第206話 文字列で、魔法を
「——字で、魔法を書く子がいるんだと」
講義棟の廊下で、その声は不意にふってきた。
柱のかげ。知らない上級生がふたり、窓ぎわで話している。
「字で? 陣をか」
「陣じゃない。字を布にあけて、からくりにとおすと、魔法が出てくるんだと」
「なんだそれ」
「おれが知るか。西の作業場のほうの話だ」
わたしは荷物をかかえたまま、足が止まっていた。
(——わたしの、ことだ)
きょうは陽の月の、しまいの日。
中庭では係の生徒が脚立にのぼって、祭りの飾り紐を外している。
その下を通るみじかいあいだにも、おなじ話の切れはしがもうふたつ、耳に入った。
「布が魔法をとなえるんだってな」
「ちがうって聞いたぞ。書いた紙を食べる盤なんだと」
どれも、あたっていない。
でも、笑えなかった。
遠くからならきっと、そう見える。
(——文字列で、魔法を書く)
前世の言葉なら、そうなる。
しるしの並びで手順を渡す。
それだけのことなのに、口から口へわたるうちに呪いになったり食事になったりする。
作業場に着くと、ティオが戸口の前を行ったり来たりしていた。
「聞いたか。うわさ」
「聞いた。わたし、布に魔法をとなえさせてるんだって」
「……悪い。おれ、ふたりか三人にしか話してないんだ」
「ふたりか三人で、たりるんだよ」
怒ってはいなかった。
隠れてやっていたわけでもない。
十ためして十おなじ——あの検証のあいだも、作業場にはほかの生徒が出入りしていた。
うわさは、勝手に歩く。
「あとさ」
ティオは首のうしろをかいた。
「上にも行ってるらしいぞ。理事の人たちの耳にも入ってるって」
「……そう」
「隠すことか? あんなにすごいのに」
「隠すことじゃ、ないけど」
けど、のさきをうまく言えないうちに、その日がはじまった。
はじまってみると、作業場はいつもとちがう場所になっていた。
戸口の外に、人が立った。
のぞいては、去っていった。
長衣の教授も、入れかわりに二人、三人。
近づいては来なかった。
見たい。でも、見たと言われたくない——そういう距離だった。
布を巻く手もとがすこし縮こまる。
前世のわたしは人前で仕事の説明なんて何度もしたはずなのに、十三の指はそれをぜんぶ忘れて正直になる。
(——見られてる)
昼まえ、ひとりの教授が思いきったように敷居をまたいだ。
細面の、若くない人だ。名前を知らない。
「きみが、例の」
「リナです」
「魔法を——字で、書くと聞いた」
声のなかみは怒りではなかった。
とまどい、だと思う。
わたしは机の紙と、穴をあけた布をさした。
「どの札の陣を、どの順で起こすか。それだけをしるしにして並べます」
わたしは布の穴の列を、指でたどってみせた。
「並べた順のとおりに、盤が起こします」
「陣そのものを、写すのではなく」
「写しません。陣は、彫ってある札のままです」
教授は黙って、紙と布と盤を順に見た。
「……たねは、なんだ。なにが、それを動かしている」
「たねは、ありません」
わたしは布を持ちあげた。
「紙と布に、ぜんぶ書いてあります。見えているものが、ぜんぶです」
教授はまた黙った。
「魔法は、神々の形だ」
やがて、ひくい声で言った。
「わたしらは、形を清く写す。なぜ動くかは、問わん。……問うものでも、ない」
「はい」
「だが、きみのそれは——形を、写しておらん」
「はい。順番だけを、書いています」
「順番、だけを」
教授はくり返して、言葉をさがすように口をつぐんだ。
おどろきと、おなじ量のとまどい。
この学院で、魔法は写すものだ。
何百年も、そうやってきた。
紙に字を並べて魔法を呼ぶやり方は、たぶんどの書物にも載っていない。
戸口の外から、べつの声がした。
「——神々の形を、記号に貶めるのか」
年配の教授だった。
長衣の胸の前で、ほそい指が組まれている。
責める声ではなかった。
もっと、痛んでいるような声。
「形には、御心が宿る。写すことは、祈りにちかい。それを、番号ですませるとは」
ティオが腰を浮かせた。
「貶めてなんか——」
「ティオ」
小さく止めた。
この人は、言い捨てに来たのではない。
祈りだったものが番号になる——その景色を、はじめて見た人の顔だ。
「……貶めるつもりは、ありません」
それだけ言った。
教授はしばらくわたしを見て、なにも言わずに廊下へ消えた。
うまく答えられたとは思えない。
でも、うそはついていない。
午後、カーン先生がこちらの台へ来た。
来た、というのは変か。
ここはもともとこの人の作業場で、わたしたちは隅を借りているだけだ。
でも、きょうはまっすぐだった。
「見せてみろ」
それだけ言って、しゃがみこむ。
節くれだった指が布をつまんだ。
穴の列を、はしからたどっていく。
針にふれた。テコの付け根を、押しては返す。
だまったまま、ながい。
戸口の見物はいつのまにか増えていて、先生がふりむくと散った。
「……針は、布を読む針だな」
「はい。村の機械とおなじ理屈です」
「送りは歯車。このテコは——水門か」
