第24話 レオの走り
翌々日の午後。
わたしは家の前でレオと待ち合わせていた。
エマには「お友達とちょっと出かける」と伝えた。
エマはまた嬉しそうに笑って「気をつけて行ってらっしゃい」とわたしの頭を撫でた。
——「友達」という言葉がエマの口から出てきたとき、わたしはちょっと胸が温かくなった。
(——わたし、ついに村に友達ができたのかも)
そう思って家を出た。
◇◇◇
家の前で待っていたレオは、目をきらきらと輝かせていた。
「リナ、来た?」
「うん。お待たせ」
「お前さ、走るの見たいって言ってたじゃん」
「うん。見たい」
「じゃあ、ついてきて」
——レオは得意そうに走り出した。
(あ、こら、待って)
わたしは慌てて走り出した。
わたしの身体はまだ走り慣れていなくて、本気で駆けるとすぐに息が切れる。
レオはすぐにわたしの十歩先まで行ってしまった。
「レオ、ちょ、ちょ、ちょっと」
「あ、ごめんっ」
レオが振り返って、わたしを待ってくれた。
「リナ、お前本当に足遅いな」
「うん。あの、それでたぶんレオの足の速さが引き立つと思う」
「あ、そうか」
——レオは納得した顔で頷いた。
その素直さに、わたしは思わず噴き出した。
◇◇◇
レオがわたしを連れていったのは、村のはずれの広い草地だった。
翠の月の午後の日差しの中で、草が青く光っていた。
遠くで村の麦畑が風に揺れていた。
「ここでね、俺毎日走るんだ」
「いつもひとりで?」
「うん。誰かに教えてもらうとかそういうのないけど、自分で走るのが好きなんだ」
——レオは草地の端まで駆け抜けた。
そして振り返って、
「リナ、見てて」
その場で二、三度軽く足踏みをした。
それから——
——ピューッ。
レオが走り始めた。
一歩、二歩、三歩。
最初は普通の子供の走り方だった。
でも四歩目五歩目で、レオの足が加速し始めた。
——速い。
(……これは、速い)
レオの足が草を跳ねる。
肩が傾く。
腕がリズミカルに振られる。
そして草地の反対の端にたどり着いた。
全力で駆け抜けた。
息はちょっとだけ上がっていた。
——わたしには目で追うのがやっとだった。
(……すごい)
「レオ、すごい」
わたしは駆け寄って両手で拍手をした。
「えへ」
レオが照れた顔で笑った。
「親方さん——いやさ、大人にも村でこんなに速く走れる人見たことないと思う」
——わたしは本気で感心した。
レオの走り方は、ただ速いだけじゃない。
体の重心の使い方、足の踏み出しのタイミング——
たぶん彼は無意識に最適化された動きを身に付けている。
——前世のスポーツ科学で言えば、たぶん彼は天才的な運動神経の持ち主だ。
(——レオは走るのが得意)
(——わたしは考えるのが得意)
(——わたしたちはたぶん、別々の方向で何かをできる)
胸の奥がまた温かくなった。
◇◇◇
レオは息を整えて、わたしの隣に座った。
「リナお前、グスタフさんとこで何見てるの?」
「えーと、鍛冶屋さんのお仕事」
「鉄叩くやつ?」
「うん。それと、火の中で鉄が変わる仕組み」
「ふーん」
レオが首を傾げた。
「面白いの?」
「うん。とても」
「……お前、変わってるな」
——レオはもう一度、その言葉を口にした。
それはもう悪い意味ではなかった。
ただレオの率直な感想だった。
「レオ、聞いてもいい?」
「うん」
「レオは走るのが好きって言ってた」
「うん」
「それは何で?」
——レオはしばらく考え込んだ。
「うーん」
「何でだろう、自分でもよく分からないけど」
「うん」
「走ってると何も考えなくていい」
——その答えに、わたしはハッとした。
(……ああ、)
(——わたしの「コードを読みたい」とたぶん同じ衝動)
(——レオは走ることで頭の中を整理してる)
(——わたしはコードを読むことで世界を整理してる)
(——たぶん、本質は同じ)
「レオ」
「うん」
「わたしも似てるかもしれない」
「え?」
「わたしは走るの苦手。でも、コードを——あいや、世界の仕組みを見るとき何も考えなくてすむ」
——うっかり「コード」と言いそうになって、慌てて言い直した。
レオはしばらく考えた。
それからふっと笑った。
「じゃあ、リナと俺、同じだ」
「うん。同じかも」
——わたしとレオは、似た位置に立っていた。
それはたぶん、村の他の子供たちにはわからない似方だった。
◇◇◇
夕方になって、わたしたちは村へ戻った。
帰り道、レオがわたしを見て、
「リナ」
「うん」
「俺さ、お前のこと守るから」
——え。
(……え、)
「だってお前、足遅いし桶も運べないし。誰かが守らなきゃダメだ」
——その理由が、なんだか可愛らしかった。
