第199話 唱えても、おらぬのに
ざわめきは、まだやんでいなかった。
台の上では、ちいさな灯りがともりつづけていた。
「唱えず、だぞ。この目で見た」
「順を、紙に書いておくらしい」
壁ぎわの声が切れぎれに耳へとどく。
革の前かけの教授がカーン先生をつかまえて、なにか問うていた。
先生は腕組みのまま、みじかい返事だけを返していた。
「仕掛けの中身は、あとで図で話す。いまは、さわるな」
長衣の教授がひとり、台のまわりをゆっくり回っていた。
灯りをのぞき、金物をのぞき、首をかしげてまた灯りへもどる。
さわらないという約束だけはまもって、手はうしろに組んだまま。
わたしはまだ、台のよこに立っていた。
息はもどってきたのに、指の先だけがまだふるえていた。
十三の体は、頭よりずっとおくれて落ちつくらしい。
(——終わった。……ううん、終わったんだろうか)
そのとき、気がついた。
鳴るはずの音がしない。
とん、というあのかわいた音。
いちばんうしろの席で、白い髪が立ちあがっていた。
椅子の脚が石の床をこすって、みじかい音が高い天井にすいこまれる。
それだけで、広間のざわめきが波の引くようにしずまった。
だれもがうしろをふりかえる。
藍の長衣の人は、だれのことも見ていなかった。
その目は台の上のちいさな灯りに、据えられたまま動かない。
横顔から、血の気が引いて見えた。
怒っている顔では、なかった。
もっと、べつのなにか。
杖の先が床におりる。
いつもの、床を打つ「とん」ではなかった。
音を立てない、体を支えるためだけのつき方。
あの人は、ゆっくりと歩きだした。
だれも、声をかけない。
壁ぎわの人たちがすこしずつ体を引いて道をあける。
石の床に、くつの音だけがひくく落ちていく。
がらんとした広間がその音のぶんだけ広くなった気がした。
戸口へ向かう道のなかばで、一度だけ足が止まる。
灯りのほうへ、顔だけがもどった。
「……唱えても、おらぬのに」
ほとんど、聞こえない声だった。
しずまりかえった広間でなければ、届かなかったと思う。
「人の口を、通さずに……」
そこで、言葉が切れた。
つづきは、なかった。
藍の長衣がひるがえる。
おもい戸が開いて、閉じた。
広間がひと呼吸ぶん、しんとした。
「……なんだ、いまのは」
「気にさわったかね」
「お年だから」
壁ぎわで、笑いのまじった小声がした。
ちがう、と思った。
聞いた人のほとんどは、気むずかしい老人のひとりごとだと思っただろう。
でも、わたしは見てしまった。
灯りから目を離せないでいた、あの横顔を。
怒りなら、知っている。
あきれも、さげすみも、この学院でたくさん見てきた。
あれは、そのどれでもなかった。
血の気の引いた横顔。目だけが灯りに縫いつけられたまま。
(——おそれて、いた)
なにを。
問いがのどの手前までのぼってきた。
あの人は、なにを知っているんだろう。
王都の塔が動いたときも、あの人はなにかをひとりごとのように呟いて帰った。
でも、問えない。
なにをおそれたのですか、と聞けばきっとこう問い返される。
——お前は、なぜ、それが気になる。
その先は、だれにも見せられない場所につながっている。
わたしはのぼってきた問いを、そっと呑みこんだ。
呑みこんだ問いは、消えてくれない。
胸のおくの、ふだんは使わない棚にことりと載る。
いつか下ろす日が来るまで、そこに置いておくしかない棚だ。
灯りは、なにも知らない顔でともっている。
カーン先生だけが閉じた戸を、しばらく見ていた。
なにも、言わずに。
はりつめた空気がゆるんだのは、そのすこしあとだった。
遠巻きの輪がすこしずつ、縮んでくる。
ひとりの生徒が思いきったように、台へ近づいてきた。
名前を知らない、わたしより背のひくい男の子。
のぞきこむ先は灯りではなく、金物のほうだった。
「なあ。それ……どうなってるんだ」
「ためた石が力をわたして、ばねが火を出すの」
覚え書きの紙を、指でたどってみせる。
「順番は、この紙のとおり。だから、だれがやってもおなじ」
「……それだけ?」
「それだけ」
「魔力は、いつ使うんだ」
「使わない。石にためてあるぶんで、ぜんぶ足りるの」
男の子は、へんな顔をした。
わかったような、わからないような顔。
でも、その目はもう「灯らない子」を見る目ではなかった。
仕掛けを、見る目だった。
(——それだけ、に見えるなら、うまく組めたということ)
前世の机で、いつか教わった言葉だ。
かんたんに見えるものほど、底にかけた手間は見えない。
視界のすみで、絹の袖が動いた。
扇の令嬢と、目が合う。
なにも、言われなかった。
目もそらされなかった。
顎がちいさく引かれる。
人を見くだすときの引き方とは、ちがって見えた。
礼、というには浅すぎる。
でも、なにかをみとめた人の首の動きだった。
絹の袖がひるがえって、令嬢は輪のそとへ歩いていく。
追いかける言葉は、なかった。
いまはまだ、それでいい。
