頭の中で感情がぐるぐる回っていたのは、まさにこの混ざりかたのせい。
そしてエルナは「責めない」と言いました。でもそれは「味方になる」とは違う。前世のリナがプロジェクトマネージャーとして学んだ通り、善意か悪意かを早く決めつけるのは、いちばん危ない判断です。明日もう一度この人と向き合う前に、心の片隅は冷えたままにしておく。今のリナは、温かさを受け取りながらも、ちゃんと冷静さを残せる強さを少しずつ身に付け始めています。
次の話もお楽しみに。