「水門です」
(——ぜんぶ、見える人だ)
さわれるところは、ぜんぶ。
カーン先生は鼻から息を抜いて、立ちあがった。
「理屈は、ぜんぶ既にあったものだ」
「はい」
「針も歯車もテコも、どこの工房にもある。新しい顔はひとつもない」
「はい」
「——ならべ方だけが、新しい」
ほめ言葉の形はしていなかった。
でも、この人の物差しならたぶん、上等の部類だ。
「順番どおりに、確かに動くのか」
「十ためして、十おなじでした」
「そうか」
膝がこきりと鳴った。
それから先生は、声をすこしだけ低くした。
「お前さん。ひとつ言っておく」
「はい」
「『書く』という言い方は、外ではしばらく仕舞っておけ」
「……え?」
「しるしの並び、で通る。順番の取り決め、でもいい。それでじゅうぶんだ」
「どうして、ですか」
「言い方の話だ。——それ以上は、わしの領分じゃない」
先生はそれきり、奥の台へもどっていった。
理由は言わない。
でも、あの人が意味のないことを言うのを、聞いたことがない。
(——「書く」が、いけない)
魔法を、書く。
その言い方の、どこがいけないのだろう。だれの、どこにさわるのだろう。
理事の人たちの耳にも届いている、とけさティオが言っていた。
ふいに、藍の長衣の背中がよぎった。
——唱えても、おらぬのに。
そうつぶやいて広間を出ていった、あの背中だ。
考えはそこで止めた。
いまのわたしに見えるのは、ここまで。
夕方、見物の波が引いたころ、そばかすの生徒がおずおずと入ってきた。
わたしより、すこし年下に見える。
「あの……たのみって、いいのか」
「うん?」
「寮の湯殿の、温めの陣。あれも、その盤でできるのか」
聞けば、湯殿の湯は夜のあいだに何度もさめる。
そのたびに夜番の上級生が起きだして、温めの陣を唱えなおすのだという。
「夜番、いつも寝そこなってて……朝、機嫌わるいんだ」
ティオがふきだした。
「切実だな」
「熱の札は、まだ作ってない。でも、理屈はおなじだから——」
書けるはず、と言いかけて、わたしは紙をひろげた。
温め。
湯がさめるまで、待ち。
また、温め。
また待ち。
それを、朝まで。
炭の先が止まった。
待ちの符号は、穴のない一列。
一列で、ひと呼吸ぶんの間。
湯がさめるのを待つには——その一列を、何百と並べることになる。
一度さめるまでに、何百。
それがひと晩に、何度も。
指を折って数えかけて、やめた。
布三枚では、きかない。
湯殿のひと晩ぶんの「待ち」だけで、この床が布で埋まる。
(——長い。長すぎる)
灯りと水の五列は、あんなに小さかったのに。
ほんとうの仕事をひとつ頼まれたとたん、符号の列は化けものみたいに伸びはじめる。
「……できないのか?」
そばかすの子が心配そうにのぞきこむ。
「できる。できる、けど」
わたしは書きかけの紙を持ちあげた。
書けたのはまだ、夜のいちばんはじめの一角。
紙のはしが机からたれて、ゆれた。
「——ずいぶん、長い詠唱になりそう」
■あとがき・解説
第206話は、詠唱盤の驚きが、はじめて「ふたりの外」へ出ていく話です。うわさと、当惑と、ひとつの忠告について書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「うわさは、勝手に歩く」——布が魔法をとなえる?
伝わった話は、どれも当たっていませんでした。布が魔法をとなえる。紙を食べる盤。でも、遠くから見ればきっとそう見えます。しるしの並びで手順を渡す——それだけのことが、口から口へわたるうちに呪いになったり食事になったりする。新しいものが世界に出ていくときは、たいてい、正しい形では出ていきません。
■「写す」と「書く」——写本主義の当惑
この学院で、魔法は写すものです。神々の形を清く写す。なぜ動くかは、問わない。だから「順番だけを書く」というリナのやり方は、怒りより先に、深い当惑を呼びました。祈りだったものが、番号になる。あの年配の教授の痛んだような声は、悪意ではありません。何百年の慣れ親しんだ景色が変わっていく音です。
■「書く、はしまっておけ」——カーン教授の忠告
仕組みをぜんぶ手でたしかめて、「ならべ方だけが、新しい」と乾いた認定をくれたカーン教授が、最後にひとつだけ言い方の注文をつけました。「書く」という言い方は、外ではしばらく仕舞っておけ。理由は言いません。それ以上はわしの領分じゃない、と。あの人が意味のないことを言ったことはありません。その言い方が、だれの、どこにさわるのか——リナにはまだ見えていません。
■「長い詠唱になりそう」——符号語の限界
そして最後に、そばかすの下級生が持ちこんだ小さな依頼が、次の壁を連れてきました。湯殿の温めの陣。書けるはずが、待ちの符号だけで床が布で埋まる。ほんとうの仕事を頼まれたとたん、符号の列は化けものみたいに伸びはじめます。もっと短く、もっと人に近いことばへ——次のまとまりは、そういう話になります。
次の話もお楽しみに。