「見たか、いま」
ティオが横で、小さく言った。
「あの人たち、きみの盤の話しかしてないぞ」
得意げな顔。
自分のことみたいに、鼻のあたまをこすっていた。
「石を満たしたのは、だれだっけ」
「おれだ」
まよいのない返事に、ふきだしそうになった。
「かたづけろ」
カーン先生の声がした。
「品評は、しまいだ。……台をもとへもどすところまでが、品評だぞ」
「はい」
爪をもどして、蓄魔石を座から外す。
灯りがすっとちぢんで、消えた。
見ていた何人かがおしそうに息をついた。
ついさっきまで、灯らない子の置き物だったのに。
盤を布でつつんでいく。
金物の角をひとつずつ、たしかめながら。
ばねも、関も、ためる器も、朝とおなじ顔をしていた。
大きな仕事をした道具ほど、あとの顔はしずかだ。
(——魔法は、唱える者だけのものじゃない)
ずっと、そう思ってきた。
きょうこの広間で、それはわたしひとりの思いつきではなくなった。
みんなが見た。
唱えないのに、灯るのを。
でも。
(——これは、ひとつの陣だけ)
この盤が灯せるのは、あのありふれた灯りの陣、ただひとつ。
器のふかさも関のおもさも、あの陣に合わせて組んである。
ちがう陣を灯したければ、一から組み直し。
もっと多くの陣を。
だれの手でも、あつかえる形に。
道はまだ遠いけれど、ないわけじゃない。
——ここで、何を学ぶ。
入学の日、あの人はそう問うた。
きょうの灯りは、あの問いへの返事の半分だ。
動く、というところまでは見せられた。
でも「学ぶ」のこたえには、まだとどいていない。
学びたいものなら、もう決まっている。
それに、あの人はこたえを聞かずに出ていってしまった。
(——まだ、なにも終わってない)
むしろ、はじまったのだと思う。
ティオとふたりで、台をもとの場所へもどした。
がらんとした広間に、ひとの熱のなごりだけがうっすら浮いている。
朝、あんなに冷たかった石の床のこと。
もう、くつの底から冷えてはこなかった。
おもい戸を押すと、そとは昼の光だった。
祝祭の笛はまだ鳴っている。
とおくの通りから、揚げ菓子のあまいにおいが流れてきた。
朝とおなじ町のはずなのに、すこしちがって見えた。
行きかう人のあいだを、はやい足音がいくつか、学院のほうへ駆けていく。
「灯ったんだって」
「魔力なしで? まさか」
すれちがいざまの声はもう、あの広間のそとを走りはじめていた。
(——うわさの足は、はやい)
あしたの学院は、きょうまでとすこしちがう場所になっている気がした。
いいほうにか、わるいほうにかは、まだわからない。
わたしはかかえたつつみをすこし強くだきなおして、ティオとならんで歩きだした。
■あとがき・解説
第199話は、前話の続きの、まだざわめきのやまない広間から始まります。灯りはともったまま。カーン先生は質問攻め。そのなかで、鳴るはずの「とん」という音だけが鳴らない——白い髪の人が、席を立つ回です。
今回は、「唱えても、おらぬのに」「仕掛けを見る目」「返事の半分」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「唱えても、おらぬのに」——おそれの声
藍の長衣の人が漏らしたのは、ほとんど聞こえないひとりごとでした。怒鳴るのでも、責めるのでもなく。「唱えても、おらぬのに」「人の口を、通さずに……」——そこで言葉は切れて、つづきはありません。まわりの人たちは気むずかしい老人の癖だと笑いましたが、リナだけは横顔を見てしまいました。怒りでも、あきれでもない。見てはいけないものを見てしまった人の顔。あの人がなにをおそれたのか、それはこの話ではまだ、だれにもわかりません。リナ自身も、問いを胸の棚にしまうしかありませんでした。問えば、問い返されてしまうからです。
■「仕掛けを見る目」——遠巻きの輪が縮まるとき
名前も知らない男の子が、台へ近づいてきます。のぞきこむ先は灯りではなく金物のほう。「それだけ?」「それだけ」——このみじかいやりとりが、リナにはたぶん、どんなほめ言葉よりうれしいものでした。灯らない子を見る目ではなく、仕掛けを見る目。扇の令嬢は、なにも言いません。ただ目をそらさず、ちいさく顎を引いて去っていきました。言葉になる前の変化は、いつも所作から始まるようです。
■「返事の半分」——何を学ぶ、への途中経過
入学の日の問い——ここで、何を学ぶ。きょうの灯りは、その返事の半分です。動く、というところまでは見せられた。でも「学ぶ」のこたえには、まだとどいていません。この盤が灯せるのは、ありふれた灯りの陣ただひとつ。もっと多くの陣を、だれの手でもあつかえる形に——リナの目は、もう次の遠い道のほうを向いています。そして問いの主は、返事を聞かずに広間を出ていってしまいました。うわさは人より足がはやいもの。あくる日の学院が、どんな顔をしているのかは、次の話で。
次の話もお楽しみに。