「うん。ありがとう、レオ」
「俺走るの得意だから。何かあったらすぐ、お前のとこに行ける」
——レオは自分の足の速さを、わたしの安全のために使うと決めたらしかった。
胸の奥がまた温かくなった。
(——これがたぶん、友達というやつ)
(——前世でも、こんなに真っ直ぐな友達いただろうか)
(——たぶん、いなかった)
家が見えてきた。
レオは家の前でぺこりと頭を下げた。
「リナ、また明日遊ぼう」
「うん」
「あいや明日は駄目だ、俺鶏小屋のお手伝いだから」
「じゃあ、明後日」
「うん、明後日」
——レオは満足そうに頷いて、駆け出していった。
夕陽がレオの背中を橙色に染めていた。
レオの走り方は夕陽の中でも、相変わらず軽やかだった。
——でも。
(——レオが守ってくれる。家族も守ってくれる)
(——それでも、村の全員がわたしを認めるわけじゃない)
(——井戸のおばさんたちは、たぶんこれからも『優しい侮蔑』をやめない)
(——わたしの「魔力なき者」は、消えない)
胸の温かさの隅に、ざらつくものがまだ残っていた。
レオの善意も、家族の温度も、それを完全には消せない。
わたしはその背中が見えなくなるまで見送って、それから家の戸を開けた。
「ただいま」
「おかえり、リナ」
——エマのいつもの声。
胸の中で、わたしはもう一度噛みしめた。
(——わたしには家族がいる)
(——グスタフ親方がいる)
(——そして、レオがいる)
(——「魔力なき者」でも「友達」ができた)
その事実は、井戸で受けた冷たい視線を十分に覆い隠す温度だった。
■あとがき・解説
第24話は村のはずれの草地で、レオがリナに本気の走りを見せる回でした。翠の月の午後の日差しの中、八歳児が全力で駆け抜けていく姿。今回はその走りの裏側と、リナがそこから見つけた小さな大事なものについて、少しだけ書き残しておきます。
■この話で起きたこと
■レオの走りはたぶん「最適化」されている
リナが目で追いきれないほどのレオの速さ。これはただ「足が速い」というだけの話ではありませんでした。重心の傾き、足の踏み出すタイミング、腕の振り方。リナの目から見ると、それらは無駄なく組み合わさっていて、たぶん誰にも教えてもらわずに最適な形へと自然に近づいています。
スポーツ科学では、こういう人を「身体の使い方を体で理解しているタイプ」と呼びます。理屈で考えて手足を動かすのではなく、走るうちに自分の身体が一番気持ちよく動くフォームを覚えてしまう。レオの「走ってると何も考えなくていい」という言葉は、まさにこの状態の本人視点での描写でした。意識的に最適化しているわけではなく、走っている時間そのものが最適化のプロセスになっている。
■同じ衝動、別のかたち
リナはここで小さな発見をします。レオが走ることで頭の中を整理しているのは、自分がコードを読むことで世界を整理しているのと、たぶん同じ衝動なのではないか、と。
走ることと、仕組みを読み解くこと。表面的にはまるで別物です。でも本人が「これをやっていると何も考えなくていい」と感じる種類の活動は、たいていその人の脳がいちばん心地よく動く形をしています。本人にとっての「呼吸のような動作」。それが何かは人によって違うけれど、誰にでもどこかにある。
リナにとってのコード読みと、レオにとっての全力疾走。表現の形はまったく違うのに、根っこの「自分が自分でいられる時間」という意味では同じ。これは、リナがレオに対して感じた「似てる」の、もう一段深い正体でした。
■異なる才能のリスペクト
「レオは走るのが得意」「わたしは考えるのが得意」。リナが胸の中で並べたこのシンプルな二行は、地味だけれどとても大事な発想です。
人を比べて優劣をつけるのではなく、それぞれが得意な方向に伸びていけばいい。レオには絶対に追いつけない速さがあり、リナには絶対に追いつけない読み解きがある。お互いがお互いの「絶対に届かない領域」を素直に「すごい」と思える関係は、たぶん友情の中でもいちばん壊れにくい形のひとつです。
帰り道のレオの「俺さ、お前のこと守るから」も、その延長線上にありました。自分の足の速さを、何かのためではなくリナのために使うと決めた、八歳児なりの真面目な誓い。
そして家の戸を開ける直前、リナの胸の片隅にはまだ「ざらつくもの」が残っています。レオが守ってくれる。家族が守ってくれる。それでも井戸のおばさんたちの「優しい侮蔑」は、たぶんこれからも消えない。
温かさと冷たさを両方抱えたまま、それでも前に進む。「眼を、隠す」の章のリナは、少しずつそういう歩き方を覚え始めています。
次の話もお楽しみに。




